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恵みの眼差しで見る神の子羊(ヨハネ18:33~38)

序論

愛する聖徒の皆さん、先週の日曜日には「イエスの沈黙とペテロの涙」というタイトルで御言葉を分かち合いました。私たちは不公平な裁判を受けながらも沈黙されたイエス様の姿と、主を三度も否定した後に泣き崩れたペテロの姿を通して深い恵みを分かち合いました。特にイエス様は私たちの代理者として沈黙され、ペテロは自分の確信が崩れた場所で主の愛のまなざしを通して回復の恵みを経験したことを見てきました。

今日は聖餐式の日にあたり、「恵みの視線で見る神の小羊」というタイトルで御言葉を分かち合いたいと思います。

愛する聖徒の皆さん、人々は同じ山を眺めても、それぞれ異なるものを見るものです。芸術家はその山の美しい色彩と構図を見て霊感を得、地質学者は同じ山を見ながらも地層と岩石の構成を分析します。登山家は登るルートを探し、植物学者はそこに生える植物に注目します。このように、イエス様を見る時も同じことが言えます。今日の御言葉に登場するイスカリオテのユダ、祭司長たち、ピラトはみな同じイエス様を見ましたが、それぞれ異なるものを見ていました。重要なのは、私たちがどのような視線でイエス様を見るかということです。世の視線で見る時と恵みの視線で見る時、私たちはまったく異なるイエス様に出会うことになります。

今日、私たちは逆説的にも、イスカリオテのユダ、祭司長たちとその手下たち、そしてピラトの姿を通して、より明確に現れるイエス・キリストの無罪さと同時に、神の小羊として私たちの罪を担われたその驚くべき真理を考察していきます。特に彼らの姿の中で人間の悪い本性がどのように現れるのか、それにもかかわらず神の救いの計画がどのように成就されるのかを深く黙想することになるでしょう。

本論

1. イスカリオテのユダ - 無罪の血を売りながらも立ち返れなかった悲劇

イスカリオテのユダの物語は聖書の中で最も悲劇的な物語の一つです。彼は3年間イエス様と共に生活しました。イエス様の教えを直接聞き、その奇跡を目撃し、十二弟子の一人として選ばれる特権を享受しました。しかし彼は結局イエス様を裏切りました。

マタイによる福音書27章3-4節を見ると、「そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちと長老たちに返して言った。『私は罪を犯した。無実の人の血を売ったのだ』」と告白しています。この告白は非常に重要です。イスカリオテのユダはイエス様を最も間近で見てきた人の一人でした。もしイエス様に何か欠点や欠陥があったなら、ユダはそれを発見していたはずであり、それによって自分の裏切りを正当化できたはずです。しかし彼は「私は無実の血を売った」と告白しました。

数年前、ある老人が自分の屋根裏部屋で古いコインを一つ見つけました。彼はそれがただの古いコインだと思い、店に行って買い物をする時に使いました。ところが後にそのコインを受け取った店主がその本当の価値を知ることになりました。それは数百年前の希少なコインで、数千万ウォンの価値があったのです。イスカリオテのユダの悲劇もこれと同じです。彼は3年間イエス様と共にいながらも、その真の価値を知りませんでした。彼は世界で最も貴重な宝を手に持ちながらも、それを銀貨30枚、当時の奴隷一人の価値で売り渡してしまいました。これこそが世の視線でイエス様を見た時の悲劇です。

しかし悲劇はここで終わりません。ユダは自分の過ちに気づきましたが、イエス様に立ち返ることができませんでした。彼は後悔し、受け取った銀貨を返しましたが、結局自分の罪悪感のために命を絶ちました。これは真の悔い改めと単なる後悔の違いを示しています。真の悔い改めは罪から立ち返って救い主に向かうことです。しかしユダは自分の罪と恥の中に閉じ込められ、救い主に立ち返ることができませんでした。

2. 祭司長たちとその集団 - 真理を知るほどより激しく真理に敵対する

本文28節を見ると、「彼らはイエスをカヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった。彼らは汚れを受けないで過越の食事ができるように、官邸には入らなかった」と記されています。ここでの「彼ら」とは祭司長たちとその手下たちのことです。彼らは無罪のイエス様を殺すことを決めた後、ローマ総督ピラトに死刑執行を要請するためにイエス様を連れて行きました。

この場面で私たちは驚くべき偽善を発見します。彼らは無実の人を殺そうという陰謀を企てながらも、異邦人の官邸に入って「汚れ」を受けないようにしています。なぜなら彼らは過越の食事をしたかったからです。なんと矛盾した行動でしょうか?罪のない神の子を殺そうとする殺人罪を犯しながらも、儀式的な清さを保とうとしています。

イエス様はこのような人々に対して「白く塗った墓」と叱責されました(マタイ23:27)。外見は清く見えますが、中は死者の骨とあらゆる汚れで満ちていたからです。

さらに衝撃的なのは、彼らがイエス様の無罪さを知れば知るほど、より激しく彼を殺そうとしたという点です。ルカによる福音書23章に記されているように、ユダヤの指導者たちはピラトの前でイエス様を告発し、「私たちはこの人が私たちの民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分をキリストである王だと言っているのを見つけました」と言います。しかしこれは完全な歪曲でした。彼らはイエス様を殺すために嘘をつくことさえ厭いませんでした。

3. ピラト - 無罪を認めながらも真理を無視した者

本文を続けて見ていきましょう。ピラトはイエス様を尋問した後、38節で「私はこの人に何の罪も見いだせない」と宣言します。ピラトはローマ帝国の法官としてイエス様に何の罪もないことを明らかにしました。

しかしピラトの行動は矛盾しています。彼はイエス様の無罪を知りながらも、結局彼を十字架につけるために引き渡します。なぜそうしたのでしょうか?ピラトは自分の政治的立場と個人的利益を守るために真理を妥協したのです。

38-39節でピラトはユダヤ人たちに「過越の祭りには、私があなたがたに一人の囚人を釈放する慣例があるが、それでは、あなたがたはユダヤ人の王を釈放してほしいか」と尋ねます。ここでピラトは責任を回避しています。彼はイエス様が無罪であることを知っていましたが、群衆の意見に決定を委ねることで自分の手を洗おうとしたのです。

ピラトは「真理とは何か」(38節)と問いましたが、実際には真理が彼の前に立っていたにもかかわらず、それを受け入れませんでした。この質問は人類の歴史において最も重要な質問の一つです。しかしピラトは真理についての答えを待ちませんでした。彼は真理を求めるふりをしましたが、実際には真理よりも世の権力と自分の地位をより重視したのです。

ピラトは中立を保とうとしましたが、結局不義な側に傾きました。これは私たちに重要な教訓を与えます。真理の前には中立はありません。私たちはイエス様を王として受け入れるか、それとも拒否するか、二つのうちどちらかを選ばなければなりません。ピラトのように責任を回避し、中間に立とうとする試みは結局真理を否定することと同じです。

4. 恵みの視線で見る神の小羊

ここまで私たちはイスカリオテのユダ、祭司長たちとその集団、そしてピラトを通して人間の悪い本性がどのように現れるかを見てきました。しかしここからは、これらすべての出来事のより深い意味を考察しなければなりません。

ピラトがイエス様に「何の罪も見いだせない」と宣言したのは表面的な法的判断でした。しかし洗礼者ヨハネはイエス様を初めて見た時、こう叫びました:「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)。

ピラトの視線と洗礼者ヨハネの視線は根本的に違っていました。ピラトは世の法的基準でイエス様を判断し、その基準ではイエス様に罪はありませんでした。これは正しいことです。しかし私たちは洗礼者ヨハネのように恵みの視線でイエス様を見るべきです。彼はイエス様が単に無罪の人ではなく、私たちの罪を担うために来られた「神の小羊」であることを見ました。私たちは傷のない神の小羊イエスに、私たちの汚れた罪が見出されることを知らなければなりません。

愛する聖徒の皆さん、ここに驚くべき逆説があります。通常、法廷では罪が確認されれば有罪、確認されなければ無罪が宣告されます。ところがイエス様の場合はその反対に進みました。彼は無罪であったからこそ、私たちの罪を担うことができたのです。そのため逆説的にも、イエス様に罪が確認されなかったからこそ、彼は有罪を宣告されることになったのです。これこそが神の驚くべき救いの神秘です。完全に無罪の方であったからこそ、その方だけが私たちの罪を完全に担うことができたのです。これが恵みの視線でのみ見ることができる小羊の深い意味です。

コリント人への手紙第二5章21節はこう述べています:「神は、罪を知らなかった方を、私たちのために罪となさいました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」

世の法廷ではイエス様の罪は見つかりませんでした。彼は傷のない神の小羊であることが確認されました。そのためイエス様は私たちのすべての罪を担って神の法廷に立たれることになりました。彼は私たちの身代わりとして来られ、私たちのために「罪となられました」。

イエス様は過越の子羊のように犠牲になられました。ユダヤの指導者たちがイエス様をピラトに連れて行った日は過越の祭りの前日でした。彼らは過越の食事を準備しながら、実際には真の過越の子羊であるイエス様を死に追いやっていたのです。これは神の驚くべき計画でした。

今日私たちが聖餐式に参加しながら、この深い意味を黙想しましょう。パンを裂いて食べる時、私たちは私たちのために裂かれたキリストの体を覚えます。杯を飲む時、私たちは私たちの罪のために流されたキリストの血を覚えます。この聖餐は無罪のキリストが私たちの罪を担われたその驚くべき愛の表現です。

聖餐式は単なる儀式ではなく、キリストの犠牲を覚え、私たちの罪を認め、その恵みに深く感謝する時間です。コリント人への手紙第一11章27-29節は私たちにこう警告しています:「ですから、ふさわしくないままでこのパンを食べ、主の杯を飲む者は、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。人は自分をかえりみて、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。主のからだをわきまえないで、飲み食いする者は自分に対するさばきを飲み食いするのです。」

結論:恵みの視線で見る十字架

愛する聖徒の皆さん、今日の御言葉を通して私たちは二つの視線、すなわち不信の視線と恵みの視線を考察しました。

イスカリオテのユダ、祭司長たちとその集団、そしてピラトが皆滅びて誤った判断をした根本的な原因は何でしょうか?それはまさに彼らが恵みの視線でイエス・キリストを見ることができなかったからです。彼らは世の基準、自分の利益、政治的計算でイエス様を見ました。ユダはイエス様が無罪であることを知っていましたが、彼に立ち返ることができませんでした。祭司長たちはイエス様の無罪さを知るほどより激しく彼を殺そうとしました。ピラトはイエス様の無罪を宣言しましたが、自分の安全のために彼を引き渡しました。

皆さん、視力が悪くなった人が初めて眼鏡をかけるとどんな経験をするでしょうか?以前はぼやけて見えた文字がはっきりと見え、区別できなかった細部が鮮明に見え始めます。恵みの視線も同じです。この「霊的な眼鏡」をかける時、私たちははじめて十字架の真の意味をはっきりと見ることができるのです。

私たちは無罪のイエスを信仰の目で見る時に、神の傷のない小羊が見えます。そして無罪の小羊に私たちの罪が担われたことを見るのです。

そうです。通常、法廷では罪が確認されれば有罪、確認されなければ無罪が宣告されます。しかしイエス様の場合はその反対に進みました。彼は無罪であったからこそ、私たちの罪を担うことができたのです。逆説的にも、イエス様に罪が確認されなかったからこそ(私たちのために)有罪を宣告されることになりました。これこそが神の驚くべき救いの神秘です。

今日聖餐に参加しながらこの深い意味を覚えてください。私たちが聖餐で参加するのは「罪となった」キリストではなく、「罪から私たちを自由にした」キリストです。聖餐は単なる儀式ではなく、キリストの贖いの働きが成し遂げられた後の状態、つまり清められた状態に参加することです。過越の子羊は殺された後に食物となりました。同様に、キリストは十字架上で死ぬことによって私たちの罪の罰を完全に担われ、その後、聖餐を通して私たちに霊的な糧となるのです。

したがって、コリント人への手紙に警告されている「主のからだをわきまえないで、飲み食いする者は自分に対するさばきを飲み食いする」とは、聖餐のこの深い意味を認識せずに単なる食事のように考える態度を戒めるものです。私たちが相応しい心で聖餐に参加する時、私たちは自分の罪を飲み食いするのではなく、むしろ私たちの罪を代わりに担い、私たちに義を与えてくださったキリストのいのちに参加するのです。

愛する聖徒の皆さん、私たちがピラトのように真理から目をそらしたり、ユダヤの指導者たちのように真理を拒否したり、イスカリオテのユダのように真理に立ち返らなかったりせず、恵みの視線でイエス・キリストを見つめ、その中に私の罪と彼の救いを見出す真のクリスチャンになることを祈ります。そして今日の聖餐に参加しながら、キリストの犠牲的な愛に感謝し、その命に完全に参加する祝福された時間となることを切に願います。

祈り

恵み深い神の父よ、無罪のイエス・キリストを私たちの罪を担う犠牲のいけにえとして送ってくださり感謝します。その苦しみと死を通して私たちに救いの道を開いてくださり感謝します。

主よ、私たちが世の視線ではなく恵みの視線で十字架を見ることができますように。私たちの罪のために死なれたイエス様の愛を深く悟ることができますように。そしてその愛によって私たちも他の人々を見て仕え、生きていくことができますように。

今日聖餐に参加する私たち全員が自分自身を深く省み、私たちの罪を悔い改め、キリストの体と血の意味を深く黙想することができますように。私たちが相応しい心で聖餐に参加し、キリストとの一致をより深く経験することができますように。

無罪のキリスト、私たちの罪を担われた神の小羊を賛美します。その御名によって祈ります。アーメン。

 
 
 

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