同じ律法、異なる国 (マタイ5:17-20)
今日、私たちが見ていくテーマは「律法」です。 同じ神の律法が、ある人にとっては、人を縛り、非難する道具になりましたが、イエス様にとって、この律法は人を生かし、回復させる道具であり、神の国を実現する道具になりました。
今日、現代教会は律法について両極端に偏る傾向があります。 つまり、律法を文字通り守らなければならないと主張する律法主義者がいて、「違う。イエス様が律法を完成されたから、律法は守らなくてもいい」と言う反律法主義者がいます。
果たして、律法をどのように扱うのが正しい態度なのでしょうか。 これについて一緒にお話ししましょう。
神の国の始まり
今から約3500年前、エジプトという巨大な国の中に、400年という長い間、奴隷として暮らしていた民族がいました。イスラエル民族です。 彼らは400年の間、奴隷として暮らし、奴隷というアイデンティティ以外に何もありませんでした。 しかし、神様はアブラハムとの契約を覚えておられ、この民族を「私の民」と呼び、エジプトから引き出してくださいました。 そして、シナイ山に呼び出して、彼らに律法を与えてくださいます。この律法を与えることによって、イスラエルは新しいアイデンティティを与えられます。 つまり、奴隷だった彼らが一朝一夕に神の国の民になったのです。
自分たちがもはや奴隷の民ではなく、神の国の民になったことをどのように証明するのでしょうか。エホバの神は、エジプトの人々の神とは異なり、形がない方です。目に見えない神が自分たちの王であり、自分たちはその王の民であることをどうやって証明することができるでしょうか。 イスラエルが神の民であることを示すことができる唯一の証拠は、まさに王が与えた法に従って生きることでした。
今日のクリスチャンも同じことが当てはまります。あなたが昇天されたイエス・キリストの弟子であることを証明する方法は、十字架の首輪をつけたり、車に魚のステッカーを貼ることではなく、主の御言葉を守り、実行することです。 目に見えない神様を私が信じていると告白するためには、その御言葉に従って生きることです。
律法の真の意味
神様が御自分の民に与えた律法の中には、神様の性質と民の新しいアイデンティティが含まれています。
今日、各国の法律もよく見ると、その中にその国の価値観と精神、歴史的教訓が深く染み込んでいることが分かります。例えば、ドイツの法制度はナチス時代の苦い経験をもとに、人間の尊厳を特に強調しています。韓国の場合には、大人を敬い、敬愛する伝統が法律の中にも浸透しています。 同じ犯罪でも国によって処罰のレベルが違うのは、それぞれの国が追求する価値が違うからです。 法律は一国の精神を入れる器なのです。 国の法律は、国民が守れば守るほど国の秩序が保たれるだけでなく、国民が幸せになり、国は強くなるように設計されています。
神様がイスラエルに与えた律法も同様で、その中には深い霊的な意味が込められています。律法の核心は、神愛と隣人愛です。神様から与えられた律法を守って行うたびに、神様への愛が表現され、隣人への愛が実践されるのです。
さらに、私たちが律法に従って生きるとき、私たちがいるその場所が神様の統治が行われる現場になります。職場で、学校で、家庭で、神様の御心が成就するのです。 誰もが幸せになり、神様の御国が全世界に広がるようになります。
律法の歪み
ところが、時間が経つにつれ、イスラエルの民の間で律法は本来の意味を失っていきました。 特に、イエス様の当時の書記官とパリサイ人は律法を全く違うものに変質させてしまいました。
彼らは神様の律法を613の細則に分けて徹底的に守りました。安息日を厳格に守り、コーシャーの儀式も一点のずれもなく遵守し、わずかな収入でも什分の一を欠かさず献金しました。誰が見ても、彼らは律法を最もよく守る人たちでした。
しかし、不思議なことに、彼らが律法を徹底すればするほど、周囲の人々は傷つき始めました。 彼らが義となるほど、周囲の人々は罪の意識と罪悪感にとらわれました。彼らの律法に対する熱意が大きくなるにつれて、彼らの隣人はどんどん離れていきました。
何が悪いのでしょうか?彼らは律法を守りながら、他の人々を罪人として扱いました。 彼らが体を洗って清める時に、他の人々を不浄な人として見ていました。 ルカによる福音書18章のパリサイ人の祈りを見てください。
「神よ、私は他の人たち、すなわち、汚物、不義、姦淫をする人たちと同じではなく、この税関人と同じでもないことを感謝します。」
神を愛し、隣人を愛せと言われた律法が、彼らの手によってかえって神と隣人を遠ざける道具になってしまったのです。
現代教会の中にもこのようなパリサイ人がいる可能性があります。一生懸命信仰生活をしているのに、周りの人が心の傷を受けたり、自分は正しいと思いながら、周りの人を判断し、非難します。神様の御言葉を熱心に聞き、祈りも心からしているのに、周りの人が遠ざけたい人になることがあります。
この悲劇的な書記官とパリサイ人たちにとって 、神の律法は守れば守るほど、むしろ神の国を崩壊させ、隣人との関係を破壊する道具になってしまったのです。 イエス様がパリサイ人たちに向かって「この毒蛇の子たちよ!」と強く叱られた理由がここにあります。
復讐の鎖
ある話があります。 高い山の村に住んでいたジョンウという人の話です。ジョンウは父親を亡くしました。村人たちは一様に「ジョンウよ、お父さんを殺した敵を放っておいてはいけない。復讐はお前の運命だ。復讐はこの村の法律でした。
チョンウはついに元帥の家を訪ねました。 彼の震える手には鋭い剣が握られていました。元帥はジョンウを見て、「ついに来たか、お前の父もそうだった、お前の父も私の父を殺した、だから私は復讐した、今度はお前も私を殺すだろう、そうすれば私の息子がまたお前を探しに来るだろう」と言いました。
ジョンウが剣を振りかざすと、敵の後ろから小さな子供が顔を出しました。 "お父さん...。どうしたの?" 純真な瞳で尋ねるその子を見た瞬間、ジョンウは気づきました。 自分が復讐をすれば、この子供がまた復讐の剣を手にすることになることを。
その日、ジョンウは家に帰り、剣を部屋の片隅に置き、「復讐はもう私の手に負えない」とつぶやきました。 彼は農作業を始め、夜な夜な怒りに明け暮れることはなくなりました。復讐を勧められた村人たちも、もはや復讐を言わなくなりました。年月が経ち、ある日、敵の息子が訪ねてきました。 そしてこう言いました。
父が亡くなる前に、『ジョンウにお礼を伝えろ』と言いました。おかげで復讐の束縛から解放された』と。」
律法の完成者であるイエス様
ジョンウが復讐の鎖を断ち切ったように、イエス様は律法の呪いを断ち切り、新たに律法を私たちに与えてくださいました。 本文17節を見てください。
「わたしが律法や預言者を破棄するために来たと思うな、破棄するために来たのではなく、完成させるために来たのである。」
律法学者とパリサイ人が律法を持って自分たちの義を明らかにし、他の人を非難したのなら、イエス様はその同じ律法で人を救われました。パリサイ人が律法で壁を築いたなら、イエス様はその壁を壊されました。パリサイ人が律法で復讐の剣を研いだなら、イエス様はその律法の剣で自分自身を切り裂き、犠牲のいけにえとして差し出しました。
イエス様は律法を完成させるために十字架を背負われました。 罪に対する死という律法の要求をご自身が代わりに引き受けたのです。 私たちの罪を赦し、ご自身が代わりにその罪を担ってくださいました。 神様に従順され、罪人である私たちを最後まで愛してくださいました。
ヨハネの福音書8章を見ると、書記官とパリサイ人が姦淫している女を現場で捕まえてイエス様に連れてきました。
「先生、この女が姦淫しているところを現場で捕まりました。モーセは律法に、このような女を石で打ち殺せと命じていますが、先生は何とおっしゃいますか?」
はい、書記官とパリサイ人は律法を持ってこの女を打って殺そうとしています。 そして同時にイエス様を律法でテストしています。 彼らはイエス様が決して律法ではこの女を救うことができないと確信していました。
ところが、イエス様は身をかがめ、指で地面に何かを書きます。何を書かれたのかは聖書には記されていませんが、その文字を見た人たちはもう何も言うことができませんでした。 イエス様は言われます。「あなたがたのうち、罪のない者が先に石を打ちなさい" そして、再び身をかがめて指で地面に何かを書きます。石を手に持っていた者たちが良心の呵責を感じ始めたと聖書は記録しています。 原語の意味からすると「有罪判決を受けた」ということです。 イエス様が指で書かれた文字を見て、そこにいた大人から始まり、若者まで全てが有罪判決を受けたということです。
したがって、イエス様が地上に書かれた文章をこのように推測することができます。誰にも知られることなく密かに犯していた彼らの罪を、イエス様が一枚一枚明らかにされたのです。 自分たちは現場で捕まらなかっただけで、あの女と少しも変わらない、死に値する罪人であることをイエス様が悟らせたのだと思います。
今、人々は去り、女とイエス様だけが残されました。 震える女に向かって、イエス様は言われます。「女よ、あなたを告発した者たちはどこにいるのか、あなたを非難した者はいないのか。」
女は言います。「主よ、律法で私を非難し、殺そうとした者は、今は見えません。」
イエスは言われます。「わたしもあなたを非難しないから、行って二度と罪を犯さないでください。」
職人の視線
現存するヴァイオリンの中で最高のヴァイオリン、そして最も高価なヴァイオリンは17-18世紀にアントニオ・ストラディバリという人が作ったヴァイオリンです。アントニオ・ストラディヴァリは当時も最高のヴァイオリン製作者でした。 彼の工房には常に人が訪れ、彼の弟子になろうとする人がいました。 ある日、一人の若い見習いが訪れました。 彼はストラディヴァリのすべてを完璧に学びたいと思っていました。
ストラディバリは喜んで彼のすべてを教えようとしました。木材の選び方から、乾燥方法、ニスを塗る技術まで...。ヴァイオリン製作に使われる道具も自分のものと同じものを使わせました。 見習いは師匠のあらゆる動作を注意深く観察し、そのまま真似をしました。
ついに弟子は、師匠とまったく同じ材料、まったく同じ道具、まったく同じ方法でヴァイオリンを作りました。 見かけ上、2つのヴァイオリンはほとんど見分けがつかないほど似ていました。 弟子は自分の作品を誇らしげに師匠に見せました。
しかし、2つのヴァイオリンの音は全く異なっていました。ストラディヴァリのヴァイオリンからは天上の音楽が流れていましたが、見習いのヴァイオリンはただの平凡な音しか出ませんでした。落胆した見習いは尋ねました。
「師匠、私は師匠のすべてをそのまま学びました。 同じ木、同じ道具、同じ方法を使用したのに、どうしてこんなに違う結果が出たのでしょうか?」
ストラディバリはしばらく考え込んだ後、こう答えました。
「君は木を見てバイオリンを作ったが、私は木の中にある音楽を見たんだ」と答えました。
愛する聖徒の皆さん、皆さんは神の御言葉から何を見ますか? ここに同じような律法があります。書記官とパリサイ人は、律法を持って人々を傷つけ、さらには殺すことさえしました。 しかし、イエス様にとって、律法は本来の目的通り、人を癒し、生かす法となりました。
結論:私たちの選択
愛する聖徒の皆さん、今日、私たちは律法に対する二つの態度を見ました。 一つは、パリサイ人のように律法を非難と分裂の道具とすること、もう一つは、イエス様のように律法を愛と命の道具とすることです。
イエス様は律法を十字架で完成されました。私たちの罪を代わりに負い、私たちに対する神様の愛を完成されたのです。 だから今、聖徒は律法で救われるのではありません。 しかし、イエス様に従う者は、イエス様が十字架で完成された律法の要求を受け入れなければなりません。 主の御言葉通りに生きることで、天の喜びと平和がこの地に実現することを証明しなければなりません。
愛する純福音群馬教会の聖徒の皆さん、ここに集まった理由は、私たちが神の民だからです。 神様の民として生きるために、神の言葉、神の命令を受けるために集まったのです。私たちはイエス様から新しい律法を受け取ります。 それは恵みの法です。私たちは、イエス様の恵みの法に従って生きるイエス様の民となりました。 イエス様の御言葉は、私を生かし、隣人を生かす御言葉です。塩と光として生きることです。 彼の国と義を求めることです。
私と皆さんが神の国の民であり、神の子であることを世に知らせる唯一の方法はこれです。 イエス様の御言葉を守り、イエス様の御心に従うことです。 イエス様の御言葉の根底にある神愛と隣人愛が、イエス・キリストに接ぎ木された私と皆さんを通して、新しい芽が開き、実を結ぶことを願っています。
そうして神の国と統治が私たちの生活の中に広がり、さらに私と家庭が、この民族が祝福されることを信じています。
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