ヴィクトル・ウィーゴーの「レ・ミゼラブル」と福音的な哀しみ
愛する聖徒の皆さん、今日は「嘆き」というテーマでお話をしたいと思います。 このテーマを始める前に、ヴィクトル・ウィーゴーの不朽の名作「レ・ミゼラブル」(悲惨で哀れな人々)の主人公ジャン・バルジャンの話をしたいと思います。
ジャン・バルジャンは、飢えた甥のためにパンを盗み、その罪でなんと5年の刑を宣告されます。到底納得できなかったジャン・バルジャンは、4度の脱獄を試みるが、かえって刑期が19年に増えてしまいます。 出所後、彼は社会から徹底的に見放され、極度の絶望に陥ります。
この時のジャン・バルジャンの悲しみはどのようなものだったのでしょうか。それは怒りと恨み、自己憐憫に満ちた嘆きでした。 彼は自分の惨めな境遇と世の中の不公平さを嘆き、「なぜ自分なのか」、「この不条理な世界でどうすれば生き残れるのか」、このような思いが彼を悩ませました。今日でも多くの人がこのように嘆いています。自分の不幸な状況、世の中の不条理、失われたものに対して悲しみ、怒ります。
しかし、物語は劇的な転換を迎えます。ジャン・バルジャンはミリエル司教に会うことになります。 彼は司教の家に泊まりながら銀の皿をこっそり盗んで逃げますが、警察に捕まり、再び司教の前に連れてこられます。 この時、司教は驚くほどジャン・バルジャンを包み込み、銀の燭台はなぜ置き忘れたのか、盗んだのではなく、自分がプレゼントしたものだと言います。
この事件は、ジャン・バルジャンの人生を一変させます。 彼の嘆きの性格も徹底的に変化します。今や彼の嘆きは、自分の過去の罪に対する深い後悔と悔い改め、そして世の中の苦しむ人々への思いやりに変わります。
彼は自分の正体を隠して市長になり、マドレーヌという名前で生活し、パンティンという不幸な女性を助け、彼女の娘コゼットを養女として献身的に育てます。さらに、自分を逮捕しようとするジャベール警部補を救うことさえします。
ジャン・バルジャンの変化した悲しみは、他者への思いやりと自己犠牲的な愛で表現されます。 彼の悲しみは、自分の境遇を嘆くことから、世界の不正と苦しみに対する深い痛み、そしてそれを変えたいという願望に変わりました。
この感動的な物語の中で、私たちは2種類の嘆きを見ることができます。一つは世俗的な嘆きで、自己憐憫と怒りに満ちたものです。 もう一つは、恵みを経験した後の嘆きで、悔い改めと愛につながるものです。
イエス様は山上の説教でこう言われました。 「嘆く者は幸いである、彼らは慰めを受けるからである」(マタイ5:4)。主は単に悲しむことを言われたのではありません。 主は、神の恵みを経験した後に来る、ジャン・バルジャンのような変化した嘆きを言われたのです。
今日、私たちはこの「祝福された嘆き」とは何か、どのように私たちの人生に適用できるかを一緒に見てみましょう。 世の中は私たちに嘆きを避けろと言います。しかし、イエス様は嘆き悲しむ者は幸いだと言われます。この逆説的な教えが私たちの人生にどのような意味を持つのか、深く考えてみる時間を持ちましょう。
1.現代社会の間違った嘆きの理解
悲しみを回避しようとする世の中の態度
テレビや講演を見ると、「泣かないで、頑張ってください!」 「前向きに考えてください!」 「笑ってください!そうすれば、エンドルフィン、ダイドルフィンが分泌されて健康になります。」。私たちは、このような言葉に慣れ親しんだ時代を生きています。もちろん、これらの言葉が全く間違っているわけではありません。 しかし、このような態度が行き過ぎるとどうなるでしょうか?
私たちは泣くべき時に泣くことができず、悲しむべき時に悲しむことができない状況に陥ります。まるで涙を流すことが弱い人の証であるかのように、敗者の姿であるかのように思われてしまうのです。
悲しみの本質を歪める世の中のやり方
一方、私たちの社会は極端な姿を見せています。「泣き療法「や」なみだかつ"のようなものが流行しています。彼らは言います。「泣くことでストレスが解消され、体内の毒素が排出される」と言うのです。
しかし、これが果たして聖書が言う本当の嘆きなのでしょうか?いいえ、これは単なる感情の出口を探すことに過ぎません。本当の問題の原因を直視せず、自分の限界を認めないまま、ただ一時的なカタルシスを求めるものです。 これはまるで深い傷にバンドエイドを貼るようなものです。 外面は覆われているかもしれませんが、その中の傷は依然として腐っているのです。
物質主義と快楽主義で悲しみを覆い隠そうとする試み
さらに、私たちの社会は、悲しみを物質主義と快楽主義で覆い隠そうとしています。「お金さえあれば幸せになれる」、「楽しみながら生きよう」という言葉が絶えず私たちの耳に聞こえてきます。テレビやSNSをつけると、絶えず豪華な生活の様子が映し出されます。超豪華な住宅、高級服、最新の電子機器...これらを見ると、「嘆く人」は似合わないですよね。 多分、これらのものは、私たちが泣くべき時、いや、泣かなければならない時に泣くことを妨げます。私たちの時代は悲しみを否定します。一方では、嘆きを歪曲します。 もう一方では、嘆きを物質と快楽で覆い隠そうとする試みの中にあります。
しかし、私たちはイエス様が言われた真の嘆きの意味を探さなければなりません。 「嘆き悲しむ者は幸いである、彼らは慰めを受けるからです」(マタイ5:4)。この御言葉に込められた深い意味を、私たちと共に探求する時間を持ちたいと思います。
2.人間と嘆きの関係
人間の不完全さと罪による悲しみ
事実、人間は生まれた瞬間から嘆き悲しみます。生まれたばかりの赤ちゃんを見てください。生きていくためにもがきながら嘆きます。生計を立てる大人になれば、嘆きは消えるのでしょうか。不確実性の中で嘆きます。伝道の書2:17を見ると、「これゆえ私は生きることを憎んだのは、太陽の下ですることが私にとって苦痛であり、すべて無駄で風をつかむためであるためである」人生の本質は嘆きです。
なぜ人間はこのように不完全で、苦悩の中で生きているのでしょうか。聖書はこれに対して明確な答えを示しています。ローマ書5章12節の言葉をご覧ください。
「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入ったので、このようにすべての人が罪を犯したので、死がすべての人に及んだのです。」
アダムの罪によって、私たち全員が堕落した状態に置かれ、その結果、苦しみと死という刑罰を受けるようになったのです。 これが、私たちが嘆くしかない根本的な理由です。
死の前での必然的な嘆き
ところが、このような死と呪いの前に置かれているので、嘆き悲しんで当然であるにもかかわらず、人々は嘆き悲しまないのです。 嘆き悲しみを忘れてしまいました。
ああ、神の御子であるイエス様も人間が置かれている悲劇的な現実を見て涙を流されました。 イエス様がラザロの墓の前で泣かれました(ヨハネ11:35)。神様は悲劇的な現実に置かれている人間を救うためにこの地上に来られたのに、実際に嘆くべき罪人たちは嘆かないというのが絶望です。
救われた民が入る天国はどのようなところでしょうか。 ヨハネの黙示録21章4節はこう言っています。「すべての涙をその目からふき取ってくださるので、二度と死がなく、嘆くことも、悲しむことも、痛むことも、再びはない、最初のものがすべて過ぎ去ったからです。」
この御言葉を注意深く見てみると、この御言葉は逆説的に、現在の私たちの人生が涙と嘆き、死と嘆きの音に満ちていることを示しています。 しかし、今日、人々が全く神様の前で涙を流し、嘆き、嘆き悲しむことはありません。
世の偽りの慰めと真の嘆きの必要性
皆さん、私たちはなぜこのように明らかな絶望的な現実の中にもかかわらず、まともな嘆きをすることができないのでしょうか。 その理由は、先ほど見てきたように、世の中が嘆きを否定し、歪曲し、物質と快楽で覆おうとするからです。
3.イエス・キリスト:真の嘆きの根拠
イエス様を通した嘆きの有効性
私たちはそれなりに嘆きながら生きています。 しかし、すべての嘆きが主の前で祝福されるわけではありません。 世俗的な悲しみ、自己憐憫に陥った悲しみは、むしろ私たちをより深い絶望に追い込むだけです。 (私は先週の金曜日の夜明け祈りの時間に「偽造された嘆き」というタイトルで、祝福と関係ない嘆きについて話したことがありますので、その説教を参照してください)。 では、どのような嘆きが私たちを祝福するのでしょうか。
それはイエス・キリストの嘆きです。使徒パウロは第二コリント7章10節でこう言っています。「神の御心に従う嘆きは、後悔することのない救いに至る悔い改めを成し遂げるものであり、世の嘆きは死を成すものである。」
私たちが嘆くべき理由を正確に知っているイエス様は、私たちのために嘆かれます。 そして、その嘆かれるイエス様が、私たちと神様の間の仲介者となります(Ⅰテモテ2:5)。 したがって、私たちはイエス・キリストの中で、私たちがすべき真の嘆きをすることができ、その嘆きがイエス様の中で神様に届くことができます。 ですから、イエス様を通した嘆きだけが真の意味を持つことができるのです。 ですから、「嘆く者は幸いである」という言葉は、「イエス様の嘆きに参加する者は幸いである」が正しいのです。
イエス様以外の嘆きの無効性
イエス様の外でする嘆きは無効です。どんなに真実で深い悲しみであっても、それがイエス様と結びつかなければ、神様の前では意味がありません。
聖書に出てくるユダの例を考えてみてください。 彼はイエス様を裏切った後、深く後悔しました(マタイ27:3-5)。しかし、彼の後悔は彼をイエス様に導くことができませんでした。 結局、彼の嘆きは絶望に終わりました。
十字架を通して明らかにされた罪の深刻さ
イエス様を通じた嘆きの核心は、まさに十字架にあります。十字架は私たちの罪の深刻さを最も明確に示す場面です。
皆さん、一度考えてみてください。罪のない神の御子がなぜそのような惨めな苦しみを受けなければならなかったのでしょうか。 それは私たちの罪のためです。 私たちの罪がどれほど深刻で恐ろしいものなのか、十字架を通して私たちは知ることができます。
イエス様は私たちに代わって吊るされた十字架でこう叫びました。
「私の神、私の神、どうして私を捨てたのですか"(マタイ27:46)
これは本来、罪人である人類が叫ぶべき「嘆き」です。 しかし、イエス様は私たちのために、そして私たちに代わってこの嘆きの場で嘆きをされました。 これは人類史上最も深い嘆きの瞬間と言えます。イエス様は私たちの罪を背負い、神様との断絶を経験されました。本当に嘆きの場に来られました。
そうです。私たちは、イエス様が走られた十字架の前で、真の悲しみを理解し、知ることができるようになります。私たちの罪のために神の御子がこのように苦しめられたという事実を深く悟るとき、私たちは真の意味で「嘆く者」になるのです。
愛する聖徒の皆さん、イエス・キリストこそ、私たちの真の嘆きの根拠となる方です。 彼を通して、私たちは私たちの罪を本当に悲しむことができ、神様に向かうことができます。 そして、このような嘆きこそ、イエス様が言われた「幸いな者」の姿なのです。
4.義人の嘆き:継続すべき嘆き
今、私たちはイエス・キリストの中での嘆きがどのようなものかを見てきました。 では、この嘆きは一度で終わるのでしょうか?いいえ、義人の嘆きは続けなければなりません。
世の不義に対する嘆き
イエス様を信じて義とされた私たちは、今、世界を別の目で見るようになります。私たちは世の不義と苦しみを見て嘆くようになります。聖書でロトの例を見てください。第二ペテロ2章7-8節はこう言っています。「無法な者たちの淫乱な行いで苦しんでいる義人ロトを救い出された(この義人が彼らの中に住み、日々その不法な行いを見聞きすることによって、その義人の心が傷ついたからです)。」
ロトはソドムとゴモラの罪悪を見て、心に苦しみを受けました。 これが義人の悲しみです。私たちもこの世の不義と苦しみを見て嘆くべきです。
神の正義のための渇望
義人の嘆きはまた、神の正義がこの地に実現されることを切望する心から生まれます。黙示録6章10節を見てください。「大声で呼びかけて言いました。"聖なる真理の大主宰者よ、地上に住む者たちを裁き、私たちの血を報われないのはいつまでなのでしょうか。」
これは殉教者たちの魂が神の裁きを請う場面です。 彼らはこの世の不義が正され、神の正義が実現されることを切望し、嘆き悲しんでいます。
神の国への熱望
最後に、義人の嘆きは、神の国への熱望として現れます。私たちは、この世界が神様の御心通りにならないことを見て悲しみ、神様の御国が完全に成就することを切に願います。ヨハネの黙示録5章4節を見ると、世界に対する神様の最終的な審判と救いが行われることを切望する使徒ヨハネの嘆きが出てきます。
イエス様が教えられた主の祈りを覚えていますか? 「あなたの御国が来ますように、あなたの御心が天で成就されたように、地でも成就されますように」(マタイ6:10)。この祈りはまさに義人の嘆きであり、同時に願いの表現です。
ヨハネの黙示録22章20節の「アーメン、主イエスよ、来てください」という告白も、義人の嘆きが込められた祈りです。私たちはこの世の苦しみと不義を見て嘆き、同時に主の再臨と神の国の完成を切に願うのです。
愛する聖徒の皆さん、私たちはイエス・キリストの中で義とされましたが、まだこの世界で生きています。 だからこそ、私たちの嘆きは続くべきです。世の不義を見て、神の正義を渇望し、神の国を望み、私たちは絶えず嘆き続けなければなりません。
このような嘆きこそ、イエス様が言われた「幸いな者」の姿であり、同時に私たちをより神様に近づける霊的成長の過程です。私たち全員がこのような義人の嘆きを通して、より成熟した信仰の道を歩むことができることを願っています。
5.結論:福音的な嘆きへの招待
愛する聖徒の皆さん、今日、私たちは「嘆き」というテーマを深く調べました。 世の中は私たちに嘆きを避けろと言います。しかし、イエス様は「嘆き悲しむ者は幸いである、彼らが慰めを受けるからだ」と言われました。 この逆説的な言葉の意味を私たちは今、少しは理解できるようになりました。
私たちは罪によって壊れた世界に住んでいます。私たちの不完全さ、世の不公平、そして死という現実の前で、私たちは嘆くしかありません。 しかし、この嘆きは絶望で終わりません。 イエス・キリストを通して、私たちの嘆きは意味を持ち、最終的に神の慰めにつながります。
皆さん、今、私たちに与えられた課題は何でしょうか。
まず、私たちは世の中の偽りの慰めを拒否しなければなりません。 物質と快楽で私たちの魂の空虚さを満たそうとする試みを止めなければなりません。
第二に、私たち自身の罪と世の中の不義の前で真摯に嘆くべきです。十字架を見つめながら、私たちの罪の深刻さを深く悟らなければなりません。
第三に、神の正義と神の国を渇望して嘆き続けなければなりません。 これは私たちの霊的成長のために必要不可欠です。
エレミヤ預言者の嘆きと願いを覚えましょう。エレミヤは哀歌書でこのように告白します:
哀歌2:11「私の目は涙で傷つき、私の腸が煮えくり返り、私の肝臓が地面に注がれたのは、娘である私の民が敗北し、幼い子供と乳飲み子たちが城の路上で混乱しているからである」。
3:21-22では、「わたしはこれを私の心に留めておいたから、私たちは希望があるから、主の仁慈とあわれみが無限であるから、私たちは滅ぼされないのです」。
エレミヤは深い嘆きの中でも、神の憐れみと憐れみを保持しました。 これがまさに福音的な嘆きの姿です。
皆さん、預言者の霊性は八つの福音と非常に密接に関連しています。八つの福音の終わりに該当するマタイによる福音書5章12節を見てください。イエス様は弟子たちを預言者の仲間入りをされました。 これを見ると、福音の嘆きは預言者の嘆きと変わりません。
私たちもエレミヤのように、この世界に向かって嘆きましょう。私たちの嘆きが単なる悲しみにとどまらず、神とのより深い関係へと進む通路となることを願っています。そしていつか私たちは「すべての涙をその目から拭いてくださる」(黙示録21:4)その日を迎えることになるでしょう。
そして、さらに一歩進んで、真の哀しみを忘れてしまった世の中の人々に祝福された哀しみを伝えましょう。イエス・キリストの十字架の哀しみを伝えましょう。
この言葉で今日の説教を終わります。 「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22:20)皆さんの上に神の慰めと平安が共にありますように。
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