私は今日、イエス様が言われた幸いな人の三番目の特徴である柔和についてお話ししたいと思います。 皆さん、柔和とは何だと思いますか?
柔和の辞書的な定義は、「第一に、性格が穏やかで優しさ、第二に、言葉や行動が穏やかで優しいこと、第三に、物事を冷静に受け止め、穏やかに対応すること」です。
アリストテレスのような古代哲学者たちは、柔和を円滑な人間関係とリーダーシップのために必要な美徳程度と考えました。 簡単に言えば、「柔和」なんてなくても生きていくには問題がないということです。
では、聖書が言う柔和とは何でしょうか。 「柔和な人は幸いである、彼らは地を受け継ぐからである」(マタイ5:5)。まず、次元が違いますね。 あってもいいし、なくてもいい美徳というレベルではありません。 穏やかな者が地を賜ると、イエス様が直接言われました。聖書を少しでも勉強された方なら、「地を賜る」という言葉が神学的にどれほど重要な言葉かご存知でしょう。 これは「救われる」の別の表現でもあります。世の中ではなくてもいいと思っている「柔和」を、イエス様は「救われ」て神の国の民となった者に現れる性質として語っておられます。
今日、皆さんが土地を買うのに何が必要ですか? 不動産仲介事務所に行ったら、「あなたは柔和だから土地をお譲りします」と言われましたか? 一坪の土地を買おうと思っても「お金」、「お金」が必要です。 しかし、神の国は「お金」ではなく「柔和」な者に与えられます。神の国の王であるイエス様が自ら言われた言葉です。柔和な者は幸いである、彼らは地を受け継ぐでしょう。
私は、聖書が語る柔和が何であるかを聖書の人物を通して見て、柔和の究極であるイエス・キリストの柔和を学び、それを私たちの人生にどのように適用できるかを一緒にお話ししたいと思います。
2.柔和の聖書的基礎
私は、柔和という一本の木を詳しく見る前に、八つの福音という森をもう一度見たいと思います。何よりもまず、主が八つの福音を語られた時に「福」がどのような意味を持っているのかをよく知る必要があります。 この点を正しく理解しなければ、八つの福音を福を受ける秘訣や条件などと誤解する可能性が高いからです。
マタイ使徒は「福」という言葉を「マカリオス」というギリシャ語で記録しました。 しかし、当時のイエス様と弟子たち、そしてユダヤ人はヘブライ語の方言であるアラム語を使用していました。 そのため、実際にイエス様が使用した言葉は「マカリオス」ではなく、ヘブライ語の「アシュレ」である可能性が高いです。
旧約聖書で「祝福」を言う時に最も多く使われるヘブライ語は、実は「アシュレ」ではなく「バラク」です。バラクは神様が祝福を下さる時に使われる言葉です。 つまり、祝福の原因としての意味を持っています。一方、「アシュレ」はどのような祝福かというと、結果としての祝福です。 アシュレ」をよく理解するには、詩篇1篇を見る必要があります。
「幸いな人は、悪人の策略に従わず。ただ主の律法を喜び、主の律法を昼も夜も熟考する。" ここで言う「幸いな人」がヘブライ語で「アシュレ」です。 これは神の祝福による「深い満足と繁栄」を意味します。
アシュレ」を最もよく例えるのが「小川に植えられた木」です。 この木が小川に植えられたので、結果として結実する実、繁栄が「アシュレ」です。 (私が以前、夜明けに詩篇講解の説教をする時にこの部分を詳しく話したことがあります)。
つまり、「アシュレ」は、人が神の国に属することによって現れる祝福された状態を意味します。さて、再び八つの福音に戻りましょう。 ここで言う福は「アシュレ」です。 心が貧しいから天国という福を得る」あるいは「嘆くから慰めという福を得る」ではなく、神の国に属しているからこそ「心の貧しさ」と「嘆き」と「柔和」「憐れみ」などが出てくるのです。 それを見て「あなたは本当に幸いな人だ!」という感嘆詞として見なければならないのです。
ですから、私たちが注目すべき点は、この柔和は自然人の性質ではないということです。 それは、神の国に根ざした人々にのみ現れる聖霊の実です(ガラテヤ5章)。
3.旧約聖書の柔和な人物たち
それでは、聖書に登場する柔和な人々に会ってみましょう。
1)柔和が地上のすべての人よりもっと柔和だったモーセ
旧約聖書で柔和な人を探せと言われたら、当然、モーセを挙げなければなりません。 なぜなら、モーセは、主が自ら「この人モーセは柔和が地上のすべての人より優しかった」(民12:3)と言われたからです。 ですから、聖書的な柔和を研究するには、必ずモーセの柔和に注目しなければなりません。
神様がこの言葉を言われた状況を見る必要があります。モーセがグースの女を飲んだとき、姉ミリアムと兄アロンがモーセを誹謗し始めました。 実はミリアムとアロンがモーセを誹謗したのは、彼がグースの女を飲んだからだけではありませんでした。民数記12章2節を見ると、「彼らは言った、「主はモーセとだけ話されたのか、私たちとも話されなかったのか」と言ったので、主はこの言葉を聞かれた」。
彼らは自分たちより若いモーセの言葉に従順に従わなければならないことに不満を持っていたようです。 だから、モーセに責任を問うことだけを待っていたのです。 聖書はこのような人々を指して「悪意に満ちた者」と言います。
ところが、この時、主が彼らに親しく言われた言葉がこれです。 この人、モーセは柔和さが地上のすべての人よりも優れている」(3節)。そして、「どうしてあなたがたは、わたしのしもべモーセを誹謗することを恐れないのか」(8節)と言われました。
そうです。ミリアムとアロンは、主のしもべを中傷することを恐れませんでした。 それは「自分の父の顔に唾を吐くようなもの」(14節)と神様は言われました。
その心に柔和がなく、悪意に満ちたミリアムは、その直後にハンセン病にかかり、目のようになりました(10節)。傍らでミリアムを見たアロンは愕然とし、「肉が半分腐って母胎から死んで出てきた人のようにならないようにしてください」(12節)と言いました。
神様が立てた秩序に対して「あなたと私と何が違うのか」と誹謗中傷することを神様がどれほど嫌われたら、直接彼らに現れて罰を下さるまでされたのでしょうか。
誰も誹謗中傷をしてはいけません。 しかし、他人を誹謗中傷しないためには、まず悪意を捨てて柔和な者にならなければなりません。
なぜ神様はモーセを指して「柔和な者」と言われたのでしょうか。モーセは自分を誹謗中傷していたミリアムが「肉が半分腐り、母胎から死んで出てきた人のようになった」のを見て、どのように反応しましたか? 皆さんならどのように思いますか?
「見苦しい。やっぱりそうだと思った。 気持ちがすっきりした」正直言って、今日のほとんどの人の自然な反応でしょう。
しかし、柔和なモーセはどうでしたか?モーセは自分を誹謗中傷していたミリアムに対して、ヤハウェ様に叫び、祈りました。 そうです。柔和な者は敵のために嘆く者です。
神様がモーセに「柔和な者」と言われた時に使われた言葉がヘブライ語の「アナ」(עָנָו)です。 これは「おとなしい」という意味です。頭を下げる」という意味です。モーセは苦しい時、誹謗中傷された時、侮辱された時、罵声を浴びせませんでした。 彼は神様の前と人々の前で頭を下げることができる柔和さを持っていました。頭を下げるということは、神にすべてを委ねるということです。 このモーセの柔和さを超える者が後に登場しますが、それが十字架につけられたイエス様です。
2) ダビデの柔和さ
旧約聖書の人物の中で、もう一つの柔和な人物がいます。ダビデです。 彼は早くにサムエル預言者を通して油注がれた後、むしろ苦難と迫害が押し寄せ始めました。 ダビデが何を間違ったのでしょうか。 サウル王に忠誠を尽くし、国のために命を捧げて戦ったこと以外にありません。 しかし、サウル王の心には嫉妬と妬み、そして悪意と殺意が満ちていました。 悪意は怒りと暴力で表出されます。 悪意に満ちた人は、神に報復を頼らず、自分が報復者になります。これは神の役割を奪う邪悪な罪です。 そうです。悪意は柔和とは反対の性質です。悪意に満ちた者は柔和であることができず、柔和な者はその中に悪意がありません。
ダビデはサウルに報復する機会を皆さんに迎えられました。 周囲の人々は、サウルを殺して報復する絶好の機会だと言って、神様も理解するだろうと言いました。 しかし、ダビデは「私が手を上げて、主の油そそがれた者を打つことを主が禁じている」(三上26:11)と言い、報復しませんでした。 ダビデはミリアムの物語から教訓を得ました。
「申命記24:8-9あなたはハンセン病に対して慎み、レビ人の祭司たちがあなたに教えるとおりに、あなたが力を尽くして守りなさい、私が彼らに命じたとおりに守りなさい/ 9あなたがたは、エジプトから出る道で、あなたの神、主がミリアムになさったことを思い出すであろう。」
やはり、幼い時から神様の御言葉をよく学ばなければなりません。 教会学校は子供たちに聖書を教え、ミリアムのような愚かな者ではなく、モーセとダビデのような柔和な者を排出するところです。
柔和は神様を信頼し、完全に任せた者に与えられる性質です。
ダビデはどのようにしてサウルからの執拗な誹謗中傷と長い迫害を受けながらも、柔和さを失わないことができたのでしょうか。 自分が王になることを信じていたからです。 神様が自分に油を注いでくださったからです。 サウルがいくら誹謗中傷して騒いでも、柔和さを失わないことができた秘訣がこれです。 そうです。柔和は神を信頼し、自分の人生を任せた者に与えられる性質です。
ダビデの柔和さは、彼が王になった後も続きました。 彼は自分の息子アブサロムの反乱によって逃げなければならなかった時にも、神の御心に従い、こう言いました。 「もし主がわたしを愛してくだされば、わたしを再び戻され、その箱とそのおられるところをわたしに見せてくださるでしょう」(三下15:25)。
このように、ダビデの柔和さは彼の生涯を通じて現れ、それは彼が神と結んだ深い関係から生まれたものでした。
私たちはヨブからも彼と同じ告白を見つけることができます。「与える者も主であり、刈り取る者も主であるから、主の御名が賛美されるであろう。」 柔和は、神様の前に心の貧しさをもって嘆き悲しむ者に与えられる実なのです。
聖書的な柔和、すなわちイエス・キリストの柔和は、自然人として作り出すことができる種類のものではありません。 ただ、神の国に根を下ろした者から結実する聖霊の実です。
4.イエス・キリストの柔和さ
今まで私たちは旧約聖書の偉大な人物たちから柔和の姿を見ましたが、このすべての柔和の究極のモデルと原型はイエス・キリストです。イエス様の柔和さを深く理解することは、神の国の民のアイデンティティを理解することとして非常に重要です。
イエス様は「わたしは柔和で謙遜なので、わたしに学びなさい」(マタイ11:29)と言われました。柔和と謙遜は事実上同じもので、柔和は人々に対して持つ態度であり、謙遜は神様に対するイエス様の態度を指します。自分自身について「柔和で謙遜である」と言える人は、本当の意味でイエス様以外にいません。 なぜなら、イエス様の柔和と謙遜は本物だからです。 イエス様の柔和と謙遜に比べれば、モーセとダビデの柔和と謙遜は類似品に過ぎません。
イエス・キリストの柔和さは、神への信頼と屈服(つまり、お腹を地面につけてひれ伏す)から出てきます。
イエス・キリストの柔和さは彼の全生涯を通して現れました。 問題に直面した時に簡単に怒らず、人々に苦しみと虐待を受けた時にも、彼らに逆らわず、神にひれ伏しました。ゲッセマネの園での祈りを覚えてください。「私の望みどおりに飲ませ、父の望みどおりにしてください」(ルカ22:42)。この祈りは柔和の極みでした。 自分の意志を完全に捨てて神の意志に従う姿です。 これは私たちが見習うべき最も重要な柔和の姿です。
イエス様の柔和は十字架の上で最高潮に達します。モーセとダビデは自分の罪と不足で誹謗中傷を受けましたが、イエス様は何の罪も犯していないのに、人々に誹謗中傷され、裏切られ、罵倒され、鞭で打たれました。 そして十字架に惨めに吊るされ、恥ずべき死をゆっくりと迎えなければなりませんでした。 しかし、イエス様は罵倒する者たちに向かって罵倒せず、脅迫もしませんでした(Ⅰペテロ2:22,23)。むしろ、息が止まるその瞬間まで、主は「父よ、彼らを赦してください、自分たちがしていることを知らないからです」(ルカ23:34)。
これがまさにイエス・キリストの柔和であり、イエスに接ぎ木された聖徒たちから現われるべき柔和です。 これは生まれつきの性質ではありません。 神様との深い関係から生まれる霊的な資質です。 そしてこの柔和は結局、「柔和な者は幸いである、彼らが地を受け継ぐ」という約束の成就につながります。
私たちはイエス様のこの柔和さを見習って生きなければなりません。 これは容易なことではありませんが、聖霊の助けによって可能です。私たちがイエス様と深く連合して、イエス様の柔和さを私たちの生活の中で実践する時、私たちは真の意味で「地を占める」祝福を享受することができるでしょう。
5.柔和の実際的な適用
それでは、この柔和さを実際の生活にどのように適用できるかを考えてみましょう。
まず、神様の前での柔和さです。柔和は何よりも神様との関係から始まります。アブラハム、モーセ、ダビデ、そしてイエス様が示したように、柔和の根本は、神の主権を認め、神の御心に従順することです。 イエス様は極限の苦痛の中でも、神への信頼とその信頼から出る柔和を失われませんでした。
「大声で呼びかけ、「父よ、わたしの魂を父の手に委ねます」と言われ、この言葉を言われた後、亡くなられた"(ルカ23:46)
これは、私たちの人生のすべての状況で神様の導きを信頼し、神様の時を待つ姿勢を意味します。 時には私たちが理解できない状況に直面することもありますが、その時ほど神様に向けた信頼を捨ててはいけません。
第二に、隣人に対する柔和さです。今日私たちが黙想する柔和は、単に他人に対して積極的な優しさを与えようということではありません。 私たちを誹謗中傷したり、害を及ぼす人たちに対するクリスチャンの性質です。
イエス様が十字架の上で示されたその柔和さが私たちにも出なければなりません。臆面もなく真似をしたり、真似をしようと突進してはいけません。その中に悪意があってはいけません。柔和で謙遜なイエス様がいなければなりません。
私たち一人一人が自分の中に罪と悪を発見し、それによって嘆きます。 それを持って神様の前に進み、自分は「どうしようもない罪人」だと言います。これは難しいことではありません。 本当に難しいことは、他の人が私に対して同じことを言うことを許すことです。 私たちが「主よ、私は傲慢です」と言うのは難しいことではありません。 しかし、誰かが「あなたは傲慢です」と言うなら、我慢できません。 しかし、柔和な人は、他の人を許すことで自分を見つめ直すことができる人です。
19世紀アメリカの南北戦争当時、エイブラハム・リンカーン大統領に関する興味深い逸話があります。リンカーン大統領の閣僚の一人であるエドウィン・スタントン長官は、公の場でリンカーンを「愚か者」と呼び、彼の政策を頻繁に非難しました。 ある日、ある役人がリンカーンに来て、スタントンのこの行動に抗議しました。 「大統領、スタントン長官があなたを愚か者と呼びました。 彼を解任しなければなりません!」もしあなたがリンカーンだったら、どのように反応しますか?
リンカーンはしばらく考え込んだ後、「スタントンが私を愚か者と呼んだと? うーん...。スタントンはとても賢い人で、ほとんどいつも正しいです。 彼が私を愚か者と呼んだのなら、私が本当に愚か者なのかどうか見てみなければなりませんね」。
リンカーンはスタントンを解任する代わりに、彼の能力を認め、重要な役職を任せ続けました。時間が経つにつれ、スタントンはリンカーンの最も忠実な支持者の一人になり、リンカーンが暗殺されたとき、彼の死体の前で涙を流しながら「ここにすべての時代を通した最も完璧な統治者が横たわっている」と言ったと言われています。
ホワイトハウスを祈祷室にしたというリンカーンのこの話は、私たちに柔和の真の意味と柔和が持つ力を示しています。リンカーンの柔和は敵を友人にし、彼のリーダーシップをさらに強化しました。 柔和は弱さではなく、むしろ内面の強さと自信の表現です。私が神の国に根を下ろしており、将来、王のような祭司になることを信じているので、「私はたとえ弱くても」主が成し遂げることを信じて生きる者です。
6.結論:神の国の性質としての柔和さを受ける。
御言葉をまとめます。 主の中で愛する群馬教会の聖徒の皆さん、イエス様が言われた柔和は、自然人からは出られないものです。 イエス・キリストの柔和は、イエス・キリストの国、すなわち神の国に入る者たちの共通した性質です。私たちが出会ったモーセ、ダビデもまた、神の国に属する者として主から柔和を受けたのです。 この柔和は、神の国に根を下ろした聖徒に結実する聖霊の実であり、神の国での繁栄と豊かさの特徴です。
神に対する柔和を忘れないでください。誹謗中傷を受ける時や恥をかかされる時、侮辱を受けたり、脅迫したりしなかったモーセ、ダビデ、そしてイエス様のように、ただ神様に頭を下げましょう。私のすべての処遇を神様に任せましょう。貧しさと苦しみ、反対の状況の中でも、神様に頭を下げる(アナ)ことで、あなたの柔和さを示してください。
隣人に対して柔和であってください。誰かがあなたを誹謗中傷する時、あなたの中におられるイエス様の柔和さを示す機会にしてください。誰かが後ろからあなたの背後からあなたの背中を叩き、腰を突くときに、あなたの中にあるイエス様の柔和さを流してください。他人を誹謗中傷する悪意を捨ててください。むしろ彼らを通して自分自身を見ることができる柔和の余裕を持ってください。これは、土地を企業として約束された者から出る性質です。
19世紀のイギリスの有名な説教者チャールズ・スペルゼンに関する話で、今日のお話を終わります。 ある日、スペルゼンが歩いている時、ある酔っ払った男が彼を指さして大声で言いました。 "ねえ、あなたこそ、あの偽善者スペルゼンではないですか?」 スペルジョンはしばらく立ち止まり、その男を見つめ、「はい、私は偽善者です」とそっと答えました。しかし、私が知っている限り、それは私が犯した罪の中で最も小さなものです。 もしあなたが私の罪をすべて知っていれば、あなたは私をもっとひどく非難するでしょう」。この予想外の答えに、酔っ払った男は言葉を失い、スピルジョンは平和に自分の道を歩みました。
私は彼が神の国に根を下ろしていることを見ます。 彼からイエスの柔和さを見ます。柔和は弱さではなく、自分の不足を認め、神の前に謙遜に立つ強靭な態度です。
柔和は、土地を企業とした者から出る確信と余裕です。柔和を実践することは決して容易ではありませんが、そのたびにイエス様の柔和を思い出してください。イエス様はすべての苦難と侮辱を耐え、十字架を背負われました。 そしてその結果、すべてのものを手に入れました。
愛する聖徒の皆さん、皆さんにイエス様の柔和がありますか? 川のほとりに植えられた木のように、イエス様に接ぎ木された聖徒から結実する聖霊の実であることをいつも覚えてください。永遠の神の国を受け継ぐことを約束された者から出る寛大さと余裕として柔和であってください。
イエス様を見習い、柔和な生活を送りましょう。神様を全面的に信頼し、神様が立てた権威に従順な生活を送りましょう。 そして悪意を捨て、隣人を愛しましょう。 そうする時、私たちはこの世界で神様の国の証人となり、最終的には永遠の神様の国を遺産として受け取ることができるでしょう。アーメン。
コメント