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秘密の祈り:神の国の民の聖なる特権

秘密の祈り:神の国の民の聖なる特権(マタイ6:5-8)

序論

魚には浮き袋があるため、水の中でも生きていくことができます。鳥には翼があるため、空中で生きていくことができます。罪に満ちたこの世で、クリスチャンたちはどのようにして聖なる生活を維持しながら生きていくことができるでしょうか。祈りという浮き袋、祈りという翼があるからです。祈りは聖徒の呼吸です。祈りなしに聖徒の生活を送ろうとするなら、それは何の装備もなしに水の中に潜水するのと変わりません。

皆さんの祈りの生活はいかがでしょうか。忙しくて祈る時間がないと言ったり、祈り方が分からないから祈らないという言い訳をしてはいませんか。

マルキス・ド・レンティという人の話をお分かちしたいと思います。彼はキリストを誰よりも尊く思っていた人で、深い祈りをよく捧げたと伝えられています。ある日、彼は召使いに「30分が過ぎたら私を呼んでください」と頼んで祈祷室に入り、祈りに没頭しました。30分が経とうとした時、召使いが扉の隙間から彼の様子を覗くと、あまりにも聖なる姿で切実に祈っているので、とても時間を知らせることができませんでした。そして3時間半が過ぎてから、召使いが時間が過ぎたことを知らせました。その時マルキス・ド・レンティが言った言葉がとても印象的です。「もう30分が過ぎたのか?」

私たちは祈りについて多くのことを知っています。祈りについての説教を聞き、本を読み、セミナーに参加したこともあるでしょう。しかし、本当に重要なのは、私たちが実際に祈祷室に入るかということです。

今日、私たちが共に見るマタイの福音書6章5-8節は、山上の説教の中心部に位置する祈りに関する教えです。イエス様はユダヤ人の宗教的な偽善と異邦人の無意味な繰り返しを超越する、神の国の民の祈りが何であるかを示してくださいます。

今日のみことばの中心メッセージはこれです:私たちの主が教えてくださる秘密の祈りは、神との親密な関係を回復する神の国の民の聖なる特権であり、これはただキリストとの結合の中でのみ完全に実現されるのです。

本論1:動機の純粋性 - 祈りの真の目的(5節)

敬虔の外形の後に隠れた内面の真実

イエス様はユダヤ人たちの祈りについて非常に強く非難されました。イエス様は敬虔なユダヤ人たちの祈りの習慣そのものを批判されたのではありません。バビロンでダニエルは一日三回エルサレムに向かって窓を開け、多くの人々に見える前で祈りました。立って祈ることも当時のユダヤ人たちの一般的な祈りの姿勢でした。会堂だけでなく街角でも祈りました。もしその動機が聖なるものを世俗的な生活の現場に持ち込もうとするものであったなら、称賛に値することだったでしょう。私たちが注目すべきは外的行動ではなく、内的動機です。

イエス様は彼らの思いをご存知で、「動機」を暴露されました。「彼らは人に見せるために」祈りました。表面上は天に向かって手を上げていましたが、彼らの視線は人々に向けられていました。彼らが愛したのは祈りではなく、祈りを受けられる神でもありませんでした。彼らが真に愛したのは自分自身であり、公的な祈りが提供する自己顕示の機会でした。

先週の本文にも出てきた言葉です。「偽善者」と翻訳された「ヒュポクリテース(ὑποκριτής)」は、元々ギリシャ劇で仮面をつけて演技する俳優を指していました。彼らの祈りは神との真実な対話ではなく、人々の前での宗教的な演劇でした。彼らの敬虔の後には高慢が隠されており、彼らが本当に欲しかったのは拍手喝采でした。

純粋な動機の破壊力

ここで私たちが深く考えなければならないのは、間違った動機が持つ破壊力です。神に賛美を捧げることは、人に施しをすることと同様、それ自体が真の行為です。しかし隠れた動機は、この両方を破壊します。奉仕も同じです。間違った動機で神と人に仕える奉仕を、卑劣な自己奉仕に転落させます。

祈りは創造主と被造物の出会いであり、父と子の対話です。ところが、この聖なる行為が自己宣伝、自己自慢の手段に転落したのは悲劇的なことです。私たちが神を賛美すると言いながら、実際には人々が私たちを賛美することを願うなら、これがどうして真の祈りになることができるでしょうか。偶像崇拝ではないでしょうか。

今日の現代教会もこの危険から自由ではありません。公の祈りで使う華麗な修辞、祈りの時間の長さを誇ることなどが、すべて同じ誘惑です。

イエス様の評価は断固としています:「彼らは既に自分の報いを受けているのです。」先週お話しした「アペコー(ἀπέχω)」という言葉がここで再び登場します。「領収書を受け取る、全額支払いを受ける」という意味です。彼らは人々の称賛という即座的で一時的な報酬、敬虔だという評判を受けましたが、それが全てです。神からの永遠の報いはすでに放棄したのです。

本論2:祈祷室の秘密 - 霊的宝物庫への招き(6節)

6節に至ると、私たちの主は全く次元の異なる祈りのパラダイムを提示されます。私はスティーブ・ジョブズが初めてiPhoneを人々に公開した時の姿を思い浮かべました。彼の手の中にある小さな携帯電話はスマートフォンと呼ばれました。そしてそれがコンピューターの代わりになると誰が信じたでしょうか。しかしそれが人類の技術文化に大変革をもたらしました。

イエス様が弟子たちに教えてくださった「祈祷室の祈り」法は、それ以上の革命です。イエス様が使われた「祈祷室」という言葉に注目すべきです。あなたの祈祷室(タメイオン(ταμεῖον))とは単純な部屋ではなく、家の最も奥にある貯蔵室や倉庫を意味します。特に貴重品を保管する場所でした。つまり祈祷室の祈りは、私たちが祈る時「すでに宝物たちが私たちを待っている」ということです。

主が下さった祈祷室には、すでに神の宝物たちが準備されています。祈祷室は単に私たちが祈る場所ではなく、神がその豊かな恵みを注いでくださるために準備しておかれた霊的宝物庫です。

扉を閉じなければならない

祈祷室に入ったなら、その次に何をすべきだと主がおっしゃいますか。祈祷室に入ったなら扉を閉じなければなりません。「祈祷室に入って扉を閉じて」と主がおっしゃいました。この時、扉を閉じる行為は二重の意味を持ちます。第一に、それは妨害と散漫さを遮断することです。第二に、そしてより重要なことは、人々の視線を遮断して、ただ神とだけいるようになることです。扉を閉じることによって、私たちは世と断絶され、神と繋がります。今日、皆さんのスマートフォンの電源を切るだけでも、すでに祈祷室の扉は半分閉じられたと思います。

本論3:異邦人的祈りの誤りと子の特権(7-8節)

無意味な繰り返しの本質:関係のない宗教

7節を見ましょう:「また祈る時に、異邦人のように意味のない言葉を繰り返してはいけません。彼らは言葉数が多ければ聞いてもらえると思っているからです」

イエス様は今、二番目の間違った祈りの姿を示されます。「意味のない言葉を繰り返す」と翻訳された「バッタロゲオー(βατταλογέω)」は、意味のない音節の反復や終わりのないおしゃべりを意味します。これは単に長い祈りを批判しているのではありません。イエス様ご自身も夜通し祈られ(ルカ6:12)、一時間祈るよう弟子たちに要求されました(マタイ26:40)。

問題は、神の子どもたちが他の神を仕える者たちがする祈りのようにすることにありました。彼らは二つの致命的な誤解を持っていました。第一に、彼らは神が耳の聞こえない存在や無関心な存在だと思っていました。それで継続して繰り返し叫ばなければ神の注意を引くことができないと信じていました。第二に、彼らは特定の公式や呪文を正確に暗唱しなければ効力がないと思っていました。これは神を操作できる非人格的な力として見る見解です。日本の主要な宗教たちがこのような特徴を共通して持っています。

列王記第一18章でバアルの預言者たちが朝から昼まで「バアルよ、私たちに答えてください」と叫んだのが典型的な例です。彼らは大声で呼び、自害してまで神の注意を引こうとしましたが、「何の声もなく、答える者もありませんでした」(王上18:29)。

現代にもこの危険は相変わらずです。仏教のマントラの反復、イスラムの決められた祈り文の暗唱、日本の神道をはじめとする様々な宗教の特定の行為、さらにはキリスト教内でも祈りを量的にアプローチする態度がそれです。早朝祈祷会を何日したか、祈りを何時間したか、断食を何日したかを数えることは、すべて異邦人的思考の残滓かもしれません。

革命的宣言:父はすでにご存知である

8節でイエス様は、私たちに神に捧げる祈りについての正しい理解を提示されます:「だから、彼らのようにしてはいけません。あなたがたの父なる神は、求める前からあなたがたに必要なものをご存知だからです」

この主のおことばの中に祈りの本質があります。神は私たちが求める前に、すでに私たちの必要をご存知です。これは単に神の全知性を言っているのではありません。これは神が私たちに向けて持たれた父の心を示しています。

良い親は子どもが言う前に、すでに彼らの必要を知って準備します。赤ちゃんが泣く前にお腹が空いていることを知り、言う前に痛いことを分かります。まして完全な天の父が、その子どもたちの必要をご存知でないでしょうか。

そうすると当然の質問が生まれます:「神がすでにご存知なら、なぜ祈らなければならないのですか?」ここで私たちは祈りの真の目的を発見します。祈りは神に情報を提供することではありません。祈りは神を説得することでもありません。祈りは神を操作することはなおさらではありません。

祈りは関係です。父と子の対話です。子どもが親と対話するのは、親が知らないことを知らせるためではありません。愛を表現し、信頼を表し、関係を深めるためです。同様に私たちの祈りは、神との関係を深める特権です。

子の特権としての祈り

「あなたの父」という呼び方が、私たちの祈りのすべてを変えます。異邦人にとって神は遠く、無関心で、操作しなければならない存在です。しかし私たちにとって神は父です。これがキリスト教の祈りの革命的特性です。

イエス様が教えてくださったこの真理は、私たちの祈りを根本的に変化させます。私たちはもはや奴隷が主人に嘆願するように祈りません。私たちは子どもが父に話すように祈ります。私たちはもはや取引するように祈りません。私たちは信頼して祈ります。

本論4:キリストとの結合の中で捧げる祈りの神秘

キリストと聖霊の中でのみ可能な「父」という呼び方

私たちが神を「父」と呼ぶことができるのは、自然なことではありません。私たちは本来「怒りの子」(エペソ2:3)でした。私たちと神の間には罪による深い隔たりがありました。しかしキリストが十字架でこの隔たりを埋めてくださいました。その方の血によって私たちは神に近づくことができるようになりました(エペソ2:13)。

ガラテヤ書4:6はこの驚くべき真理を説明します:「あなたがたは子であるゆえに、神は御子の霊を私たちの心に遣わして、アバ、父と呼ばせてくださったのです。」

本来、皆さんの父は神ではありませんでした。悪魔が父でした。悪魔の思いのままに生きていました。しかし今、イエス・キリストを信じる信仰の中で、イエスの父を私の父と呼ぶようになりました。イエス・キリストと共に十字架で死んで再び生きる時に、神の息子娘として養子縁組されたのです。

したがって、私たちの祈りは徹底的にイエス・キリストの中でのみ革命的であり、完全な祈りとなります。

したがって、祈祷室とは他でもないイエス・キリストです。イエス・キリストが私たちの祈祷室です。神はご自分の息子の中に莫大な祝福を準備しておかれました。これが祈祷室の祈りの神秘です。私たちが祈祷室に入る時、一人で入らないでください。キリストと共に、キリストの中で入ります。私たちの祈りは、キリストの子としてのあり方に参与することです。

結論:祈祷室への聖なる招き:存在論的出会いの場所

祈祷室で発見する宝物たち

祈祷室は宝物庫です。そこには既に私たちのための霊的宝物たちが準備されています。神との親密な出会い、アイデンティティの回復、自尊心の回復、人生の質の向上、そして世を変化させる力 - これらすべてが祈祷室で私たちを待っています。

祈祷室での祈りが特別な理由は、そこが私たちの最も真実な自我が現れる場所だからです。人々の前では仮面をつけることができますが、隠れたところにおられる神の前ではそうすることができません。祈祷室で私たちは失われた自分を見つけます。神は外見ではなく心を見られ、祈る人だけでなく祈る動機まで御覧になります。世が私たちに付与した偽のアイデンティティー - 成功した人、失敗した人、金持ち、貧しい者 - これらすべてのレッテルが剥がされ、私たちは神に愛される子どもという真のアイデンティティを発見します。

祈祷室は単純な祈りの場所ではありません。そこは天と地が出会う場所です。4世紀の教父クリュソストモスは今日の本文のみことばについてこのように表現しました:「祈祷室で祈る時、あなたは宮殿に入るのです。地の宮殿ではなく、はるかに畏敬すべき天の宮殿にです。そこであなたは天使たちの合唱と共にし、大天使たちと交わりを持ち、セラフィムと共に歌います。」

イエス・キリストという祈祷室は、私たちの弱さが神の力と出会う場所です。そこは私たちの傷が癒され、私たちのアイデンティティが回復され、私たちの人生が変化する場所です。

祈祷室に向かう具体的な第一歩

愛する聖徒の皆さん、今度は私たちの応答の番です。どのように始めることができるでしょうか。

第一に、時間を区別してください。 一日のうち5分でも神と二人きりでいる時間を決めてください。重要なのは時間の長さではなく規則性です。毎日同じ時間に神にお会いすることが重要です。ダニエルが一日三回祈ったように、私たちも規則的な祈りの時間を持たなければなりません。

第二に、場所を決めてください。 物理的な祈祷室を作ってください。それは寝室の片隅かもしれませんし、居間の椅子かもしれません。重要なのは、そこを聖なる出会いの場所として区別することです。そこに行けば自然に祈りをするようになる場所を作ってください。

第三に、沈黙から始めてください。 祈祷室に入ってすぐに話し始めないでください。祈祷室で私たちは創造主にお会いします。祈祷室の祈りは神の招きによることを忘れないでください。祈祷室で私たちは神が始められた対話を続けているのです。詩篇27:8の告白のように、「主よ、あなたが『わたしの顔を慕い求めよ』と言われた時、わたしの心はあなたに向かって『あなたの御顔を慕い求めます』と申しました。」主が先に対話を始めてくださるようにしてください。沈黙の中で神の臨在を意識してください。「主よ、私がここにいます。お語りください」と尋ねてください。そして待ってください。

第四に、真実に祈ってください。 宗教的な言葉を使おうと努力しないでください。神は私たちの心を御覧になります。ありのままの姿で、率直な心で祈ってください。疑いがあれば疑いを申し上げ、恐れがあれば恐れを申し上げてください。

第五に、忍耐して持続してください。 最初は不自然で難しいかもしれません。しかし諦めないでください。関係は時間がかかります。神との親密さも一朝一夕には成り立ちません。しかし持続する時、必ず神にお会いする驚くべき経験をするようになるでしょう。

最終的な挑戦:霊的宝物庫への招き

イエス様が今日あなたを呼んでおられます:「あなたの祈祷室に入りなさい。」これは単純な命令ではありません。これは愛の招きです。父が子を呼ぶのです。その方は隠れたところであなたを待っておられます。

皆さんのための祈祷室の扉が開かれています。主は遠くにおられません。入ってください。扉を閉じてください。そしてあなたの人生で最も驚くべき冒険を始めてください。隠れたところにおられるあなたの父にお会いください。その方との出会いがあなたを変化させ、あなたを通して世が変化するでしょう。

 
 
 

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