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心から始まる第7戒め(マタイ5:27~32)

작성자 사진: rlxonorgrlxonorg

心から始まる第7戒め(マタイ5:27~32)


  律法の三つの属性

  律法は神様がご自分の民に下さった法です。律法には目的と方向性があります。神の律法は、神の国の民が幸福と繁栄を成し遂げるために、その目的と方向性を持っています。

  神の律法には大きく3つの属性があります。

  まず、「愛」です。イエス様も明言されたように、律法には大きく二つの骨格があります。一つは「神への愛」であり、もう一つは「隣人への愛」です。律法は「愛の法」です。 だから、神の律法はよく守れば守るほど、共同体は愛の共同体になります。

  第二に、律法は人の「心」を扱います。神様の律法は人の心と考えから正しく作用しなければなりません。 神様は行為より先に行為者の心と考えから見ておられます。 逃げる城」を作られた理由があります。逃走城は、殺害する意図が全くなかったのに、誤って人を殺してしまった場合、彼は近くの逃走城に逃げて命を救うことができるようにされました。今日なら、明らかに人を殺した物的証拠があるとして、法の裁きを受けなければならないと言うでしょう。 しかし、神の法廷では、物的証拠よりも有効な証拠は、心の証拠、「心証」です。律法は、まず人の心と考えから正しく理解され、それから行動につながらなければなりません。律法は「心の法」です。

  第三に、律法は「聖霊の法」です。霊である神様がご自分の民に律法を与えることによって、魂が保護され、心の平安を享受できるようになります。 しかし、人間の考えは、霊の考えよりも肉の考えに傾きがちです。 ですから、神の律法を正しく行うには、聖霊の助けがなければなりません。律法は「聖霊の法」です。


  このように、神様がモーセを通してご自分の民に律法を与える時、「愛の律法」、「心の律法」、「聖霊の律法」として与えられました。 しかし、書記官とパリサイ人は、神の律法からこの三つを取り除きました。 愛も、心証も、聖霊もありません。

  パリサイ人は、天の法を地上の法のレベルに引き下げました。 心証より物証を要求する世の中の裁判所のレベルに転落させました。 目に見える証拠が効力を持つ世の中の裁判所に神の法を持ち込みました。

  しかし、神の法は天の法廷で扱われます。全能の神様が目的者であり、裁判長です。この天の法廷では、物証よりも心証がより法廷の効力を持ちます。 人の魂が証拠です。

  

  イエス様がこの地上に来られ、パリサイ人が失墜させた神様の法を再び自分の民に与えてくださいます。愛の法、心の法、聖霊の法で再び私たちに与えてくださいます。

  イエス様が怒るだけでも殺人罪と言われます。 その心に殺意と生気が満ちた者を強盗と見なされます。心に淫欲を抱く者を、すでに姦淫した者と言われます。イエス様は律法で私たちを非難しようとしていると思うのは誤解です。

  イエス様は神の律法で私たちの心と考え、そして感情まで扱っておられます。霊である神様は、人間の肉体よりも心と考え、理性と感性が重要視されます。神様はいつも人の中心を見ます。

  だから「礼拝する者は霊と真理で礼拝しなければならない」と言われます。 つまり、礼拝は私たちの心から始めなければなりません。


  パリサイ人は天の法を地上の法に引きずり下ろしました。私たちはどうでしょうか? 神様の真理を世の中の教訓程度に転落させませんでしたか?

  説教を聞きながら、世の中の講義を聞くように聞いていませんか?牧師の説教よりも有名な講師の言葉に耳を傾けませんか?もしそうなら、神の御言葉を世の中のレベルで扱っているのです。

  イエス様は、パリサイ人が失墜させた神の律法を再び天の律法として回復させます。 そして、ご自分の民に真に律法を守らせ、愛の息子の国を成し遂げさせます。


  姦淫するな 

  今日私たちが見る本文で、イエス様は十戒の第7戒め「姦淫するな」を扱います。

  当時、パリサイ人は、姦淫罪を配偶者以外の人との性的関係を結ぶことだけを考えていました。 しかし、イエス様は、彼らの心から姦淫が始まるという事実を明らかにしてくださいます。 また、イエス様を通して、姦淫罪がどれほど巧妙なものであるか、また、どれほど破壊的なものであるかを知ることができます。


  1.巧妙な姦淫の罪

   先ほど申し上げたように、パリサイ人は第7戒律を世俗的な法廷レベルに引き下げて適用しました。 だから、実際に性行為さえしなければ、自分たちはこの戒律から自由だと考えていました。

  しかし、イエス様は、彼らの心の中にはすでに淫欲が満ちており、淫乱の視線で神が造られた女性を見ることを姦淫罪と非難されます。 そうです。心の淫欲は密かに楽しむ快楽です。

  イエス様は、行為よりも人の心が清らかでなければならないと言われます。人の心は本来、神の座所です。聖霊が住まわれる神殿です。 ところが、そこで淫欲を抱き、他の隣人を自分の性的なおもちゃにしているようなことが起こっているのであれば、神の御霊は心配するしかないのです。

  心の淫欲、それが証拠です。神様の法廷では、皆さんの淫欲の目が、皆さんの淫乱の手が、心証が証拠となるのです。 だから、主は「あなたの右目がお互いにつまずくなら、それを取り去りなさい、あなたの百体のうちの一つがなくなり、全身が地獄に投げ込まれないことが有益である」と言われたのだと思います。


  "淫欲を抱いて女性を見る者は、心にすでに姦淫しているのです

  淫欲と見ることがどのように相互作用するのかについて少し言及しようと思います。

  心の中に淫欲に満ちた人は、その視線がきれいではありません。 つまり、あなたの心の状態があなたの視線を作るのです。心にどんな殺意も、淫欲もないイエス様の視線は、完全な愛の視線です。愛する聖徒の皆さん、皆さんの視線が不快な視線にならないように願っています。

  また、同時に私たちの視線によって心が影響を受けることもあることを忘れてはなりません。イエス様を信じて救われた人でも、まだ昔の人の自我が残っているので、見ることに注意しなければなりません。

  サムエル下11章を見ると、ダビデ王が王宮の屋上を散歩している時、ある女性が入浴しているのを見て、その心の中で欲望が湧き上がりました。 彼が目で見たことが、その人の心の欲望を刺激し、覚醒させました。

  女性を見ることは何も悪いことではありません。 しかし、愛の視線で見ることができなければなりません。 愛の視線は相手を思いやるものです。愛の視線は相手を気遣い、熟慮し、忍耐します。 しかし、淫欲の視線は自己満足を追求するため、焦り、せっかちで、せっかちで、考えがありません。 愛の視線は一人の人だけを見つめます。 しかし、淫欲の視線は誰を問わず、視線を向けます。 愛の視線は相手の目を見つめます。淫欲の視線は横目で見ながら、騙しや策略で誘惑する計画を立て、チャンスを狙います。

  入浴する女性を見つめたダビデの視線は、明らかに淫欲の視線でした。愛のまなざしだったら、入浴する女性を思いやる心で自分の目を覆ったはずです。 しかし、ダビデの淫欲のまなざしは彼の心を強く揺さぶりました。 彼は横目で見ながらトリックと策略で誘惑する計画を立て、チャンスを狙います。結局、ダビデは淫欲に飲み込まれ、その女性と寝てしまいます。妊娠した事実を隠そうとして、結局彼女の夫を最も危険な戦場で死なせてしまいます。

  愛する聖徒の皆さん、皆さんが見るものに気をつけなければなりません。 皆さんの心の中にある淫欲と貪欲は、皆さんの視線を餌にしてどんどん成長しようとします。

  脳科学者たちの研究によると、私たちの視神経が性的刺激にさらされると、脳からドーパミン物質が分泌されます。快感を感じるのは、ドーパミンが分泌されるからだと言われています。ドーパミンが繰り返されると「覚醒中毒」につながる可能性があります。 覚醒中毒」(Arousal addiction)とは、性依存症の一種で、主に若い男性に見られると言われています。 覚醒中毒の主な特徴は、「繰り返される強烈な性的幻想」に夢中になることで、ひどくなるとコントロールを失い、耐性が生まれ、より強い刺激を必要とするようになることです。

  心の中で密かに楽しむ淫欲は、結局、自分自身を捕らえることになります。 したがって、私たちはイエス様が言われた「あなたの右目を取り去りなさい、あなたの右手があなたでつまずくなら、それを取り去りなさい」という御言葉が、無駄に厳しい言葉ではないという事実を知る必要があります。私たちの魂が滅びることを望まないイエス様の厳しい警告の言葉に耳を傾けなければなりません。

  この点で、若い青年ヨセフの話は私たちに大きな教訓を与えてくれます。ボニバルの妻が彼を誘惑した時、ヨセフは「私がどうしてこのような大きな悪を行い、神に罪を犯すだろうか」と言い、断固として拒絶しました。 彼は自分の地位と命の危険を冒しながらも、神様の前で純潔を守りました。

  目玉を抜いて手を抜くような心で、罪の現場から離れてください。見ることに注意してください。



  2.破壊的な姦淫の罪

  姦淫するな」という主の言葉を自分の健康と安定のためだけに考えてはいけません。姦淫罪は、皆さんが思っている以上に重い罪です。

  なぜなら、姦淫の罪は、神さまがとても愛し、大切にされている夫婦関係と家庭を破壊するからです。

  神様は人を創造される時、男と女で創造し、二人が結婚という契約の関係の中で一つの体になるようにされました。 そうして家庭が建てられ、家庭は別の命を宿す神秘的な能力を持つようにされました。

  この家庭という機関は、教会と同じくらい神聖で祝福された機関です。教会と家庭は共に神様が親身になってこの地に建てられた機関です。 特に夫婦は「神様が親身になって結ばれたもの」として、人が分けてはならないと言われます(マタイ19:6; マルコ10:9)。家庭と教会は共に神の契約の上に建てられたものであり、家庭と教会は共に生命を 잉태するようにされました。 教会と家庭の両方に生長し、繁栄し、地に満ちるようにと命令を下さり、そうして家庭と教会は共にキリストの連合の神秘を含む神の国の一部です。

  したがって、姦淫は神様が結ばれた夫婦の関係を壊すとても悪い罪です。自分の満足と快楽のために、神の国の一部である家庭を破壊することです。

  イエス様が姦淫をしないという戒めを言いながら31節に「離婚」を言及されたのは、まさにこのような理由があるのです。

  当時の男性は、 별の별な理由で離婚をしました。料理ができないという理由でも離婚しました。 しかし、彼らが妻を捨てた本当の理由は「心の淫欲」でした。 32節の御言葉を見てください。

  「わたしはあなたがたに言う、姦淫の理由もなく妻を捨てる者は、姦淫をする者であり、また、捨てられた女に嫁ぐ者も姦淫をする者である。」

  イエス様がこの御言葉を言われた理由は、自分の心の欲望を叶えたいけど、律法を破ることができないから離婚する人が多かったからです。 しかし、それは「合法的な姦淫」と言えます。矛盾しているように思えますが、そうです。 彼らがそうでした。 矛盾した信仰生活、神愛と隣人愛はなく、自分だけを愛し、それでいて律法を守り、地獄に落ちないようにしようとする怪物のような姿をイエス様が暴露されたのです。

  今日、スマートフォン一つでも、数多くのわいせつと不適切なコンテンツにさらされる可能性があります。 しかし、イエス様の御言葉通り、私たちの目と手が私たちをつまずかせるなら、思い切って断ち切らなければなりません。

  神様は私たちの家庭を愛しておられます。教会と同じくらい大切にされている聖なる機関です。私たちの小さな欲望がこの聖なる家庭を破壊する可能性があることを忘れないでください。

  心を守ってください。視線を守ってください。


  おわりに

  愛する聖徒の皆さん、今日は姦淫罪の本質とその危険性について見てきました。 イエス様は私たちの心の中にある淫欲さえも姦淫罪と見なされるという事実を覚えておいてください。これは私たちを非難するためではなく、私たちの魂を愛しておられるからです。

  私たちが生きているこの時代は、これまで以上に淫らな誘惑が溢れています。SNSでの不適切なDM(ダイレクトメッセージ)、会社内での密会提案、出会い系アプリによる無分別な出会いなどがあります。 特に、在宅勤務が増え、業務用メッセンジャーを通じたプライベートな会話が密かに行われる場合もあるそうです。各国で姦通罪を廃止しています。もはや姦淫は罪ではないそうです。 しかし、私たちは神の国の民として、王であるイエス様からこの戒めを再び受けました。

  それでは、神の御言葉を私たちの人生にどのように適用するかを具体的に見てみましょう。 結婚された方と未婚の方の状況が違うので、それぞれに合った適用点を分けたいと思います。

  まず、結婚された方への適用です。

  まず、配偶者との関係をより深く深めていく必要があります。毎日10分でもいいので、深みのある会話の時間を持ちましょう。週に一度は二人だけのデートの時間を作ってください。

  第二に、異性との関係において明確な境界線を設けてください。仕事や日常生活で異性との関係は避けられませんが、純粋な仲間意識を超えないように注意する必要があります。 仕事以外のプライベートな連絡は控えて、すべてのスケジュールを配偶者と共有してください。これは不信ではなく、お互いの信頼関係をより強固なものにするためです。

  次に、未婚の方への適用です。

  まず、聖なる未来を準備してください。結婚は単純な二人の出会いではなく、神様の前で結ぶ聖なる契約です。 異性交わりをする時も聖書の原則を立てて守ってください。ヨセフを見てください。 彼は誘惑の前で「私がどうしてこの大きな悪を行い、神様に罪を犯すだろうか」と断固拒否しました。瞬間の快楽ではなく、神様との関係を選んだのです。

  第二に、誘惑の状況を賢く管理してください。出会い系アプリやSNSを通じた軽い出会いの誘惑があります。出会いは必ず公開された場所で行ってください。神様が用意された時を待ち、その時間を健全な趣味活動と自己啓発に投資してください。

  主の戒めを守ることは、あなたの生活に多くの制約で不便を与えると思いますか? これはまるで鉄道の上を走る列車のようなものです。 列車は線路の上しか走れないという制約がありますが、その制約の中で自由に走ることができ、目的地に到達することができます。私たちの自由もこれと同じです。律法から自由であるということは、律法を無視してもいいという意味ではなく、キリストによって初めて律法の真の意味を理解し、それを実行できるようになったということです。

  モーセの戒めが私たちを判断し、非難したのなら、イエス様の戒めは私と皆さんの魂と心を清く保つためであることを知らなければなりません。 イエス様は私たちの弱さを知っておられます。 だから、「私の力は弱いところから完全になる」と言われました。私たちがすべきことは、私たちの弱さを認め、主の恵みを求めることです。

   そして何よりも聖霊の助けを求めることです。私たちの意志だけでは、このすべての誘惑に打ち勝つことはできません。 聖霊様が私たちの心を新しくしてくださり、私たちの視線を清浄にしてくださいます。 私たちの家庭が神の愛でより強固になることを願っています。

  今、私たち皆が神様の律法を世の中の法律のように外面的にだけ守るのではなく、心と魂から愛をもって守る者になることを願っています。そして、私たちの生活と家庭を通して、神の国の聖さと愛が現われることを主の御名によって祝福します。アーメン。

 
 
 

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