イエス様の召しと十字架への従順(マタイ16:21-25)
先週に引き続き、イエス様の召しに従順する弟子というテーマで説教をします。 今日の説教も1日から3日までの新年聖会の時に4つのシリーズ説教をした中で3番目、4番目の説教をまとめたものですので、より深い内容を聞きたい方は、教会のYouTubeチャンネルにアップされている説教を聞いてみることをお勧めします。
先週の説教に続き、今日はイエス様の呼びかけに従順することは、まさに自分の十字架を背負って行くことだということをお話ししたいと思います。 先に先週の説教の御言葉を簡単に要約してお話しします。
聖書はイエス様を信じる人を指す呼称として「クリスチャン」よりも「弟子」という表現をはるかに多く使っているという事実を先週の説教でお話ししました。 ですから、私たちは弟子と聖徒を別々に区別して考えることを拒否しなければなりません。
では、弟子とは誰なのでしょうか? イエス様の呼びかけに従順して人生の一歩を踏み出す人です。 この一歩の意味は、今まで自分が追求してきた生き方と人生の価値を全面的に否定することだと申し上げました。ペテロは船と網を捨て、レビは税関を捨てました。
キリストを待ち望む人は、キリストが来られるまで、自分がしている仕事が「臨時雇用」に過ぎないという事実を認識しながら生きていかなければなりません。 そうすれば、自分に来られるキリストを喜んで迎えるだけでなく、すべてを捨てて、主が用意されたその道に、主が許された十字架を背負って、主に従って行くことができます。
イエス様の呼びかけは、もうすぐ崩壊し、滅ぼされる世界から抜け出すという訴えであり、出口に導くという救いの呼びかけです。 ですから、今日、主の呼びかけを受け、主日礼拝に出席した皆さんは、本当に幸いな人です。
しかし、この呼びかけを受けても、まだ昔の人の状況に留まっている人がたくさんいます。自分の過去や若い頃の信仰生活を誇らしげに思い出しますが、まだ自分自身から抜け出せない人がいます。自分が信じられること、自分の中で納得できること、納得できること、同意できることだけを行おうとする人たちです。事実、このような人々は、イエス様の呼びかけを聞いても、自分自身から一歩も外に出ていない状態です。
コロナパンデミック以降、聖徒たちの信仰生活のスタイルに大きな変化が起こりました。 その中で代表的なのが、YouTubeで説教や賛美を多く接するようになったという事実です。 以前は、主日に教会に来て礼拝に出席しなければ、神の御言葉を聞くことができませんでした。 そして、それが一週間の生活を始める聖徒に与えられる唯一の説教の言葉でした。 その言葉を一週間を通して反芻するように思い出し、黙想し、生活の中で適用しようとし、意味を探そうとしました。
しかし、今日、「先週の説教のタイトルと本文の御言葉は何でしたか」という質問に、果たしてどれだけの聖徒が正確に答えられるでしょうか。 この説教、あの説教を何度も聞きすぎて混乱したり、忘れてしまった」と言わなければならないでしょうか。
今日、聖徒たちが良質の説教は聞き続けたいが、従順はしない奇怪な形の信仰に変質する可能性があるという危機を皆さんも感じていますか?
150年前、韓国では聖書をこっそり持ち歩くために、福音書を一枚ずつバラバラに持ち歩いたそうです。 これをいわゆる「頁福音書」といいます。 当時の先輩たちは頁福音書をとても大切にし、これを暗記して黙想しました。今日、主日でも教会に聖書を持って来ない人もいます。
YouTubeの説教者たちは皆さんを知りません。あなたの敵が誰なのか、あなたの十字架が何なのか知りません。 しかし、イエス・キリストはあなた方をあなた自身よりもよく知っています。実際、イエス・キリストは肉体を着てあなたが置かれている状況の中に来られ、その状況から永遠のいのちへと導いてくださる唯一の救い主です。イエス様をYouTubeの説教者扱いをしてはいけません。
若い律法学者がイエス様を訪ねてきて、自分がどうすれば救われるかを尋ねます。 イエス様は、彼が神様の御言葉をよく知っていることを知っていて、そのまま守りなさい、そうすれば救われると言われました。 ところが、この若者は「誰が私の隣人ですか」と問い返します。
この青年がイエス様を訪ねた意図が明らかになりました。 ただイエス様の意見を聞いただけで、それ以上でもそれ以下でもないことが分かります。今日も聖書の言葉をこのように扱う人がどれだけ多いかわかりません。私の考えはこうなのに、聖書は何と言うのか、世の中はこのような雰囲気なのに、聖書は何と言うのか、正直言って、皆さんが説教を聞く時にも、このような態度を保っているのではないでしょうか。 聖書は許し、謝れと言いますが、そうすれば私は自尊心もない人になります」あるいは「牧師さん、他の教会ではこう言っていましたよ」「長老もそう言っていましたよ」。
サタンが最初の人類の心に葛藤を入れたのは、まさにこれでした。 神様はアダムに「善と悪を知る木の実を食べてはならない。食べた日には必ず死ぬ」これが最初の律法です。 これより具体的で明確な命令はないでしょう。 ところが、悪魔が来て葛藤を入れます。 神様が食べてはいけないと言ったのか」この言葉は何ですか? 神様の戒めを「解釈しなさい。分析しなさい。理由と原因を調べなさい」ということです。
サタンは私たちを神様から離して孤立させる者です。自分の考えに閉じ込めるのがサタンの戦略です。お金と物質に孤立させ、自分の体面と名誉と自慢の中に孤立させます。 もしかしたら、皆さんの中に、生きるかどうか悩んでいるものがありますか? なぜ悩んでいるのですか? なぜそれが必要なのですか? 人々の視線のせいではありませんか?
この若い律法教師は、自分が解釈する律法を守る人であって、律法を自ら制定されたイエスの言葉に従わなかったのです。
自己否定のつまずき
イエス様の呼びかけに従うためには、私たちは最も大きな障害となる自分自身を否定しなければなりません。
マタイによる福音書16章とマルコによる福音書8章を見ると、イエス様がご自身がエルサレムで苦難を受け、捨てられ、殺されることを宣言する場面があります。 これは人類の救いのためにキリストに必ず起こるべきことであり、神の約束です。 つまり、キリスト職の必然的なことでした。
ところが、この受難宣言を聞いた弟子たちは動揺し始めました。 特にその中のペテロはイエス様を妨害し、イエス様を叱るまでしました。苦難と見捨てられるようなことは決してあってはならないということです。 自分は褒められるだけで、快適な信仰生活を送りたいということです。
このようにキリストに必然的に起こるべき神の約束を妨害したペテロは誰でしょうか? 少し前までイエスをキリストと告白し、教会設立の使命を受けた者ではないでしょうか? 彼は教会を代表する者です。 しかし、彼は最初から苦難を受けるキリストの邪魔者になってしまいました。障害となりました。
ペテロがそうであったなら、今日の教会と私たちも十分にそうなり得るという事実を認め、真剣に考えなければなりません。
イエス様は言われます。「サタンよ、私の後ろに下がれ、あなたは神のことを考えず、むしろ人のことを考えるのだ"(マルコ8:33)
ペトロの強い抗議と不平は、彼が心から苦難を受けたくないという告白でした。 その不平は、キリストの必然的な苦難と見捨てられることを妨げるサタン的な行動でした。
愛するぐんま教会の聖徒の皆さん、イエス様が苦難を受け、見捨てられた者でなければキリストになることができなかったように、イエス様の弟子になることも、苦難を受け、見捨てられた者でなければ、イエス様と共に十字架につけられた者でなければ、弟子になることができません。
だれでもわたしに従おうとするならば
イエス様ははっきりと言われます。「だれでもわたしについて行きたいなら、自分を否定しなさい" しかし、ペテロが否定したのは自分自身ではなく、キリストでした。 それも3回も「私はこの人を知らない」と言いました。 イエスに従う者は、自分自身にこの言葉を言わなければなりません。 私は私を知らない」と否定しなければなりません。
自己否認は自己憐憫や自虐や禁欲の訓練などではありません。 自殺や安楽死は人間の頑固さによるものであって、自己否認の結果ではありません。 自己否認とは、もう自分を忘れて、イエス・キリストだけを知ることにしたことです。 自分の前に置かれた非常に困難な道を見るのではなく、「私に従え」と言われ、先頭に立って行かれるキリストだけを見ることが自己否認です。
親身になって用意してくださった道 - '私に従って来なさい'
主が「私に従うなら」と言われた意味は、イエス・キリストが自ら自分を追いかける者たちのために用意してくださった道があるということです。 主の呼びかけに従順して最初の一歩を踏み出した者たちは、自分を忘れてイエス・キリストに従ってその道を行くことができます。
十字架事件は偶発的な出来事ではありません。 イエス様が運が悪くて苦難を受けたわけではありません。 キリスト職を引き受けた者に必ず訪れる必然的な苦難であり、見捨てられることです。
イエス・キリストの弟子たちは、まさにその必然的な苦難と見捨てられることの道に入るのです。 しかし、その苦難と見捨てられることは本来自分のものでしたが、今はイエス・キリストのものであり、イエス・キリストとの結束、結合によって再び自分のものとして受け取ります。
また、イエス様は「自己を否定し、自己の十字架を負え」と言われました。 これは、自己の十字架がすでに最初から用意されているという事実を言います。 したがって、私たちに与えられた仕事は十字架を作ることではなく、十字架を背負うことだけが残っているのです。 自分が望む十字架を選んで負えるのではなく、すべての人に自分の十字架がすでに用意されており、これは神様が彼の十字架を決定し、適切な十字架を作られているということを言います。 つまり、すべての人は自分のために用意された分量の苦難と見捨てられることを耐えなければなりません。
イエス様の呼びかけから始まる十字架
では、十字架はいつ始まるのでしょうか? イエス・キリストの呼びかけから始まります。私たちは自分で死にたいと思うことはできません。 イエス・キリストの「私に従え」という呼びかけが先です。そうしてイエス・キリストが私たちの死と命にならなければなりません。呼びかけに従うことは、イエス・キリストの死と生に結びつくことです。 イエス・キリストの名前でバプテスマを受けることは、まさにそれです。
私の十字架は何ですか? お互いの重荷を背負いなさい
今、残された質問はこれです。 私が背負うべき十字架は何ですか?
私が背負うべき十字架は、イエス・キリストの中で、イエス・キリストとの連合の中で発見されなければなりません。 イエス・キリストが私たちの罪の重荷を背負われたのと同じです。 神様は私たち全員の罪の重荷をイエス・キリストに担わせました(イザヤ53:6)。イエス・キリストはそうして私たちの罪となり、恥となり、門の外に追い出され、捨てられました。 これがイエス・キリストが私たちの罪の重荷を負ってくださった結果です。もしイエス・キリストが私たちの罪の重荷を負って下さらなかったら、私たちクリスチャンはすべて自分の罪の重荷に押しつぶされて死んでしまうでしょう。
今、キリストは「あなたがたは互いに重荷を負いなさい」と言われます。 だから、クリスチャンは重荷を負う者になります。 キリストが私たちの罪の重荷を負われたように、私たちも兄弟、姉妹の重荷を負わなければなりません。私たちが必ず負わなければならない兄弟の重荷は何ですか? 彼らの罪です。私たちが兄弟の罪を負うことができる方法はただ一つです。私が参加したキリストの十字架の力によって彼の罪を赦すことしかありません。
イエス・キリストの十字架を負うという呼びかけは、彼に従うすべての人を赦しの交わりの中に導きます。赦しは弟子たちに命じられたキリストの受難です。
イエスと十字架の中で交わる時、自分の十字架を悟るようになります。
では、私たちは私たちが負わなければならない十字架が何であるかをどのように知ることができるのでしょうか。 苦難を受けたイエス様との十字架の中での交わりの時に、自分の十字架を悟ることができるでしょう。
キリストに従う者の証は「苦難」です。正しい教会の標識も苦難です。赦しの交わりがあるところです。十字架の自己を拒否した者、自分の命を他者による苦難と見捨てられることに捧げることを拒否する者は、教会の頭であるキリストとの交わりを失うことになります。
兄弟の罪を赦すことが苦難です。 しかし、その苦難の十字架の下で、私たちはイエス・キリストと結束することになります。 キリストに従う者は、キリストに従うことで、自分自身を失う者です。しかし、そうしてキリストと十字架の交わりを通して、再び命を取り戻すのです。
まとめ
キリストが存在するところには必ず弟子も存在します。弟子がいないということは、キリストがいないからです。
新年を始めるこの時点で、私たちは重要な選択の岐路に立っています。 今は時期ではない」、「状況が良くなったら」、「準備ができたら」という私たちの条件は、すべて昔の人の考えに過ぎません。私たち自身では、命に至る道を発見することはできません。 私たちは盲目なのです。召命の時と状況を決定されるのは、イエス・キリストのみです。 彼が「来なさい」と言われた時こそ、従うべきその時です。
皆さん、昔の人の存在の仕方から抜け出す道はただ一つです。イエス・キリストが私たちに来られ、今私たちを呼んでいるというこの事実の前に一歩を踏み出すことです。 これが私たちが新しい被造物になる唯一の道です。これ以上、自分が定めた条件と状況の中に留まらないでください。今この場で、主の呼びかけに応える第一歩を踏み出しましょう。
今日、私たちは二つの重要な真理を見ました。 第一に、イエス・キリストが私たちを召される時、具体的な十字架を与えてくださるということ、第二に、その十字架はまさに「お互いの重荷を背負うこと」であるという事実です。 特に、私たちはイエス・キリストとの十字架の結びつきによってのみ、この重荷を背負うことができることを悟りました。
1948年の旅順事件当時、共産党員だった安在善は孫養元牧師の二人の息子、東仁と東信を銃殺しました。 二人の息子の葬儀の日、孫養元牧師は説教台に上がり、こう言いました。 「私の二人の息子を殺した敵のために祈ります。 そして彼が悔い改めたら、私の三番目の息子として迎え入れます。」。
これが果たして可能なことでしょうか? 人間の力では不可能だったでしょう。 しかし、孫養元牧師はイエス・キリストの十字架を見ました。 私たちの罪を赦すために十字架で「父よ、彼らを赦し給え」と祈られたイエス様を見ました。 そして実際に安在善が悔い改めた時、彼を養子として迎え入れました。
イエス・キリストは弟子たちに新しい戒めを与えました。 「お互いの重荷を背負いなさい」ということです。 私たちが背負うべき最も重い重荷は何でしょうか? それは、私たちの兄弟姉妹の罪です。イエス様が私たちのすべての罪を背負われたように、私たちもお互いの罪を背負わなければなりません。 これが私たちが本当に負わなければならない十字架です。
ソン・ヤンウォン牧師がアン・ジェソンの罪を背負うことができたのは、彼がまずイエス・キリストと深い結束関係にあったからです。 彼は自分の二人の息子を失った深い苦痛の中でもキリストの十字架を見据えたからです。
今日この時間、あなたの心の中に思い浮かぶ人がいるでしょう。 あなたを苦しめた人、あなたを傷つけた人、どうしても許せない人...。その人の重荷を背負うことから始めてください。
そして、これを覚えておいてください。私たちがお互いの重荷を背負うとき、私たちは一人で背負うのではなく、イエス・キリストが私たちと一緒に背負うのです。 イエス・キリストとの結びつきの中で、私たちはお互いを許し、愛する力を得ることができます。
このような赦しと和解は決して容易ではありません。 しかし、私たちはイエス・キリストの十字架を見つめ、その十字架との結束によって不可能を可能にする力を得ます。
愛する聖徒の皆さん、今日、私たちもイエス・キリストの十字架の前に進みましょう。 そして、イエス・キリストとの深い結束を通して、この時代の重荷を共に負う者になりましょう。私たちのこのような小さな従順が、この地に神の国を成し遂げる貴重な種となることでしょう。アーメン。
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