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御名が聖なるものとされますように

  • 6월 29일
  • 13분 분량

御名が聖なるものとされますように

本文: マタイによる福音書6章9節、エゼキエル書36章21-23節

序論

京都に400年の伝統を持つ清水焼の陶芸家一族があります。清水焼(きよみずやき)は京都を代表する伝統陶磁器で、もともとは京都の清水寺への参拝道である五条坂周辺で作られていた陶器を指します。今日では京都で生産される陶磁器全体を「京焼・清水焼」と総称することもあります。

清水焼は17世紀江戸時代初期に茶道文化の影響の下で大きく発展し、多様な形態と華やかな文様、そして様々な陶芸技法が融合されているのが特徴です。清水焼は主に高級陶磁器として分類され、贈答品や賞品などとしても人気が高いです。ほとんどの工程が手作業で行われるため生産量は多くなく、希少性が高いのも特徴です。

ところが14代当主の時代、この清水焼の一族は大きな変化を経験しました。観光客が増えるにつれて、安価な記念品製造に集中し始めたのです。売上は急激に伸びましたが、人々の評価は違いました。「清水焼がもう観光記念品レベルになってしまった」という批判が殺到しました。

2010年、15代当主の田中寛氏は高い売上を受け継ぎましたが、地に落ちた名声のために衝撃的な決断を下しました。家族や従業員が反対しましたが、彼は断固としていました。すべての大量生産を中止したのです。

「先祖たちが命をかけて守ってきた技法を私が台無しにするわけにはいきません。これは私のためではなく、『清水焼』という名前のためなのです。」

彼は3年間何も売りませんでした。ひたすら伝統技法の復元にのみ専念しました。昼夜を問わず古い文献を研究し、先祖たちの技法を蘇らせました。現在、彼の作品は日本の国の文化財に指定され、世界的に認められています。

エゼキエル書36章22節で神は明確に語られます。「わたしがこのように行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った先の国々で汚したわが聖なる名のためである。」

今日私たちは、神の最も重要な関心事が何か、そしてイエス様が教えてくださった「御名が聖なるものとされますように」という祈りが何を意味するのかを共に見ていきましょう。

本論

第一点:神の聖なる御名が汚されました

「あなたがたが行った先の国々で汚したわが聖なる名をわたしは惜しんだ」(エゼキエル書36章21節)

神の御名は本来聖なる栄光ある名前です

神がモーセに初めてご自身の名前を知らせてくださった時を覚えてください。出エジプト記3章で燃える柴の中から聞こえてきたその声、「エヘイェ・アシェル・エヘイェ」(I am who I am)「わたしは有って有る者」。これがまさに「ヤハウェ」という名前の起源です。

これは単純な固有名詞ではありません。これは神の存在方式そのものを表す名前です。自ら存在し、変わることなく、永遠なる方。誰にも依存せず、すべてのものの根源となられる方の名前です。

その名前は出エジプトの出来事を通して全世界に知られるようになりました。エジプトの十の災い、紅海を分けられた奇跡、荒野40年間の導き。ヤハウェという名前の前にエジプトのすべての神々が倒れました。周辺民族たちは恐れおののきました。「ヤハウェの民」と呼ばれるだけでもイスラエルは尊敬を受けました。

しかし神の民がその名を汚しました

ソロモンの時代、イスラエルは全盛期を迎えました。エルサレム神殿が建築され、ヤハウェの名が全世界で高められました。シェバの女王さえヤハウェの名を聞いて訪れました。

しかし時が経つにつれてイスラエルの民は変わりました。神の名を借りて自分の利益ばかりを求めました。神殿では祭儀を献げながらも、神殿の外では寡婦と孤児を搾取しました。「ヤハウェの民」と自慢しながらも、異邦民族よりも腐敗していました。

預言者エレミヤはこのように嘆きました。「彼らは言う、これは主の神殿、主の神殿、主の神殿であると」(エレミヤ書7章4節)。神の名だけを叫びながら、実際には神の御心を無視しました。

ついに異邦民族がヤハウェを嘲笑し始めました。「ヤハウェがそれほど能力があるなら、なぜ自分の民も守れないのか?ヤハウェの民という者たちが我々より劣っているではないか?」

バビロン捕囚期に至ってはさらに深刻になりました。エゼキエル書36章20節の御言葉です。「彼らがその行った先の国々に至ると、主の民と呼ばれながら、自分たちの地から出なければならなかったと言われ」異邦人たちが笑いました。「ヤハウェに能力があるなら、なぜ自分の民が捕虜として連れて来られたのか?」

これは今日の教会とクリスチャンにも当てはまります

愛する聖徒の皆さん、この話は過去のことだけでしょうか?

特に日本というこの地で、私たちはより大きな責任を負っています。プロテスタントが全人口の0.4%しかいないこの地で、私たち一人一人の生活がすなわち「イエス様」に対する評価になります。私たちに会う日本人たちが「ああ、キリスト教はこういうものなのか」と判断するようになります。

十字架が掲げられた教会の建物に出入りする私たちの姿を見て人々は考えます。私たちの職場での姿、隣人との関係、家庭での態度がすなわち「キリスト教」に対する彼らの印象になります。

神の聖なる御名が私たちを通して高められているでしょうか?それとも私たちによって汚されているでしょうか?

第二点:神ご自身が御名を聖なるものとされました

「わが大いなる名をわたしは聖なるものとする」(エゼキエル書36章23節)

神は御名のために直接行動されました

エゼキエル書36章22節で神は驚くべき御言葉を語られます。「イスラエルの家よ、わたしがこのように行うのは、あなたがたのためではなく、あなたがたが行った先の国々で汚したわが聖なる名のためである。」

これはなんと衝撃的な宣言でしょうか!神がご自分の民を回復させる理由が、彼らが可哀想だからではないということです。ご自分の名が汚されることを我慢できないからだということです。

京都の15代陶芸家当主が「これは私のためではなく、清水焼という名前のため」と言ったように、神も「これはあなたがたのためではなく、わが聖なる名のため」と語られたのです。

神の御名の回復は神ご自身の働きです。人間の努力や功労ではなく、神の主権的な歴史です。私たちが神の御名を回復させるのではなく、神がご自身で御名を回復されるのです。

イエス・キリストの受肉がまさにその御名回復の頂点です

それでは神はどのように御名を回復されたのでしょうか?まさにイエス・キリストを通してです。

マタイによる福音書1章23節をご覧ください。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」

「インマヌエル」-この名前自体がヤハウェの属性を啓示します。神が「ご自分の民の中に住まわれる」というエゼキエルの約束がイエス様の受肉を通して完全に実現されたのです。

イエス様の生涯そのものが神の御名を回復する働きでした。イエス様は言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネによる福音書14章9節)。イエス様のすべての言葉と行動が神がどのような方であるかを示してくださいました。

そして十字架と復活を通して神の聖さと愛を同時に完全に現してくださいました。十字架は罪に対する神の聖なる裁きを、復活は愛する者を決して見捨てない神の真実さを示しました。

異邦人たちが嘲笑した「ヤハウェに能力があるなら、なぜ自分の民も守れないのか?」という質問に対する神の最終的な答えがまさにイエス・キリストの十字架と復活でした。

イエス様の生涯と働きそのものが「御名が聖なるものとされますように」の成就です

今、私たちは主の祈りの最初の願いを新しく理解することができます。「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖なるものとされますように」(マタイによる福音書6章9節)。

イエス様は単純に祈りの方法を教えてくださったのではありません。イエス様ご自身がまさにその祈りの内容となり、その祈りの答えとなられました。

「聖」という言葉はヘブライ語で「カドシュ」と言います。これは「切り取る」、「分離する」という意味から由来したもので、「俗なるものから区別する」、「他のものと区分する」の意味です。安息日は他の日々と区分、区別されて守られなければなりません。祭司は他の人々と区別されます。祭司が着る服も区別されなければなりません。これは服が高価だからではなく、聖なる神の前に出て礼拝を献げるからです。

イエス様の全生涯が「父の御名が聖なるものとされる」生活でした。ヨハネによる福音書17章4節でイエス様はこのように祈られました。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」

したがって「御名が聖なるものとされますように」という祈りは、将来実現されることに対する願いではありません。これはイエス様を通してすでに成就された現実に対する確信の告白です。

神の御名はすでにイエス様を通して完全に聖なるものとされました。もはや異邦人がヤハウェを嘲笑することはできません。なぜならイエス様が神がどのような方であるかを完全に示してくださったからです。

第三点:私たちはその聖なる御名の栄光を現して生きます

「わたしが彼らの目の前で、あなたがたによってわたしの聖なることを現すとき」(エゼキエル書36章23節)

私たちはすでに回復された神の御名を担う者たちです

愛する聖徒の皆さん、私たちは単純に「キリスト教徒」ではありません。私たちはイエス・キリストを通して「聖なる民」となりました。すなわち「聖徒」となりました。完全に回復された神の聖なる御名を担う者たちです。

エフェソの信徒への手紙1章4節は言います。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」私たちは神の聖なる御名にふさわしい者として召しを受けました。

そして洗礼を受ける瞬間、私たちは「クリスチャン」という名前を受けました。これは私たちが取得した資格証ではありません。神がイエス・キリストを通して私たちに与えてくださった身分であり看板です。

世の人々は私たちの個人的な学歴、経歴、キャリアを見るのではありません。「クリスチャン」という名前、看板を見て私たちを判断します。私たちに会う人々は今、神の名前がついた商品あるいは作品を経験しているのです。

聖霊が私たちの内でその御名にふさわしい生活を可能にしてくださいます

「御名が聖なるものとされますように」という祈りを考えてみましょう。神が聖なる状態でなくなったので私たちが祈りを献げなければならないという意味ではありません。神は本質的に聖なる方です。

「御名が聖なるものとされますように」という祈りは、神の御名によって救われ、その方の御名の下で生きていく聖徒たちにとって第一の祈りです。

神が語られました。「わたしが聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」この御言葉に私たちは「御名が聖なるものとされますように」と応答します。

それでは私たちはどのように神の聖なる御名にふさわしい生活を送ることができるでしょうか?私たちの能力では不可能です。私たちを聖なる者とすることができる方は聖なる神だけです。神が方法を備えてくださいました。

エゼキエル書36章26-27節の御言葉です。「わたしはあなたたちに新しい心を与え、あなたたちの中に新しい霊を置く。わたしはあなたたちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をあなたたちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」

聖霊が私たちの内に住まわれながら、神の性質が私たちを通して現れるようにしてくださいます。私たちが努力して聖くなるのではなく、聖霊が私たちの内で働かれてキリストの品性が現れるようにしてくださるのです。

聖霊の人々は自分の名前が現れることを嫌います。ただその方の御名だけが残ることを願います。私たちが「御名が聖なるものとされますように」と祈る時、私たちの名前ではなく、ただ神の御名だけが現れることを決断するのです。

イエス様が語られた「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイによる福音書6章3節)というのがまさにこれです。私たちの善行が私たちがしたことではなく、神が私たちを通してなさったことになるべきだという意味です。

特に日本という宣教現場で私たちの生活が神の御名を証しします

愛する聖徒の皆さん、私たちは特別な使命を持っています。日本というこの地で神の御名を証しする使命です。

0.4%という数字が絶望的に聞こえるかもしれません。しかしこれはむしろ私たちがどれほど貴い存在であるかを示しています。ダイヤモンドが貴重な理由は希少だからです。私たち一人一人が日本ではダイヤモンドのような存在です。

ところがダイヤモンドだと思ったのに人工で作った安いキュービックだったらどうでしょうか?ダイヤモンドもキュービックも、どちらも光沢と透明度が優れています。しかし耐久性では天と地ほどの違いがあります。ダイヤモンドは知られている鉱石の中で最も硬いです。強いです。キュービックは透明で輝きますが、小さな力でも割れて砕けます。

世の人々が私たちを通して神を経験するようになります。私たちの正直さを通して神の真実さを、私たちの親切さを通して神の愛を、私たちの誠実さを通して神の信実さを見るようになります。私たちの忍耐と希望を通してキリスト・イエスを見ます。

京都の15代陶芸家当主が3年間何も売らずに伝統技法を復元した時、人々は彼の真正性を見ました。その結果、彼の作品は国の文化財として認められるようになりました。

同様に、私たちが世的な成功や認定よりも神の御名をより大切に思う時、人々は私たちの内にある他の何かを見るようになるでしょう。それがまさに神の聖さです。

結論

京都の15代陶芸家当主の話に戻りましょう。彼は3年間何も売らずに伝統技法の復元にのみ専念しました。周りからは「狂っている」と言われました。しかし彼は諦めませんでした。「これは私のためではなく、清水焼という名前のため」という信念があったからです。

その結果、彼の作品は世界的に認められるようになりました。人々は彼の陶器を見て400年の伝統の真の価値を再発見しました。

愛する聖徒の皆さん、私たちも同じです。世的な成功や物質的利益を追求することをやめ、福音の本質に立ち返るべき時です。私たちの内に住まわれる聖霊の声に耳を傾け、イエス・キリストの品性が私たちを通して現れるようにしなければなりません。

神はすでにイエス・キリストを通して御名を完全に回復されました。今、私たちはその回復された御名の栄光を世に現す特権を受けました。

「御名が聖なるものとされますように」という祈りは特権です。私たちが神の聖なる御名を現すことができるということ、それがまさに私たちが受けた最高の恵みです。

今日からこのように祈りながら生きていかれることを願います:

「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖なるものとされますように。すでにイエス様を通して完全に回復された父の聖なる御名が、私の生活を通して現れるようにしてください。私が父の御名を隠すことがないようにし、むしろ父の聖さと愛が日本のこの地で私を通して現れるようにしてください。」

特に日本に住む私たちクリスチャンは、この祈りをより切実に献げなければなりません。私たちの生活がすなわち福音です。神の国の看板です。私たちの生活がすなわち神に対する証しです。神の聖なる御名が私たちを通してこの地で高められることを切に願い祈ります。アーメン。

「諸国の民の中で汚されたわが大いなる名、あなたがたが彼らの中で汚したわが名を、わたしは聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、あなたがたによってわたしの聖なることを現すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知るようになる」(エゼキエル書36章23節)

 
 
 

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