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「天にいます我らの父よ」

「天にいます我らの父よ」

本文:マタイの福音書6章9節

序論

1508年、教皇ユリウス2世がミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井に絵を描くよう命じた時、ミケランジェロは拒否しました。自分は彫刻家であって画家ではないと言ったのです。しかし4年後、彼が完成させた天井画は人類史上最も偉大な傑作となりました。

興味深いことに、この作品の構造をご覧ください。天井の中央には神がアダムを創造される場面があり、その周囲に旧約の預言者たちと異邦のシビュラたちが配置されています。しかし最も驚くべきことは観覧者の視線です。聖堂に入ったすべての人は自然に頭を上げて上を見上げることになります。ミケランジェロは単に絵を描いたのではなく、人間の視線を強制的に天に向けさせる神学的装置を作ったのです。

愛する兄弟姉妹の皆さん、「天にいます我らの父よ」という主の祈りの最初の句は、ミケランジェロの天井画のようなものです。私たちの視線を世の地平線から天の御座へと強制転換させる霊的建築術なのです。しかし問題があります。私たちは果たしてこの祈りが何を意味するのか正しく理解しているでしょうか。

1. 主の祈りは神が私たちをご自身の子どもとして呼んでくださる祈りです

皆さんが祈る時、誰が最初に始めると思いますか。私たちでしょうか、神でしょうか。これは単純な哲学的質問ではありません。これはキリスト教信仰の土台を決定する神学的問題です。

カール・バルトは『教会教義学』でこう言いました:「祈りは人間が神に上っていくことではなく、神が人間に降りてこられることである。」これがまさに核心です。私たちが「父よ」と呼ぶことができるのは、私たちの宗教的熱心や霊的努力のためではありません。神がまず私たちを子どもとして呼んでくださったからです。

創世記3章をもう一度読んでみてください。アダムとエバが罪を犯した時、何をしましたか。「そよ風の吹くころ、主なる神が園を歩まれる音が聞こえてきた。アダムと女は主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した」(創世記3:8)。

これが堕落の結果です。隠れることです。回避です。距離を置くことです。罪は神を「父」と呼ぶことができるすべての可能性を奪いました。イザヤ6章で預言者が「災いだ。私は滅ぼされる」と叫んだように、罪人は聖なる神の前に立つことができません。

イギリスの偉大な説教者スポルジョンはこう説教しました:「罪人が神を父と呼ぶことは、まるで反逆者が王を父と呼ぶようなものです。それは不可能です。いや、それは神への冒涜です。」

しかし驚くべきことが起こりました。ローマ8章15節をご覧ください:「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、『アバ、父』と呼びます。」

ここで「子とする」(υἱοθεσία、ヒュイオテシア)という言葉に注目してください。これはローマ法から取られた概念で、法的養子縁組を意味します。ローマ皇帝たちが後継者を得るために他の家の優秀な息子を養子に迎えたように、神は私たちをご自身の家族として法的に養子にしてくださいました。

これは単純な感情的関係ではありません。これは法的地位の変化です。私たちは今や神の相続人となりました。キリストと共に一つの体となりました。聖霊を通して神の御子イエス・キリストと結ばれ、その御子としての身分に与るようになりました。

バルトはこれを「三位一体的祈りの神秘」と呼びました。御父が永遠の昔から私たちを子どもとして予定され、御子が十字架でその予定を成就され、聖霊が今私たちの内でその成就を適用しておられます。

ガラテヤ4章4-6節がこれを明確に示しています:「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある人々を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。」

御子の受肉と十字架、そして聖霊の内住を通してのみ、私たちは「父よ」と祈ることができます。これがまさに主の祈りが神がまず始められた祈りだという意味です。

2. 主の祈りは神が私たちをご自身の御座へと上げてくださる祈りです

マタイの福音書が他の福音書と区別される独特な特徴があります。まさに「天」(οὐρανός、ウーラノス)への強調です。この言葉が新約聖書全体に273回現れますが、そのうち82回がマタイの福音書に集中しています。これは単純な偶然ではありません。マタイは意図的に「天」を自分の神学的主題語として使用しました。

しかしもっと重要なことは、マタイが「天」をどのように理解するかです。マタイにとって天は単純な物理的空間ではありません。それは神の統治が始まる所、すなわち神のバシレイア(βασιλεία)が住まわれる所です。

バシレイアを単に「国」または「王国」と翻訳するのは不十分です。この言葉は王の統治行為そのものを意味します。イギリスの新約学者ジョージ・ラッド(George Ladd)はこれを「神の力動的統治」(dynamic rule of God)と定義しました。

バプテスマのヨハネが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ3:2)と宣言した時、それは「神の王的統治が歴史の中に侵入して来た」という宣言でした。そしてそのバシレイアの具現体がまさにイエス・キリストです。

イエス・キリスト - 天から来られた天

バルトの有名な表現を再び引用すると、「イエス様は天から降りて来られた天です。」これは何を意味するでしょうか。

イエス様のバプテスマの場面をもう一度見てください(マタイ3:16-17)。「イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の霊が鳩のように下って、ご自分の上に来られるのをご覧になった。また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。』」

この場面で私たちは三位一体の完全な現れを目撃します。御父の声、御子の現存、聖霊の臨在が一つに収束します。そしてこのすべてが「天が開かれる」現象と共に起こります。イエス様は天と地の間の隔たりを埋められる方、いや、その隔たりを完全に取り除かれる方です。

では「天にいます我らの父よ」と祈るということは何を意味するでしょうか。

第一に、これは地理的移動ではありません。私たちが物理的にどこかに上って行くことではありません。これは存在論的転換です。私たちの観点、私たちの地平、私たちの座標系が完全に変わることです。

第二に、これは神の観点から現実を見ることです。世の雑音と混乱の上に立って、神の永遠の目的と計画を見つめることです。

スポルジョンはこれをこう表現しました:「祈りは神の観点から私の問題を見ることだ。私の観点から神を見ることではなく。」

Sursum Corda - 心を上げよ

初代教会から伝わる聖餐式で司式者は「Sursum corda」(スルスム・コルダ、心を上げよ)と叫び、会衆は「Habemus ad Dominum」(ハベムス・アド・ドミヌム、私たちは主に上げます)と応答しました。これがまさに主の祈りの精神です。

私たちは主の祈りを通して心と精神と魂を天の御座へと上げます。そこで私たちは神の栄光と聖さと完全なご意志を目の当たりにします。そしてその体験が私たちの祈りを根本的に変化させます。

3. 主の祈りは神が私たちをご自身の大使として遣わしてくださる祈りです

「我ら」の神学的意味

マタイの福音書の主の祈りがルカの福音書の主の祈りと区別される核心的違いは、「我ら」(ἡμῶν、ヘーモーン)という複数代名詞の使用です。これは単純な文法的違いではありません。これは祈りの本質に関する根本的な神学的宣言です。

個人主義が極度に発達した現代西欧社会で、祈りはしばしば個人的宗教体験に縮小されます。「私と神との個人的関係」という表現がこれをよく示しています。しかし聖書の祈りは最初から共同体的です。

教会論的祈りの次元

バルトは『教会教義学』IV/2でこう言いました:「キリスト者は一人で祈らない。彼は常に教会と共に、教会のために、教会として祈る。」これが「我らの父よ」の意味です。

私が「日ごとの糧をお与えください」と祈る時、それは私だけの必要を求めることではありません。私たちは「我らの日ごとの糧をお与えください」と祈らなければなりません。それは全世界の飢えた者たち、迫害される教会、苦しむ聖徒たちと連帯して捧げる祈りです。

スポルジョンの説教を聞いてみてください:「主の祈りには『私』という言葉が一度も出てきません。すべてが『我ら』です。これがまさにキリスト教の祈りの精神です。利己的な祈りはキリスト教的祈りではありません。」

神の国の大使職

「天にいます我らの父よ」と祈る者たちは今や特別なアイデンティティを持つようになります。私たちは天の国の市民でありながら同時にこの地に派遣された大使たちです。

第二コリント5章20節がこれを明確に宣言します:「こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」

大使(πρεσβευτής、プレスビューテース)は派遣した国の権威を持って外国で活動する者です。彼の言葉と行動は派遣した国を代表します。同様に私たちは天の国の権威を持ってこの地で神のご意志を実現すべき大使たちです。

祈りと宣教の統一性

ロイド・ジョーンズはこれを「祈りと宣教の弁証法的統一性」と呼びました。私たちは祈りを通して神の心を知るようになり、その心を持って世に向かいます。祈りは逃避ではなく派遣です。

イエス様の大祭司の祈り(ヨハネ17章)をご覧ください。「あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:18)。祈りの頂点は世への派遣です。そうです。私たちは派遣された場所で「天にいます我らの父よ」と祈るのです。

結論

1727年ドイツのヘルンフートで起こったことです。モラビア兄弟団の若い指導者ニコラウス・ツィンツェンドルフ伯爵がデュッセルドルフ美術館で一枚の絵を見ることになりました。ドメニコ・フェッティの作品「茨の冠をかぶったキリスト」でした。その絵の下にはこのようなラテン語の文句が書かれていました:「Ego pro te haec passus sum, tu vero quid fecisti pro me?」(エゴ・プロ・テ・ハエク・パッスス・スム、トゥ・ベロ・クイド・フェキスティ・プロ・メ?、私はあなたのためにこの苦難を受けた。ところであなたは私のために何をしたか?)

その瞬間ツィンツェンドルフの人生が変わりました。彼は自分の個人的敬虔と安楽な生活から抜け出して、神の国の拡張のための人生へと方向転換しました。彼の指導の下でモラビア兄弟団は18世紀最大の宣教運動を起こしました。100年間で100万人当たり60人の宣教師を派遣しましたが、これは現在のプロテスタント平均の60倍に当たる数値です。

何がこのような驚くべき変化を可能にしたのでしょうか。ツィンツェンドルフが個人的信仰から共同体的使命へ、個人的救いから神の国の拡張へと観点を転換したからです。彼はもはや「私の父」ではなく「我らの父」の観点から世界を見つめ始めました。

愛する兄弟姉妹の皆さん、これがまさに「天にいます我らの父よ」という祈りが私たちに要求する変化です。

第一に、この祈りは私たちを神の子どもとして呼んでくださいます。私たちの宗教的努力や道徳的達成ではなく、全的な恵みによってです。三位一体の神の救いの御業を通してのみ、私たちは「アバ、父」と呼ぶことができます。

第二に、この祈りは私たちを神の御座へと上げてくださいます。私たちの限られた観点から神の無限の観点へ、私たちの一時的計画から神の永遠の目的へと視野を転換させてくださいます。

第三に、この祈りは私たちを神の大使として遣わしてくださいます。個人的敬虔にとどまらず、神の国の拡張のためにこの世へと派遣してくださいます。

バルトの言葉をもう一度引用して終わりたいと思います:「祈りは神との出会いである。しかしその出会いの目的は、神なしに生きる世との出会いである。」

皆さんがこれから「天にいます我らの父よ」と祈る度に、これが単純な宗教的儀式ではなく、神の子どもとしてのアイデンティティの確認であり、神の御座から世を見つめる観点の転換であり、神の国の大使としての使命の再確認であることを覚えてくださいますように。アーメン。

 
 
 

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