1.導入:現代社会の憐れみの喪失「憐れむ者は幸いである、私たちが憐れまれるからです。」愛する聖徒の皆さん、私たちが生きているこの時代に最も欠けているものは何でしょうか?私はそれが「憐れみ」だと思います。 2021年10月、米国フィラデルフィアのある地下鉄で衝撃的な事件がありました。一人の女性がなんと40分間も性的暴行を受けている間、周囲の乗客は誰もその犯行を阻止したり、警察に通報したりしませんでした。 さらに衝撃的なのは、彼らがその場面を自分の携帯電話で撮影するのに忙しかったという事実です。このようなことは遠い国の話ではなく、2023年、東京・池袋駅近くでも男性が暴行を受けているにも関わらず、周囲の市民は阻止するどころか、スマートフォンで撮影に夢中になっていました。2021年には東京のJR山手線で、2022年には大阪の道頓堀の街でも同様のことが起こりました。他人の苦しみや不幸な状況を見て哀れむどころか、それを盗み見たり、撮影してSNSで共有するこの奇妙な現象を、私たちはどう受け止めるべきなのでしょうか。私たちの社会は他人の苦しみに対する共感能力を完全に失い、道徳的に鈍感になってしまいました。このような現象の根本的な原因の一つは、物質万能主義です。お金さえあれば何でも解決するという「物質万能主義」の世界では、お金が憐れみであり、お金が慈悲になってしまって久しいです。聖書ははっきりとこの世代を見習わないようにと言います。私たちは今、このような世代の中で、主の御言葉を生き抜くために召されていることを忘れてはなりません。今日私たちは、イエス様が言われた真の憐れみとは何か、私たちはこの時代の中でどのように憐れみを実践することができるかを一緒に見ていきたいと思います。
2.憐れみの本質と源泉イエス様はこうおっしゃいます。「憐れむ者は幸いである、私たちが憐れみを受けるからです。"主の御言葉によると、隣人に対する憐れみは、神との祝福された関係と相互に関連していることが分かります。 ですから、「憐れむこと」は、神との正しい関係から出発するものです。 このような祝福された関係にある人には相応に現れる傾向であり、気質が「憐れみ」であり、世界に対する態度が「憐れみ」です。しかし、ここで私たちが直面する問題があります。私たちの本性が自分以外の人を憐れむこととは程遠いということです。 私たちは本来、慈悲深い者ではなく、無慈悲な者であり、本来、情が多い人ではなく、無情な人たちです。本来、私たちは自分しか知らない利己主義者ではないでしょうか?私たちが他人を憐れむことができない根本的な理由は何でしょうか?ローマ人への手紙1章28節を見ると分かります。 心に神を置くことを嫌うから」。憐れみの源である神様を心に置くことを嫌うので、空っぽの心から出る憐れみがないということです。 神様がその中におられないと、無情な者、無慈悲な者になります。もし誰かが私たちに「誰でもいいから他人を憐れみなさい」と言ったら、私たちは「お前がやれよ」と反発することができます。 しかし、私たちにこの言葉を言われた方がイエス様です。神と敵対していた私たちを神と和解させてくださった方が「憐れむ者となりなさい」と言われます。 罪に染まった私たちの魂を自分の血で洗ってくださり、私たちにあなたの心を与えてくださった方が言われます。ここにいるすべての人は、神の憐れみ、つまり憐れみを受けた者たちです。例外的な人は誰もいません。 罪の中で生まれ、罪の中で生き、罪によって死ぬ人生を憐れむ方は、神様以外に誰もいません。 メル・ギブソンの映画「ファッション・オブ・キリスト」で苦難を受けるイエス様を見ると、本当に哀れだと思います。 しかし、なぜイエス様が苦難を受けなければならなかったかというと、神様が私たちを憐れんでくださったからです。イエス様は私たちに対する神の「憐れみ」です。神の憐れみが肉を着て私たちの中に来られ、私たちと同じように苦しみ、飢え、貧困に置かれました。 そして、さらに私たちの罪を背負ってゴルゴダの丘を登られました。 その丘を登る時、どれほど大変だったでしょうか。 しかし、主は十字架にかかって死ぬ瞬間まで私たちを憐れんでくださいました。ルカ:23:34 イエスは言われた、「父よ、彼らを赦してください、彼らは自分たちのすることを知らないからです。イエス様には、苦難よりも私たちに対する憐れみ、哀れむ心が大きかったことが分かります。まさに「神の憐れみ」であるイエス・キリストによって、私たちが救われ、神の民となり、神の子となったのです。 この世の誰も神の憐れみのイエスなしには、神の国に入ることができません。 私たちは今も引き続き神の憐れみの中で生きているという事実を信じなければなりません。私たちはこのイエス様を通して、日々、神の御座の前に大胆に進み、憐れみを得ることができます。今日の御言葉を読み返してみると、「さあ、ここに私の心をあなたに移植してあげるから、私の心で憐れむ者になりなさい」ということです。 私たちが憐れみを実践できるのは、まさにこのイエス様の心、神の憐れみが私たちの中にあるからです。
3.聖書に現れた憐れみの模範聖書には憐れみの意味を鮮明に示す二つの重要な例えがあります。一つ目は一万タラントのたとえです。マタイによる福音書18章を見ると、ある王に一万タラントを借りた召使いが登場します。単純に計算しても、今日の3兆4千億円に相当する膨大な金額です。 そのしもべには借金を返す能力が全くありませんでした。 そのような者が借金を免除される方法は一つしかありません。 王様が彼を憐れんでくれることです。 王様が彼を「憐れんで」くださるのです。 それで一朝一夕にすべての借金が免除されます。普通の憐れみを受けた者ではありません。ところが、この憐れみを受けた者が帰り道で自分の仲間と出会います。 彼は自分に百デナリオンを借りていたのですが、まだ返済していませんでした。さっきまで自分が憐れみを受けたことを忘れたまま、仲間の頬杖をつかんで振り回します。仲間がひれ伏し、「我慢してくれ、すぐに返すから」と懇願しますが、憐れみを受けた者は憐れみもせず、むしろ彼を牢屋に閉じ込めてしまいます。この知らせを聞いた王は彼を呼び出し、こう言います。「悪しきしもべよ、あなたが懇願して、私があなたの借金を全部免除してあげたのだから、私があなたを憐れむように、あなたもあなたの仲間を憐れむのが当然ではないか。」そう言って、主人は怒り、その借金を全部返すようにオクゾルたちに渡します。神さまは、神さまに憐れまれた者が他の人も憐れむことを望んでおられます。二つ目は善きサマリア人のたとえです。ルカによる福音書10章にあるこの物語は、真の憐れみとは何かを示しています。エルサレムからエルサレムからエルサレムに向かう途中、あるユダヤ人が強盗に襲われて死にかけました。祭司が通りすがりに彼を見かけましたが、祭司の不正を避けるためにそのまま通り過ぎてしまいました。レビ人もそうでした。 祭祀はしますが、「憐れみ」がない者たちの姿です。ところが、ユダヤ人が嫌うサマリヤ人が彼を見つけ、哀れみました。油とワインで傷を洗い、消毒し、自分の獣に乗せて宿屋に連れて行き、世話をします。宿屋の主人に2デナリオンを渡して彼の世話を頼み、余分な費用が必要であれば、戻ってきたときに支払うことを約束します。イエス様は問いかけます。「誰が強盗に会った人の隣人か?" 答えは明確です。 慈悲を与えた人です」つまり、憐れんだ人です。- 祭祀より憐れみを望まれる神様神様は「憐れみ」がどれほど好きなのか分かりません。祭祀よりも憐れみを望んでおられると言われました。マタイによる福音書12:7を見ると、イエス様が「私は憐れみ(慈悲)を望み、祭祀を望まない」とおっしゃいますが、これはホセ記3章3節の御言葉を引き合いに出されたものです。 つまり、神様も、イエス様も、私たちに望まれる真の礼拝は、礼拝だけでなく、人生で「憐れみ」を施すことです。この二つのたとえは、私たちに重要な教訓を与えてくれます。第一に、私たちは神様から大きな憐れみを受けた者であるため、当然他の人を憐れむべきであるということです。 第二に、真の憐れみは宗教的義務や形式を超えた実際の行動でなければならないということです。祭祀よりも憐れみを望まれる神様の心がここにあります。
4.憐れみの対象と実践では、私たちは誰に、そしてどのように憐れみを実践すべきなのでしょうか。 イエス様の育成でこの言葉を聞いた者たちは、ほとんど貧しい者、疎外された者、人生に疲れた人たちでした。 つまり、彼らこそ憐れみを受けるべき人たちでした。 ところが、イエス様は弟子たちにこの言葉を言われたのです。 "あなたがたは憐れみなさい」これはまるで、5千人もの飢えた人々を前に、イエス様が弟子たちに「お前たちが食べるものを与えなさい」と言われたようなものです。私たちは言います。「主よ、私を見てください。私の鼻は真っ黒です。私こそ憐れまれるべきです。 私を憐れんでください」しかし、主は「あなたがたは与えなさい、あなたがたは憐れみなさい」と言われます。愛する聖徒の皆さん、皆さんはすでに憐れみを受けた者であることを信じますか? もしそうなら、皆さんはこの世の誰よりも多くのものを所有している者です。 拒否です。皆さんは、霊的な生活が肉体的な生活よりも重要であることを知っている人たちです。肉体の満足より霊的な満足をより優先する人です。成熟した聖徒は、他の人の魂を憐れむ心を持っています。他の人を見る時、その人の外見、ブランド、所有物ではなく、その人の魂の状態を見ようとします。 そのため、皆さんは世界を不憫に思うことができるのです。そうです、魂を憐れむということです。私たちが救済と後援をする時に覚えておくべきことは、魂の救いと安定のためにしなければならないということです。 そしてこれは私ではなく、まず私を憐れんでくださった主の心で、主の代理人としてすることです。愛する聖徒の皆さん、私たちが隣人を「憐れむ」ことが知らず知らずのうちに生活の様式となり、態度になっていくことを願っています。思いつきですることではなく、隣人に接する私たちの姿勢が憐れみにならなければなりません。 そうしないと、イベント的に何回かやって終わり、やるたびに「まあ、私は憐れむ者だ」という自画自賛に陥るかもしれません。マタイによる福音書25章を見ると、主はこう言われます。「わたしが飢えたときに、あなたがたは食べるものを与え、喉が渇いたときに飲ませ、旅人になったときに迎え入れ、裸になったときに服を着せ、病気になったときに世話をし、牢獄に入れられたときに来て見た" ところが、義人たちは「主よ、私たちがどのようなときにそうしたのですか」と尋ねます。本当の意味で憐れむ者は、自分が憐れんでいるという事実を認識していません。今日は群馬マラソン大会がある日です。 だから、道路のあちこちを規制しました。 数多くの人がマラソンに参加したでしょう。 憐れみ深く」生きるとは何でしょうか? 一人で1位になるという生活態度から出てくるものではありません。 私たちは皆、忙しい日常を生きていますよね。 他人を助ける時間がどこにあるのでしょうか? 競技の最中なのに、転んで倒れた人をどうやって助けるのでしょうか? このような態度や姿勢がこの世の価値観であれば、主はその人の隣人になれと言われます。 では、誰が隣人でしょうか? 憐れみ深い者が隣人です。憐れみ深い者の人生の目標は1位ではなく、共に天国に入ることです。
結論:憐れみの実践への召し 愛する聖徒の皆さん、私たちは無限競争社会に生きています。誰もが先を行く人に追いつくために息を切らして走っています。より高い高地に登るために、先に行く人によく見せようとお世辞を言いながら生きています。 しかし、憐れむということは、行く道を止めて、遅れている人に、落ちた人の友達になってあげることです。 憐れみは「一緒に行くこと」です。私は今日、皆さんに具体的なチャレンジをしたいと思います。第一に、私たちの視線を変えることです。 携帯電話の画面から目を上げて周りを見てください。毎日出会う隣人、職場の同僚、学校の友達を新しい目で見てください。 彼らの外見ではなく、魂の状態を見るようにしてください。誰かが今この瞬間にも、深い苦しみと孤独の中で一人の本当の友達を待っているかもしれません。第二に、小さなことから始めましょう。思いやりを実践することは大げさなことである必要はありません。 一食の食事を振る舞うこと、心からの慰めの言葉をかけること、少しの時間を割いて話を聞いてあげることから始めることができます。イエス様も五つのパンと二匹の魚から始められたことを覚えておいてください。第三に、最高の憐れみである伝道に励んでください。 伝道」とは、単に宗教を伝えることではありません。 永遠の命の道に彼らを招待することです。 これほど大きな憐れみがどこにあるでしょうか。 あなたの隣人となり、友人となり、彼らと一緒に永遠の命の道を歩むように招待することです。第四に、神の憐れみを毎日覚えてください。私たちが他の人を憐れむことができるのは、神様が先に私たちを憐れんでくださったからです。 今日、私たちが聖餐式を通して食べて飲むのは、この神の憐れみです。 この憐れみを思い出すたびに、私たちは他の人に対する憐れみの心を回復することができます。愛する聖徒の皆さん、神様は憐れみのない礼拝者を嫌われます。マタイによる福音書12章7節でイエス様は「わたしは憐れみを望み、祭祀を望まない」と言われました。私たちの礼拝が単なる宗教的な儀式にとどまらず、生活から溢れ出る憐れみの実践になることを願っています。この一週間、皆さんの日常生活の中で一人でもいいので、その一人に対してイエス様の憐れみを実践してみませんか? それが小さな笑顔かもしれませんし、温かいお茶の一杯かもしれませんし、心のこもった祈りかもしれません。 そして、その一人を通して経験することになるでしょう。 イエス様が言われた「憐れみ深い者が受ける祝福」が何であるかを。私たち全員がこの憐れみの人生に進む時、この無情で冷たい世界は少しずつ変わっていくことでしょう。 イエス様の憐れみが私たちを通して溢れ、多くの魂が神の愛を経験することができるように、主の御名によって祝福します。アーメン。
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