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三位一体を「あなた」として出会う

三位一体を「あなた」として出会う

本文:使徒行伝7章54-60節

序論:神様を「あの方」から「あなた」へ

愛する聖徒の皆さん、今あなたは何人の人と親しい関係を結んでいますか?カカオトークやLINEの友達リストを開いてみると、おそらく少なくとも数十人から多くは数百、数千人がいることでしょう。さらにFacebook、Instagramを通じて世界中の人々とつながっています。しかし、本当に心の内を打ち明けることができる人は何人いるでしょうか?

現代人は数多くの人々とつながっているものの、真の関係はますます難しくなっています。オンラインでは24時間コミュニケーションを取っていますが、肝心の深い対話は消えていっています。その人の投稿やコンテンツに「いいね」をして、コメントを残しますが、本当の心を分かち合う出会いを持つことは多くありません。

神様との関係も同じかもしれません。私たちは神様の存在を信じ、教会に来て礼拝も捧げます。聖書を読み、勉強もします。しかし、依然として神様は聖書の中の神様、教理として認識される神様、概念的な神様、言い換えれば遠くにおられる「あの方」としてのみ接することが多いのです。神様について話はしますが、神様と直接対話することはできません。頭では神様を知っていますが、人格的に「あなた」と呼んで真の関係を結ぶことができないのが問題です。

しかし、今日の本文に登場するステパノは違いました。彼は殉教の瞬間にも三位一体の神様を生き生きと体験しました。55節をご覧ください。「ステパノは聖霊に満ちて天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て」彼は聖霊に満ちて天の栄光を見、イエス様を神の右におられるのを見たのです。

そして59節はステパノが息を引き取る直前です。「人々がステパノを石で打っていると、ステパノは主に呼びかけて言った。『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』」彼は「主イエス様、私の霊を受けてください」とイエス様を直接呼んで対話したのです。神様を「あの方」として説明したのではなく、「あなた」として呼んで人格的に出会ったのです。

これこそが私たちが追求すべき信仰の姿です。三位一体の神様は本質的に関係的な存在であり、私たちを愛の交わりの中へと招いてくださいます。聖書は「神は愛である」と宣言します。愛は関係なしには存在できません。神様は愛であるがゆえに、永遠から父、子、聖霊が完全な親密さと喜びの関係の中におられたのです。

その神様が私たちをその豊かな交わりの舞踏に共に参加させようと招いてくださいます。私たちを単純に被造物や僕として扱われるのではなく、子として、友として、神殿として迎え入れて親密な関係を結びたいと願っておられるのです。

今日、私たちは三位一体主日を迎えて、父、子、聖霊三位の神様がそれぞれどのように私たちと人格的関係を結んでくださるのか、そして私たちがどのようにその関係に応答すべきかを共に見てまいりましょう。

1. 父なる神様は私たちを「お父さん」と呼べる子としてくださった

まず近づいてくださる神様

ステパノが議会の前で証言した救済史を見ると、神様はいつも先に近づいて名前を呼び、関係を始められる方であることが分かります。

本文2節をご覧ください。「栄光の神が、わたしたちの先祖アブラハムに、彼がハランに住む前、まだメソポタミアにいたとき現れて」アブラハムが偶像の地にいたとき、栄光の神が先に現れて語られました。アブラハムが神様を探したのではなく、神様が先にアブラハムを訪ねて行かれたのです。

モーセの場合も同様です。30節を見ると「四十年たったとき、シナイ山の荒れ野で、柴の燃える炎の中に、天使が彼に現れた」神様が燃える柴の中に現れられました。そして31節では「モーセがこの光景を見て不思議に思い、もっとよく見ようとして近づくと、主の声が聞こえた」とあります。神様が親しく御声で語られたのです。

出エジプト記を見ると、神様は「モーセよ、モーセよ」と親しげに名前を二度も呼んで関係を結ばれました。これが私たちの神様の性質です。遠くから命令だけをされる方ではなく、近くに来て名前を呼び、親密な関係を望まれる方です。

皆さん、神様があなたを先に訪ねて来られました。あなたが教会に来るようになったことも、イエス様を信じるようになったことも偶然ではありません。神様が先にあなたの名前を呼び、ご自分との関係へと招かれたのです。(神様はあなたを「彼」ではなく「あなた」と呼ばれます。)

養子縁組の恵み

ガラテヤ4章6節も「あなたがたが子であることは、神が『アッバ、父よ』と呼ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」と宣言しています。

聖霊が私たちに神の子としての確信を与えて、大胆に「アッバ、父よ」と呼ばせてくださるということです。ここで「アッバ」はアラム語で幼い子が父親を呼ぶときに使う最も親しげな呼称です。まさに私たちが「お父さん」と呼ぶのと同じです。

ある家庭に養子に迎えられた子供を考えてみてください。最初はぎこちなく、よそよそしいかもしれません。新しい両親ができましたが、「おじさん」あるいは「おばさん」と呼ぶかもしれません。しかし、新しい両親が真心で愛し、世話をしてくれるうちに、ある瞬間その子が自然に「お母さん、お父さん」と呼ぶ瞬間が来ます。その時、両親にとってそれ以上に嬉しい瞬間はないでしょう。その呼び方は関係が本当に結ばれたという証しであり、愛の交わりが始まったという合図だからです。

神様も私たちが躊躇することなくその方を「お父さん」と呼ぶとき、大きな喜びを味わわれます。私たちはもはや僕でも孤児でもなく、神様の息子と娘なのです。

完全な父の愛

もしかして皆さんの中で父親との関係が大変だった方はいませんか?父親があまりにも厳格だったり、無関心だったり、全く不在だった経験のために、神様を父と呼ぶのが難しいでしょうか?

天の父は、この地の不完全な父親たちとは違います。天の父は放蕩息子を迎える完全な愛の父です。ルカ15章の放蕩息子のたとえを思い出してください。次男が家を出て放蕩に生活し、乞食のような姿になって帰ってきたとき、父親はどうされましたか?

「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)父親は息子がまだ遠くにいる時から待っていました。そして息子を見るやいなや走って行って抱きしめ、口づけをされました。

私たちが弱って倒れても父の権能で支えてくださり、私たちが罪を犯し失敗しても悔い改めて立ち返るとき、両手を広げて走って来て抱きしめてくださる方が私たちの天の父です。

私たちは日常の大小すべてのことを父にお話しして親しく交わることができます。職場で大変なことがあるとき「お父さん、助けてください」、家庭に問題が起こったとき「お父さん、知恵をください」、嬉しいことがあるとき「お父さん、ありがとうございます」と自然に話しかけることができます。

イエス様が教えてくださった祈りの最初の言葉も「天にまします我らの父よ」です。今や私たちは大胆に神様に「お父さん」と呼んで進み出ることができるのです。

2. 子なるイエス様は私たちを「友」と呼び、最も近い関係を結んでくださった

ステパノを迎えるために立たれたイエス様

再び本文に戻ってみましょう。ステパノが殉教するとき、イエス様は神の右に立っておられ、彼と直接対話されました。56節をご覧ください。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」

ここで注目すべき点があります。一般的に聖書はイエス様が神の右に「座って」おられると表現します。しかし、ここでは「立って」おられると言いました。なぜイエス様は立っておられたのでしょうか?

多くの聖書学者たちは、イエス様がステパノを迎えるために立ち上がられたのだと解釈します。まるで貴いお客様を迎えるときに席から立ち上がるように、殉教者ステパノを迎えるために立ち上がられたのです。なんと感動的でしょうか?天の御座の主が死にゆく一人の聖徒のために立ち上がられたということが。

そしてステパノはイエス様を神と同等の方として扱い、「主イエス様、私の霊を受けてください」と直接祈りました。これはイエス様と私たちの関係がどれほど親密でありうるかを示しています。ステパノは石で打たれる極限の苦痛の中でも、イエス様を見つめて対話しました。まるで隣におられる方にお話しするかのように自然にお話ししたのです。

友と呼ばれたイエス様

イエス様は天の御座の栄光を捨てて人間となられ、私たちを友と兄弟にしてくださいました。ヨハネ15章15節で主は驚くべき宣言をされます。「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」

考えてみてください。神の子であるイエス様が私たちのような罪人を「友」と呼んでくださるとは。イエス様はあなたを「その人」や「そいつ」ではなく「あなた」、「わたしの愛する者よ」と呼んでくださる方です。このために人となってわたしたちの中に来られたのです。

日常で出会うイエス様

私たちは日常のすべての瞬間にイエス様と友人のように対話し、共に歩むことができます。最近のような忙しい時代に友人とコミュニケーションを取る方法はたくさんありませんか?カカオトークで安否を尋ね、電話で対話し、一緒に食事をして心の内を分かち合います。

イエス様との関係も同じです。通勤路で「主よ、今日一日も共にしてください」と話しかけてみてください。昼休みに「主よ、今の私の心をご存知ですね?」と対話してみてください。退勤路で「主よ、今日大変でしたが、共にしてくださって感謝します」と感謝を表してみてください。

イエス様はマタイ28章20節で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されました。私たちはどんな瞬間も一人ではありません。私たちの救い主であるイエス様がいつも傍にいて、私たちを友人のように助け、兄のように導き、時には花婿のように慰めの愛を注いでくださいます。

3. 聖霊なる神様は私たちの内に住まわれ、神様を実際に体験させてくださる

聖霊に満ちたステパノの体験

再び本文を見ましょう。聖霊に満ちたステパノは天の栄光を見、イエス様を見ることができました。55節で「ステパノは聖霊に満ちて」とまず言及されます。ステパノの特別な体験は彼の霊性や敬虔さのためではなく、聖霊が臨まれたために可能だったのです。

ステパノはまた議会の前で頑なな人々に向かってこのように叱責しました。「かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたたちは、いつも聖霊に逆らっています。あなたたちの先祖が逆らったように、あなたたちもそうしているのです」(使徒7:51)

聖霊に逆らう者たちと受け入れる者たちの間には全く異なる次元の経験が起こります。聖霊に逆らう人々は神様の御声を聞けず、神様の業を見ることができません。反対に聖霊を受け入れる人々は神様の臨在を体験し、イエス・キリストの内に働かれる神様の愛を実際に感じるようになります。

第一コリント2章12節は「わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです」と宣言します。つまり、聖霊をお迎えすると、神が与えてくださったすべての恵みと愛を実際に悟るようになるということです。

私たちの内におられる聖霊様

聖霊様が私たちの内に住まわれることによって、私たちの心が神様の神殿となりました。第一コリント6章19節は「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分のものではないのです」と語っています。

考えてみてください。旧約時代にはただエルサレム神殿にのみ神様の臨在がありました。その中でも至聖所にのみ神様の栄光が宿られ、大祭司だけが年に一度入ることができました。しかし新約時代はどうなったでしょうか?

聖霊様が来られることによって、私たちの心が神様の臨在に満ちた至聖所となったのです。もはやエルサレム神殿に行かなくても、いつでもどこでも神様と出会うことができるようになったのです。通勤する車の中でも、オフィスでも、家でも、私たちは聖霊の内で神様と交わることができます。

聖霊様は神様の愛を私たちの心に注いでくださり、「アッバ、父よ」と呼ばせてくださいます。ローマ5章5節は「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」と語っています。

聖霊を受ける前には頭でのみ知っていた「神は愛である」という真理が、聖霊を受けると心で熱く体験される愛の現実となります。だから聖霊に満たされた聖徒たちは神様をお父さんと呼んで涙で祈ったり、言葉で言い尽くせない喜びで賛美したりするのです。神様が「あの方」から「あなた」に変わるのです。

聖霊様の助けと導き

聖霊様は私たちの弱さを助け、神様との親密な交わりを可能にしてくださいます。ローマ8章26節は「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」と語っています。

時には何と祈るべきか分からないときがあります。心はもどかしいのに何を求めるべきか分からないときがあります。聖書を読んでも神様はあの遠い額縁の中にのみおられるようです。そんなとき、聖霊様が私たちのためにうめきをもって執り成してくださるのです。

今日の本文56節を見ると、ステパノ執事がこう言います。「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」

7章1節から53節まではステパノ執事の説教が出てきます。ステパノは旧約の神様、すなわちアブラハムの神様から聖書の神様について語ります。その内容はユダヤ人はもちろん、今日教会に通ったことのある人なら誰でも知っている「その神様」についての内容です。しかしステパノは聖霊に満ちてその神様を「あなた」として見ます。理性で知ったり概念で認識した神様ではなく、今この場にいる私を見つめておられる神様とその方の右に立っておられるイエス様を見るのです。

聖霊で満たされると、神様は「あの方」ではなく「あなた」として経験されます。その方はいつも先に私を訪ねて手を差し伸べてくださる神様です。罪人である私と共におられるイエス様です。

結論:三位一体の神様との生きた関係

永遠の命の本質

神様を人格的に深く知ることが永遠の命であり、私たちの信仰の究極的目的です。ヨハネ17章3節でイエス様は「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と語られました。

ここで「知る」ということは単純な知識ではなく、人格的な関係を意味します。夫婦が互いを知るように、友人が互いを知るような深い関係を指します。

初代教会の教父アウグスティヌスは神様に捧げる告白録でこのように祈りました。「主が私たちを主に向かうように造られたので、私たちの心が主の内で憩うまでは安息がありません。」

その通りです。私たちの魂は人格的な神様との出会いなしには決して真の安息と満足を得ることができません。世のどんなものでも私たちの魂の飢えを満たすことはできません。お金も、名誉も、人間関係も、趣味も私たちの魂の深い渇きを解決してくれません。

ただ父、子、聖霊なる神様と深い愛の交わりを享受するときにのみ、ようやく私たちの存在は故郷を見つけた羊のように憩いと喜びを味わうようになります。

神様はすでに三位一体の完全な愛と喜びの交わりの中におられる方です。その方は私たちがいなくても完全な幸福を享受できる方です。それなのにその方は、その豊かな交わりの舞踏に私たちまで共に参加させようと私たちを呼ばれます。これこそが福音の驚くべき知らせです。

私たちの応答と実践

それでは今、残された質問は一つです。これほどまでに近づいて来られた神様に向かって、私たちはどのように反応するかということです。

C.S.ルイスは『悪魔の手紙』という彼の本でこのような文を残しました。「信者たちは三位の神に出会う直前まで三位一体がどのように見えるのか全く感が掴めなかっただけでなく、その存在自体まで疑いを持っていた。しかし、いざ三位一体に出会う瞬間、自分が初めからその方を知っていたという事実を知るようになり、自分一人だと思っていた数多くの人生の時間時間ごとに三位一体がどんな役割をしてくれたかも悟るようになる。だから三位一体に一々『あなたはどなたですか?』と尋ねるのではなく、『まさにあなたでしたね』と言うことができる。」

ヨハネの黙示録3章20節で主は「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしはその中に入って、その者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」と約束されました。これがイエス様と私たちが享受する親密な交わりの姿です。一つの食卓に座って食事をして対話する間柄だということです。

聖徒の皆さん、イエス様を単純に歴史的人物や教理上の救世主としてのみ信じてはなりません。その方は今も生きておられて、私たちと対話し交わりたいと願っておられる友です。

聖霊に満たされることを求めてください。聖霊で満たされると、神様が三人称の「あの方」から二人称の「あなた」に変わります。

ステパノが最後の瞬間まで三位一体の神様と親密な関係を享受したように、皆さんも聖霊に満たされるなら、今ここでその驚くべき関係を始めることができます。いえ、すでに始まっていることを信じてください。神様が先に私たちを呼ばれ、私たちを子と友と神殿としてくださったからです。

今、私たちはその恵みに応答して、神様を頭ではなく心で、遠くからではなく顔と顔を合わせて知って行けばよいのです。私たちみんなが三位一体の神様を「あなた」と呼んで親しく共に歩む人生へと進み出ましょう。

そうしてこの地では神様と共に歩む喜びを味わい、やがて永遠においては完全な顔と顔を合わせて主にお会いすることを望みましょう。

三位一体の神様の愛と恵みと交わりが皆さんすべてと共にありますように祈ります。アーメン。

 
 
 

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