バガモへのイエス様の手紙
愛する聖徒の皆さん、今日はヨハネの黙示録2章12節から17節にある主がバガモ教会に送った手紙を見てみましょう。 バガモはローマ帝国の重要な都市でしたが、クリスチャンたちには多くの試練があるところでした。 この都市はローマ皇帝崇拝と様々な異教信仰が横行するところでした。 イエス様はここを「サタンの権威があるところ」と呼びました。バガモ教会はまさにここに位置し、神の御座から統治を受けようとしました。
バガモ教会の状況contextを正しく理解するためには、まずバガモの都市の政治的、宗教的、地理的特性を知る必要があります。バガモはアジア地域の中でローマ皇帝の権力が強く影響する場所でした。サマーナに劣らない「ローマ皇帝崇拝の中心地」でした。 ここの人々はローマ皇帝の神殿に行って「皇帝が私の主(キュリオス)です」と言わなければなりませんでした。 また、ここの総督はローマ皇帝から「イウス・グラディ」という権限を受けましたが、翻訳すると「剣の権威」です。 これは直接死刑を執行することができる執行権を意味します。 それだけバーガモにはローマ皇帝の権威が猛威を振るう場所でした。
また、ベルガモには「アクロポリス」があります。アクロポリスとは「高い都市」という意味で、そこには神殿があります。 そのため、古代ギリシャ人にとっては神聖な場所とされていました。ベルガモのアクロポリスには、ゼウス、アテナ、ディオニュソス、アスクレピオスなど様々な異教の神殿がありました。 特に蛇の形をしたアスクレピオスは癒しの神として世界各国から人気がありました。 皆さんも一度頭の中で想像してみてください。街の丘の上に蛇の形をした神が鎮座しています。 その周辺にはローマ皇帝の神殿をはじめ、様々な神々の像が集まっています。私たちはなぜ主がバガモを「サタンの権勢があるところ」と言われたのか理解できます。
サタンの権勢と神の御座
権威」とはギリシャ語でθρόνος(θρόνος、英語でthrone)といいます。新約聖書で全部で62回使われていますが、そのうち76%にあたる47回が黙示録で使われています。θρόνος(θρόνος)は「権威または玉座」と訳され、権威と権力の象徴です。王や統治者が座る席で、それ自体が権威を表していました。 つまり、玉座は単なる椅子以上の意味を持つものです。
黙示録を見るとθρόνοςが47回出てきますが、結局は2種類のθρόνοςの玉座です。一つはサタンの権勢、もう一つはそれと比べ物にならないほど高く強力な権勢を発する神様と殺された小羊の玉座です!
主がバガモ教会に「あなたが住んでいるところは、サタンの権威があるところだ」と言われました。ローマ皇帝の神殿も、ゼウスとアテナ、治療の神もすべてサタンの手先に過ぎないのです。 バガモ地域は他のどの地域よりも悪の霊の勢力の影が濃くかかっているところでした。
現代社会の中のサタンの権威
今日、私たちが生きている都市にもサタンの権威が身近に感じられます。お金が強力な力を持って支配する世の中、目に見える美しさと肉体的な快楽のためにお金を求める世代、スリルと興奮のために一日中パチンカスに座っている人たち、新宿の夜の街に何気なく立ってお金をもらって自分の体を売っている若い女性たちが並んでいる都市の風景が、まさにサタンの権勢の下にある証拠ではないでしょうか。
サタンの権座が近いところにあるベルガボ教会の苦難と労苦
サタンの支配力が強く現れる場所で忠実なクリスチャンとして生きるということは、実に多くの忍耐と忠誠が要求されるに違いありません。
ブルガモの教徒たちは社会的、経済的な不利益を受けなければなりませんでした。ローマ皇帝の崇拝を強要され、皇帝に頭を下げなければ取引先を失い、家族が生計を立てなければなりませんでした。信仰を理由に逮捕され、拷問を受けることもありました。異教の祭祀(祭り)に参加しなければ、コミュニティから疎外されることもありました。様々な異教の信仰が混在する環境で、一人でイエス様を信じることで、家族や友人から排斥されることも多々ありました。 日本と似ているのではないでしょうか。
このように、バガモ教会の聖徒たちは信仰を守るために、命まで差し出さなければならなかったのです。
忠実な証人アンデバ
実際にバガモ教会にアンデバという弟子が信仰を守って殉教したことがありました。アンデバという人物についての情報はあまりありません。 ただ、彼がイエス様から「私の忠実な証人」と呼ばれたということと、彼の名前だけが残っています。まず、「忠実な証人」とは、1章5節ですでにイエス様に使われている称号です。 その「忠実な証人」であるイエス様が自らアンティバを「私の忠実な証人」と呼んだというのは、実に名誉な賛辞ではないでしょうか。 また、アンティバに関する貴重な手がかりは彼の名前です。ギリシャ語で「アンティパス」ですが、その意味は「父に対して」か「父に代わって」のどちらかです。忠実な証人であるイエスは「父に代わって」殺されました。アンデバもイエスと同じように「教会に代わって」殉教したと思います。
これを見ると、バガモ教会は、サタンの権威が近くにあったことは確かですが、それよりももっと近くに神と小羊の御座があったことがわかります。
アンデバと他の教会員がいた
アンディバは世の中から憎まれましたが、だからといって教会内で大きく認められなかったことが予想できます。 後でまた詳しく述べますが、バラムの教訓とニゴラ堂の教訓に従う人々は、決してアンディバのように生きる聖徒の生活を理解できなかったでしょう。
そうです。バガモ教会にはアンディバのように忠実な証人だけがいたわけではありませんでした。世と適度に妥協し、アンデバのような忠実な証人を異常な人扱いする聖徒もいました。 だから、バガモ教会は主から叱責を受けなければなりませんでした。 14節を見ると、イエス様が「あなたに叱るべきことがいくつかある」と言われるのを見ることができます。
イエス様の叱責:教会に浸透する異端的な思想
それでは、バガモ教会に対するイエス様の叱責が何であるかを見てみましょう。 イエス様の叱責は大きく二つに分けられます。一つ目は、バラムの教訓に従った者たちに対する叱責であり、二つ目は、ニゴラ党の教訓に従った者たちに対する叱責です。事実上、この二つは大同小異です。外部の物理的な迫害や迫害とは違って、間違った教理と教えが教会の中の聖徒たちの間で毒キノコのように広がり、巧妙に教会を崩壊させようとしたという点では似ています。
1) バラム(偽預言者)の教訓に従う者
バラムの教訓を守る者」とは、どのような人々を指すのでしょうか。バラムという人は、ヨハネの黙示録が記録された時期からなんと1,500年前にいた偽預言者です。民数記22~24章を見ると、モアブ王バラクはイスラエル民族を滅ぼそうと偽預言者バラムを買収して、イスラエル民族を呪わせます。 そこでバラムは丘の上に登ってイスラエル民族を呪おうと3回試みましたが、神様が介入して全て阻止してくださいます。 そうしてバラクの企みは失敗に終わったようでした。 しかし、次の章である25章を見ると、イスラエルの男たちがモアブの女たちと淫行に陥り、これによって神様が怒り、疫病で打たれます。この時、2万4千人もの死者が出ます。これがまさに、バラムの教えに従う者たちの最後の姿なのです。
神様がイスラエルの民を守るためにバラクの呪いまで防いで下さったのに、バラムの教訓に従って異邦人の神に仕え、淫行に陥り、自ら神の裁きを自招した人々、それが「バラムの教訓に従う人々」と言えます。
1500年が過ぎた後も、バラムの教訓はウイルスのように生き残り、教会と教徒を惑わしました。 そうすると、1900年が過ぎた今日も、「バラムの教訓」は教会内に浸透している可能性が高いです。偶像崇拝と淫行に注意してください。
神様はサタンの権勢からあなたの教会を守られますが、教会員自身が偶像に頭を下げ、淫行に陥れば、神様が自ら裁くということです。16節をご覧ください。 悔い改めなさい、そうしなければ、わたしはすぐにあなたのところに行き、私の口の剣で彼らと戦います」。
第二に、「ニゴラ堂の教訓」を守る者たちを戒められます。
当時、聖徒たちの生業をつなぐ事業の顧客のほとんどは、彼らの守護神をすべて持っていました。 この守護神に仕える祝宴に出席しなければ、顧客の嫌悪と排斥を受けることになり、これは取引停止や事業上のいじめを受けることを意味します。このため、聖徒の中の何人かは、祭祀のごちそうに出席し、偶像に捧げた食べ物を食べ、偶像に向かってお香を焚いても、心の中では偶像がないと言えばいいのだと自分を合理化しました。 "その程度なら、大丈夫だ、全部食べて暮らそうということだ、神様も全部理解してくれるだろう。"これがニゴラ党の教訓です。ニゴラ党の異端者たちは、この考えをさらに飛躍させて、「サタンと戦って勝つためには、サタンの活動方法をよく知らなければならないのでは?
このような妥協主義的な考えがバガモ教会の中に入り込み、多くの聖徒を惑わしました。非常に小さな妥協から始まったことが結局、偶像崇拝と淫行に陥ってしまいました。
最近、YouTubeに十分の一は聖書的ではないと主張する人たちがいます。 彼らの論理は何かというと、十分の一は旧約の律法なので、新約の時代にはしなくてもいいということです。 本当にそうでしょうか? イエス様は十分の一はしながら隣人に仕えないパリサイ人を叱責したのであって、十分の一をするなと言われたわけではありません。 聖書を見ると、十分の一はアブラハムの時から特別なことではなく、自然なことだと考えられていました。古代教会、中世教会、ヨーロッパ教会でも様々な方法で什分の一を受け継いできました。韓国教会の成長には什分の一の役割が大きかったと言えます。 しかし、最近、什分の一を異常なものと考え、聖書的ではないと言う人がいます。
このようなことを言う人は、十中八九、自分のためには数百万ウォン、数千万ウォン、数億も惜しまず、神と隣人には十分の一も惜しみません。自分の収入の十分の一も献身できない人が、どうして自分のすべてを神様に捧げることができるでしょうか。 私はあえてそのような人たちを、バラムとニゴラ党の教訓を守る人たちだと言えます。
什分の一を無理矢理したり、ごまかしたりしないでください。十分の一の十分の一がもったいないと思うなら、しないでください。しないだけではダメです。神さまをあなたの騙し屋にしないでください。神様が望んでおられるのは、皆さんの志願する心と真の献身です。
正直に言うと、私たちは皆、お金を惜しみ、愛する心があります。 しかし、それを否定し、主をもっと愛することを決意し、告白することが献身です。
マタイによる福音書6:21 お前の宝があるところには、お前の心もある。
イエス様を私の最高の宝とする人になってください。
今日、バガモ教会の中で発見された妥協主義的な信仰の態度が私たちにはありませんか? すでにあまりにも多くの部分を妥協してしまい、何から正しくすべきか分からない状況に置かれていませんか? もしそうなら、悔い改め、最初の愛を回復しなければなりません。
サタンの権勢に近いところで生きている聖徒の皆さん、アンディバのように忠実な証人になってください。 なぜなら、勝利する者に驚くべき約束を与えてくださるからです。
3.勝つ者に与えられる約束(17節)
ヨハネの黙示録で「勝つ者」とは、患難を避けて後退する者ではなく、「患難を耐えることによって」イエス様の統治に参加する忠実な証人を指しています(1:9)。そして、ここでの「勝利」の方法は、イエス・キリストの勝利、イエス・キリストの死と復活によって死の権勢を打ち負かすことを指します。
17節の御言葉を見ると、イエス様は勝利する者に二つのものを与えると言われます。「隠されたマンナと、また白い石を与える」と約束しています。これを報酬として考えてはいけません。報酬ではありません。
イスラム教のテロリストがなぜ自爆ベストを着ると思いますか? イスラム教の教義によると、彼らが天国に入るかどうかは、彼らの神アッラーだけが知っています。 しかし、良い行いをたくさんすれば天国に入る可能性が高くなるので、彼らは良い行いをたくさんするそうです。 しかし、確実に天国に入る方法があるのですが、それは「ジハード」という彼らが考える聖なる戦争で殉教することです。 つまり、彼らは天国に行くために殉教するのです。
キリスト教はそのように教えません。 私たちはすでに報酬はすべて受けています。 十字架につけられた強盗がどうやってイエス様に楽園を許されたのでしょうか? 信仰で受け取りました。 クリスチャンが死ぬほど忠実であることができる理由は、すでに、殉教さえも惜しくないほどのすべての報酬をすべて受けているからです。 復活の永遠の命、勝利に参加したからできるのです。
勝った者に与えるという「隠されたマナと白い石」は、報酬ではなく、信仰で得るものです。
まず、隠されたマナを与えてくださいます。これは、天の糧となって私たちの中に降りてこられたイエス様ご自身です。 この世の腐敗してなくなる糧ではなく、天の糧を望む者に、イエス様は隠されたマナとなります。 信じない人は、イエス様がなぜ糧なのか分かりません。聖徒たちは他の人が食べる牛肉のバーベキューを食べたくても、偶像の供物であるため拒否します。 そして、命のパンであるイエス様を所有します。
ヨハネの福音書6:48-51 (NKRV)
48わたしは命のパンである。 49あなたの先祖は、荒野でマナを食べたが、死んでしまった。
50 これは天から降りてくるパンであり、人が食べて死なないようにするものである。 51わたしは天から降りてきた生きているパンであり、人がこのパンを食べれば、永遠に生きる。わたしが与えるパンは、この世の命のためのわたしの肉である。
第二に、イエス様は勝つ者に白い石を与えると約束します。
白い石とは何なのかについて、非常に多くの意見があります。少なくとも10種類の解釈があります。私はその中から2つを紹介しようと思います。
(1)古代社会では、無罪投票や賛成票を投じるときに、白い石と黒い石を使うことがありました。有罪の場合には黒い石を、無罪と思う時には白い石を投げました。 この意味で、イエス様が世界を裁くために再臨される時に、イエス様を信じて忍耐して最終的に勝利する者に「白い石」を与えるということは、彼が偶像の供物に参加しないことで世の中では罪人扱いされながら生きていましたが、それが無罪を宣言することで最終的な勝利を得ることを意味します。
(2)もう一つの信憑性のある意見は、当時、奴隷または捕虜で構成されていた剣闘士に解放の証として与えるトークンとして白い石を理解することです。
当時、ローマ帝国初期に「ムネラ」と呼ばれる恐ろしい剣闘士競技がありました。 これはもともと貴族男性の葬儀儀式に由来する剣闘士競技でした。 その後、時間が経つにつれ、「ムネラ」は剣闘士の戦いを通じてローマ市民に娯楽を提供し、皇帝や貴族が自分の権力と富を誇示する道具として使われました。 このような「ムネラ」の性格はますます残酷になり、様々な形の戦闘や処刑が含まれるようになりました。
もともとは死者を称えるために、奴隷や囚人、囚人や反逆者を剣闘士にして殺し合いをさせることが目的だったため、ムネラは多くの剣闘士の命を奪いました。 ムネラ」では、囚人や反逆者が野生動物と戦ったり、他の剣闘士と戦わされたりしました。 しかし、囚人や反逆者はほぼ死が確定しており、たとえ試合を生き延びたとしても、観客の反応によって生死が決まりました。 この中にはキリスト教徒も含まれていました。
しかし、よく戦って最後まで生き残った剣闘士には、自由と解放の証として、ルディス(木刀)やテセラ(硬貨)が与えられました。 これを受け取った人は、二度と闘技場で命を賭けて戦う必要がなくなります。完全な自由と解放を得るのです!
当時、キリスト教徒はローマの神々を崇拝しないという理由で、ムネラで公開処刑されることが多かったのですが、これは単なる処刑ではなく、キリスト教徒の信仰を試し、彼らの死を通してローマ市民に警告を与えるためでした。
奴隷の剣闘士に解放の証としてルディス(木刀)やテセラ(硬貨)を与えたように、主は苦難と労苦と誹謗中傷に耐えたあなたの聖徒たちに完全な自由と解放のしるしである「白い石」を与えるという約束です。
ヨハネの黙示録21:4 すべての涙をその目から拭いてくださるので、もう二度と死がなく、嘆くことも、悲しむことも、苦しむことも、病むことも、再びはない、最初のものがすべて過ぎ去ったからです。
第三に、白い石に新しい名前が記されたことを知るようになると言われました。
主から白い石を受け取った者は、明らかに自由と解放、そして最後の勝利を意味することを知ることができます。 そして、白い石を受け取った者は、その白い石の上に新しい名前が書かれているのを見ることになるのですが、その名前は、彼が一生の間抱いて生きてきたイエス様の名前であり、その名前を受け取ることになります。ヨハネの黙示録では、その名前を受けるということが重要で、その名前を額に受けることになります(22:3-4)。この名前を受けた者だけが、子羊の婚宴に参加することができます。
締めくくり
今日は聖餐主日です。私たちはこの聖餐に参加することで、天の神と小羊の御座に向かいます。聖餐の餅は、イエス様が約束された「隠されたマナ」を象徴しています。私たちは聖餐を通して霊的に養われ、強くなります。聖餐に参加することによって、私たちはキリストの体に属する者としてのアイデンティティ、すなわち「新しい名前」を確認します。 また、聖餐はキリストの勝利を記念するものです。 私たちもその勝利に参加する者であることを覚えましょう。聖餐に参加し、私たちもアンディバのように忠実な証人になることを誓いましょう。
第一に、妥協しないでください: バラムの教訓やニゴラ党の教えのように、世の中と妥協する誘惑に打ち勝ちましょう。小さな妥協が大きな罪につながることを忘れないでください。
第二に、忠誠を尽くしてください: アンディバのように、困難な環境の中でもイエス様に忠実な生活を送りましょう。私たちの忠誠は決して無駄にはなりません。
第三に、霊的な糧に集中してください:イエス様が約束された「隠されたマナ」を切望し、この世の一時的な満足ではなく、永遠の命の糧を求めましょう。
最後に第四に、勝利を望みましょう:白い石と新しい名前の約束を覚えて、最後の勝利が私たちにあることを確信し、力を出して生きましょう。
私たちが生きているこの世界が時には「サタンの権勢」のように感じられるかもしれませんが、私たちにはそれを打ち負かす力があります。 それは「神の御座」からイエス・キリストが与えてくださる力です。今日、聖餐に参加し、私たちの信仰を新たにし、世界に勝ったイエス様の勝利に参加する人生を生きることを決意しましょう。アーメン。
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