世界は塩と光を必要としています。
本文です: マタイ5:13-16
[序文]]
2015年9月、ニューヨークの国連本部で193の加盟国全体が満場一致で「持続可能な開発目標」(SDGs)を採択しました。 この目標は、2030年までに達成すべき17の核心課題を含んでいます。貧困の撲滅、飢餓の解決、健康と福祉の増進、質の高い教育の確保、男女平等の達成、きれいな水と衛生、気候変動への対応など、人類が直面しているほぼすべての問題を解決するという野心的な宣言であり、単なる国際協定ではなく、人類自身がより良い世界を作ることができるという野心的な宣言でした。
しかし、2025年現在、私たちは何を目の当たりにしているのでしょうか。 UN自身の評価によると、17の目標の多くは達成できないと予測されています。大国は依然として自国の利益を優先し、発展途上国は財政的、技術的な限界に苦しんでいるためです。 特にCOVID-19のパンデミック以降、貧困と不平等はむしろ深刻化し、気候危機はさらに加速しています。
この他にも歴史を見ると、人類は自ら啓蒙(enlightenment)しようと多くの試みと努力をしてきましたが、事実上、自分たちの利己心と貪欲と欲望によって不可能であることを示しています。世界は自らの意志と力では決して良くなることができないということを悟らなければなりません。 この悟りは私たち個人にも同様に適用されなければなりません。
このような人類の根本的な限界の中で、イエス様は驚くべき宣言をされます。「あなたがたは世界の塩であるから、世界の腐敗を止めなさい...。あなたがたは世の光であるから、暗闇を照らしなさい...」
この御言葉の聴衆を思い浮かべてみてください。 彼らはガリラヤの普通の漁師であり、当時の世間の基準では何の影響力もない存在でした。ローマ帝国という巨大な権力の前で、彼らはまるで大海の一滴の水のような存在でした。
しかし、イエス様は彼らに向かって世界を変えることができる存在であると宣言したのです。 これは単なる励ましや動機付けの言葉ではありません。 これは創造主である神様の主権的な選択と恵みの宣言です。まるで、初めに神様が混沌とした空虚で暗闇が深淵の上にあった世界に向かって「光あれ」と言われた時、その言葉によって光があるように、イエス様はこの暗く腐敗した世界に向かって、弟子たちを「塩と光」と宣言されたのです。
UNの持続可能な開発目標が示すように、世界は絶えず自分自身を救おうとします。 しかし、それはまるで闇が自ら光になろうとしたり、腐った魚が自ら新鮮になろうとするようなものです。世界が必要としているのは、外部から来る塩であり、光です。 そして、その塩と光は、まさにイエス・キリストの性質を持った弟子たちを通して、この世界に伝えられます。
今日のこの時間、私たちはこの御言葉を通して、三つの重要な真理を発見することになるでしょう。 第一は、イエス様のこの驚くべき宣言が含んでいる意味です。 第二は、塩と光の源であるキリストの性質です。 そして最後に、この使命を担うときに必然的に伴う苦難の意味です。
これらの真理を通して、私たちは世の中ができないこと、私たちの力でもできないことを、キリストの中だけで可能なその変化の力を発見するでしょう。 そして、私たちはなぜイエス様がそのように小さな群れであった弟子たちに向かって、世界の塩と光と呼ばれることができたのかを悟ることができるでしょう。
1.イエス様の驚くべき宣言
ここで私たちが特に注目すべき点があります。イエス様は「君たちが塩になるだろう」あるいは「君たちが光にならなければならない」と言われなかったということです。 君たちは世界の塩である」、「君たちは世界の光である」と全く宣言をなさったのです。これはまるで、親が子供に「お前は我が家の子供だ」と言うようなものです。 子供が何かをしたから子供になるのではなく、生まれた時からすでに子供であるように、イエス様の弟子たちはすでに世界の塩であり、光なのです。 これは知れば知るほどすごい創造主の宣言です。初めに「光あれ」と言われたその方が「あなたがたは世の中の塩である。光である」と宣言されたのと同じことです。
では、塩と光はそれぞれどのような意味を持っているのでしょうか。
まず、塩について考えてみましょう。1世紀のパレスチナでは、塩は単なる調味料以上の意味を持っていました。冷蔵庫がなかった時代、塩は食べ物が腐敗するのを防ぐ唯一の方法でした。塩がなければ、どのような食べ物も長期間保存することができませんでした。 漬物のようなものは、長期間保存するために作られたものです。
さらに、塩は食べ物に味をつける調味料でもありました。 ヨブ記6章6節の言葉のように、「塩のないものが塩なしで食べられますか?」というように、食べ物に塩を入れることは、まるで活気を吹き込むようなものです。
これは私たちに非常に重要な意味を与えます。 キリストの弟子たちは、単に世の中を「良く」する存在ではなく、世の中の腐敗を防ぎ、生気を吹き込む存在です。まるで塩が食べ物の腐敗を防ぐように、弟子たちは神の真理を通して、世の中の道徳的、霊的な腐敗を防ぐべきなのです。
次に光について考えてみましょう。光の最も基本的な機能は、闇を打ち消すことです。 闇とは光の不在を意味します。イエス様の時代には電気がなかったので、太陽が沈むと完全な暗闇が訪れました。 そこで人々は提灯を灯してその暗闇を照らしましたが、これは非常に重要な象徴的な意味を持ちます。
ヨハネの福音書8章12節でイエス様は「私は世の光である」と宣言されました。 しかし、今日の本文では弟子たちに「あなたがたは世の光である」と言われます。これは何を意味するのでしょうか?まるで月が太陽の光を反射して夜を照らすように、私たちはキリストの光を受けてこの暗い世界を照らさなければなりません。私たちの中にある光は私たちのものではなく、キリストの光です。
キリストの光が私たちキリストの弟子たちにより鮮明に現れるためには、どうすればよいでしょうか。私の光ではなく、私の中におられるイエス・キリストの光だけが灯籠のように輝くようにしなければなりません。 そのためには、私の誇り、私の欲望という偽りの光が消えなければなりません。 今日のLED蛍光灯の光に比べれば、2千年前の灯籠がどれほど明るくても、暗いところでは小さな灯籠が本当に貴重です。 しかし、暗いところでは小さな灯籠が本当に貴重です。
2.塩と光の源:キリストの性質
今、私たちはこの塩と光の内容が何であるかを見なければなりません。私たちはイエス様の山上の垂訓の文脈の中でこの御言葉を理解しなければなりません。今日の御言葉は八つの福音の後に言われた御言葉です。 つまり、世の腐敗を防ぎ、生気を吹き込む塩と闇を追い出す光の内容には八つの福音があります。八つの福音は、イエス・キリスト自身の人格を示す鏡のようなものです。
イエス様はどのような方でしたか? イエス様は心貧しい方でした。 天の栄光を捨ててこの地に来られた方です。 イエス様は嘆く方でした。 イエス様はエルサレムを見ながら涙を流し、罪で苦しむ人類を見て心を痛められました。 イエス様は柔和な方でした。 イエス様は自分を十字架につける者たちのために祈られました。
主は義に飢え、渇いた方でした。神殿を清める時も、それは神の義への情熱からでした。 彼は思いやりのある方でした。 姦淫の女を石で打ち砕くこともできました。姦淫した女を石で打ち砕こうとする者たちの前で彼女を守ってくださいました。 イエス様は心が清い方でした。サタンのすべての試練に打ち勝った方でした。 平和をもたらす方でした。 神と人間との間の断絶された関係を回復させるためにご自身を捧げました。
世の中の真ん中で、主はこのような尊い性質で塩と光となってくださいました。 しかし、世の中はイエス様を迫害しました。しかし、世界はイエス様を十字架につけました。 しかし、イエス・キリストは三日後によみがえられたことで、その塩と光であることが永遠であることを世界に示しました。
そして今、イエス様はご自分の弟子たちにこの同じ性質を要求しているのです。
世界はキリストの塩と光を嫌いますが、事実上、彼らは耐えられないのです。
これが宗教改革者マルティン・ルターが言った「塩は必ず辛くなければならない」という言葉の意味です。まるで塩が傷口に触れるとチクチクするように、神の真理は世の中の良心を突き刺すようになっています。闇が光を嫌うように、私たちが本当にキリストの性質を持つとき、それは必然的に世界と衝突するしかありません。
3.塩と光の使命と苦難
ルターの言葉のように「塩は必ず辛くなければならない」のであれば、これは私と皆さんが世界と出会った時に証明されなければならないでしょう。 そこでイエス様は塩と光の使命について二つの重要な警告を与えてくださいます。
第一の警告は、塩が味を失う可能性があるということです。 1世紀のパレスチナの塩は今日とは異なり、主に死海の近くで採取されたこの塩は、純粋な塩化ナトリウムではなく、他の物質と混ざっていました。 この塩が湿気にさらされると、実際の塩の成分は溶けてなくなり、見た目だけ塩のような無駄な白い粉だけが残りました。
これは今日の教会が直面している大きな危険を示しています。ルターは「真の塩は聖書の正しい解釈であり、これは全世界に向けた告発になる」と言いました。 しかし、多くの教会は世界との衝突を避けるために、この真理の鋭さを鈍らせます。人々が聞くのが好きな説教、つまり世の中の成功と自慢を煽る説教は、御言葉の中の塩の成分は取り除かれた白い粉に過ぎないものになってしまいます。
第二の警告は、光が遮られる可能性があるということです。 イエス様は「灯火を馬の下に置かないでください」と警告しています。ここで「馬」とは大きなバスケット、穀物を入れる桶のようなものです。 イエス様の叱責は、意図的に光を遮る者たちに向けられています。 そうです。弟子となった者はすでに光です。弟子がやるべきことは、光を作ることではなく、光を照らすために迫害する世界の真ん中に出て行くことです。
数年前、死海の海の西側で隠遁生活を送っていたエセネ派の人々の遺跡が発見されました。 彼らは自分たちを「光の人々」と呼びました。 しかし、彼らは水を閉じ込めることで死んだ海の死海のように、自分たち自身で光を閉じ込めて生活していました。
イエス様は「山の上の町は隠れることができない」と言われます。ここで私たちは重要な質問をしなければなりません。 なぜ私たちはこの光を隠そうとするのでしょうか。 それは迫害を恐れているからです。
しかし、真珠を作る貝殻のように、キリストの弟子たちは迫害を受けることでキリストの光を発します。
2024年のオープンドア宣教会の報告によると、世界50カ国以上で約3億6千万人のクリスチャンが深刻なレベルの迫害を受けています。 彼らはキリストの名によって差別され、殴打され、さらには命の脅威まで受けています。
しかし、キリスト教は歴史を通して、むしろ迫害を受ける時に塩味を出し、暗い時に光を発してきました。
八つの福音書の結論を思い出してください。預言者と弟子は迫害という共通点を持ちます。 しかし、その迫害を通して、命の光であるイエス・キリストを証しします。
結論][結論
おそらくこの歌は皆さん聞いたことがあると思います。 "きらきらと輝く小さな星、美しく照らす、東の空でも、西の空でも、きらきらと輝く小さな星、美しく照らす」
私はこの歌の英語の歌詞を知って、今日の本文の言葉を改めて考えさせられました。 "Twinkle twinkle little star, how I wonder what you are!」
この歌詞を訳すと、「きらきらと輝く小さな星よ、君が何なのか気になるよ」です。
人々は漆黒のような暗闇の中でも消えることなく輝く星の存在を神秘的に思っています。世の中の人々がクリスチャン、すなわちイエス様の弟子である私たちを見る時、まるで暗闇の中で星を見て驚くように、このように質問することを願っています。
「あの人は何で一人で輝いているのだろう?」
天文学者によると、私たちが夜空で見る星の光は、実は過去の光だということです。 地球から最も近い木星の光でさえ、私たちの目に届くまでに34分40秒かかります。光の速度と木星との距離を計算すると、私たちが見ている木星の輝きは、実は34分40秒前の姿だということです。
これは私たちの救いと信仰について深い洞察を与えてくれます。私たちの救いは、約2000年前、イエス・キリストがこの世に来られ、行われたことに基づいています。まるで遠くの星の光が長い時間を経て私たちに届くように、約2000年前にイエス様が行なった救いの光が今日私たちに届きました。私たちは福音を通してこの驚くべき救いの光を受けた者です。 そして今、私たちは月が太陽の光を反射して夜を照らすように、福音を伝えることによってキリストの光を反射する者でなければなりません。
人々が私たちを見る時、まるで夜空の星を見て驚きを感じるように、「あの人はどうしてこのような暗い世の中でもあんなに輝くことができるのだろうか?このように腐敗した世の中でも、どうしてあのような純潔を守ることができるのだろうか?" そして、彼らは私たちを通して、約2000年前にこの地に来られた真の光であるイエス・キリストを発見するでしょう。
愛する聖徒の皆さん、私たちは決して小さな存在ではありません。 たとえ私たちの光が小さく見えても、それは永遠の神の栄光を反射する光です。
ルターの言葉通り、「塩は辛くなければならない」のです。真理の塩は、罪で病んで傷ついた世の中の傷口にチクチクするしかありません。 しかし、これは治癒のために必要不可欠なプロセスです。まるで医者が患者の傷を消毒するときのチクチクするように、これは命を救う聖なる痛みです。 そうです。世界は実は光と塩を必要としています。 イエス・キリストが必要です。
愛する聖徒の皆さん、私たちは世界との衝突を避けて味を失った塩になるのでしょうか、それとも、たとえ迫害が伴うとしても、キリストの真理を宣べ伝える鋭い塩になるのでしょうか。
いいえ、私たちは世界が必要とする塩と光にならなければなりません。 キリストの光を明らかにして、すぐに人々が私たちの善い行いを見て、天におられる父に栄光をもたらすようになることを、主の御名によって祝福します。
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