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聖霊によって示された十字架の知恵(第一コリント2:10~16)

聖霊によって示された十字架の知恵(第一コリント2:10~16)

序論

同じ十字架を見ても、ある人は「愚かだ」と言い、ある人は「神の知恵だ」と言います。なぜこのような違いが生まれるのでしょうか?その秘密はまさに聖霊様にあります。

1741年7月8日、ジョナサン・エドワーズという牧師が「怒りの神の御手の中にある罪人たち」という説教をしました。この説教はアメリカ大覚醒運動の始まりとなりました。ところが興味深いことに、エドワーズ牧師はこの説教をする時、大きな声を出したり感情的な身振りを全くしませんでした。彼は静かで落ち着いた声で原稿を読み上げただけでした。

ところがその説教を聞いていた人々は涙を流し始め、ある人々は「イエス様、私を救ってください!」と叫びました。後にエドワーズ牧師は日記にこう記しました。「今日私がしたことは何もない。ただ聖霊様が働かれただけだ。聖霊様が十字架の意味を彼らの心に悟らせてくださった。」

これがまさに聖霊様の力です。人の能力や知恵ではできないことを聖霊様がなさいます。聖霊様だけが十字架を神の知恵として見させることができます。

今日は聖霊降臨主日です。聖霊様がこの地に来られたことを記念し祝う日です。ところで聖霊様がなさる働きの中で最も重要なことは何でしょうか?まさに十字架を神の知恵として見させることです。聖霊様でなければ、十字架は永遠に愚かで恥ずかしいものとしか見えないでしょう。ただ聖霊様だけが十字架を神の力と知恵に変えて見させることができます。

1. 同じ十字架、異なる考え:聖霊様が必要な理由

使徒パウロは第一コリント1章18節でこう言います。「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。」

ここで驚くべき事実を発見できます。同じ十字架なのに、ある人には「愚かなもの」に見え、ある人には「神の力」に見えるということです。これは単純に考えの違いではありません。人そのものが変わらなければ十字架を違って見ることができないという意味です。

考えてみてください。どんなに色盲の人に赤色を一生懸命説明しても、その人は赤色を見ることができません。問題は説明が不足しているのではなく、見る能力そのものにあるのです。同様に聖霊様の助けなしには、どんなに賢い人でも十字架を神の知恵として見ることができません。

それでパウロ使徒は自分の伝道方法についてこう言います。「私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした」(第一コリント2:4)。パウロは人の知恵や話術では十字架の真の意味を伝えることができないということを知っていました。ただ聖霊様の力だけが十字架を神の知恵として見させることができると確信していました。

皆さん、これがまさに私たちが聖霊様に頼らなければならない理由です。私たち自身の力では十字架の真の意味を悟ることができません。聖霊様が私たちの心を開いてくださってこそ、十字架が神の知恵として見え始めます。

2. 聖霊様はどこから来られましたか?神から!

それではなぜ聖霊様だけがこのような驚くべき働きをなさることができるのでしょうか?その答えは聖霊様がどなたかを知ることにあります。パウロは2章12節で聖霊様を「ただ神からの霊」として紹介します。「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。」

ここで「神から」という言葉が本当に重要です。もし聖霊様が私たちと同じ次元の存在なら、十字架を新しく見ることも結局人の思考の範囲を超えることはできないでしょう。しかし聖霊様は「神から」来られた方です。それで私たち人間の限界を超越した働きをなさることができます。

当時ギリシャ人たちは「霊」(プニューマ)を世に広がっているある種の力程度に考えていました。人の中にすでにある神的な能力だと思っていました。しかしパウロが語る聖霊様は全く違います。聖霊様は神様が私たちに「与えてくださった」贈り物です。私たちの中に元々あったものではなく、神様が送ってくださった方です。

これがまさに聖霊様が驚くべき働きをなさることができる理由です。十字架を失敗と恥の象徴から神の知恵と力の象徴に変えて見させることは、人の力では絶対に不可能なことです。ただ神の霊である聖霊様だけがなさることができる超自然的な働きです。

3. 聖霊様はすべてをご存知です:「神の深いことまでも」

それでは聖霊様はどのようにこのような驚くべき働きをなさることができるのでしょうか?パウロは2章10節で聖霊様の力について驚くべきみことばを語ります。「御霊はすべてのことを、神の深いことまでも探られるからです。」

ここで「探られる」という言葉は単純に「知っている」という意味ではありません。「完全に調査される」、「徹底的に把握される」という意味です。聖霊様は神についてのすべてを完璧に知っておられるからこそ、その知識に基づいて私たちに神の知恵を示すことができます。

特に「神の深いこと」という表現が重要です。これは神の最も奥深い心と計画、特に十字架を通した救いの計画を意味します。十字架が神の知恵として見えるためには、神の最も深い愛と救おうとする心を知らなければなりません。ところがこのような深いことは、ただ「神の深いことまでも探られる」聖霊様を通してのみ知ることができます。

世の知恵は表面に見えることだけを重要に考えます。どうすれば成功、お金、名誉のようなものを得ることができるかということです。しかし神の知恵は表面には見えない深いことを扱います。十字架の恥の後ろに隠れている神の愛、十字架の弱さの後ろに隠れている神の力、十字架の愚かさの後ろに隠れている神の知恵を見させてくださるのです。

これがまさに聖霊様だけがなさることができる働きです。聖霊様は単純に私たちに新しい情報を与える方ではありません。聖霊様は神の心の深いところまでご存知で、その深い愛と知恵を私たちに知らせてくださる方です。

4. 神の心は誰が知ることができるでしょうか?

パウロはこれをもっと分かりやすく説明するために、私たちの日常経験を例に挙げてくれます。2章11節で「人のことは、その人のうちにある人の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません」と言います。

このみことばの核心は「一人だけが知ることができる権利」です。ある人の最も深い思いと心は、ただその人だけが知ることができます。他の人はその人が自分の心を開いて話してくれなければ絶対に知ることができません。

同様に神の最も深い計画と知恵、特に十字架を通した救いの計画は、ただ神の霊である聖霊様だけがご存知です。聖霊様が私たちに知らせてくださらなければ、私たちは決してそれを知ることができません。

ここで「人のうちにある人の霊」という言葉が出てきますが、これは人の中に霊魂が入っているという意味ではありません。これは「その人だけが入ることができる心の領域」を意味します。パウロは人を霊魂と体に分けて考えているのではなく、神の心に入ることができる方はただ神の霊である聖霊様だけだということを強調しています。

これがまさに私たちが聖霊様の助けを求めなければならない理由です。十字架の真の意味は神の最も深い計画とつながっています。そしてこれに対する鍵はただ聖霊様だけがお持ちです。従って聖霊様の助けなしには、私たちは十字架を神の知恵として見ることができません。

5. 聖霊様は最高の先生です

聖霊様はまた最高の先生でもあります。パウロは2章13節で「私たちがこれらのことを話すときも、人の知恵によって教えられたことばを用いず、御霊によって教えられたことばを用います。霊的なことを霊的なことばで説明するのです」と言います。

聖霊様の教えは単純に新しい情報を与えることではありません。聖霊様は「正しい解釈」をしてくださいます。霊的な真理を霊的な人々が理解できる方式で解き明かして説明してくださるのです。

これが十字架を理解するのに本当に重要です。十字架の歴史的事実はすべての人に同一です。イエス様が十字架に釘付けられて死なれたということは変わらない歴史的事実です。ところがその出来事の真の意味は聖霊様の解釈なしには知ることができません。

聖霊様は十字架の出来事を神の愛と知恵という文脈で解釈してくださいます。それでそれが単純な死刑執行ではなく救いの出来事として見えるようにしてくださるのです。聖霊様は十字架を創世の前から計画された神の救いの計画、神の義と愛、キリストの身代わりの死と復活という大きな絵の中で解釈してくださいます。

まさにこれが私たちが聖霊様の教えを求めなければならない理由です。聖書を読む時、説教を聞く時、祈る時に聖霊様の助けを求めなければなりません。聖霊様だけが十字架の真の意味を私たちに悟らせてくださることができるからです。

6. 見る目が変わります:「霊的な人」となること

聖霊様の働きで最も驚くべき点は、聖霊様が単純に新しい情報を与えるのではなく、見る目そのものを変えてくださるということです。パウロは2章14-15節で「生まれながらの人間は、神の御霊にかかわることを受け入れません...霊的な人はすべてのことをわきまえますが」と言います。

ここで「生まれながらの人間」と「霊的な人」は単純に二種類の人間を言うのではありません。これは「生きていく方向」の違いを言います。「生まれながらの人間」は「完全に人の方式でだけ生きる人」で、「霊的な人」は聖霊様の導きを受けて生きていく人です。

重要なのは聖霊様が介入されると見る人そのものが変わるという点です。「霊的な人」となったということは、聖霊様の観点から世界を見ることができるようになったという意味です。この時十字架はもはや失敗と恥の象徴ではなく、神の愛と知恵を示す最高の表現として見えるようになります。

これがまさに新生の本質です。新生は単純に善い人になることではありません。新生は見る目が変わることです。価値観が変わることです。世界を見る観点が完全に変わることです。そしてこのような変化を起こされる方がまさに聖霊様です。

従って私たちは継続して聖霊様の満たしを求めなければなりません。聖霊様によって新しい観点を持ち、十字架を神の知恵として見ることができる霊的な目を求めなければなりません。

7. イエス様の心を持つようになります

パウロの説明は2章16節で最高潮に達します。「『だれが主の心を知り、主に助言するというのか。』しかし、私たちにはキリストの心があります。」これは聖霊様がなさる働きの最終目標が何かを示します。

「キリストの心」は単純に賢くなることではありません。これは「キリストの考え方」、「キリストの価値観」を持つことを意味します。聖霊様の働きを通して私たちはキリストと同じ心を持つようになり、この時十字架は自然に神の知恵として見えるようになります。

ピリピ書2章5-8節を見ると、「キリストの心」が何かはっきりと分かります。それはご自分を低くし、しもべの姿を取って十字架で死ぬまで従順された心です。聖霊様を通してこのような心を持つようになった人々には、十字架の犠牲が愚かさではなく最高の知恵として見えます。

これがまさに聖霊に満たされることの結果です。聖霊様に満たされる時、私たちはキリストの心を持つようになります。キリストのように愛し、キリストのように仕え、キリストのように犠牲することを最高の知恵として思うようになります。世はこれを馬鹿げたことだと言いますが、聖霊様に満たされた人にはこれが神の知恵です。

8. 聖霊様はイエス様を指し示されます

パウロの聖霊様についての教えで特に注目すべき点は、聖霊様のすべての働きがキリスト中心性を持つということです。聖霊様は一人で独立的に働かれる方ではなく、イエス様を証しし、イエス様の心を与える方です。

聖霊様が私たちに示してくださる知恵は抽象的な原理ではありません。それは十字架でご自分を献げられたイエス様の具体的な愛です。聖霊様はこの十字架の出来事を神の知恵として見させてくださる唯一の仲保者です。

このようなイエス様中心的特性は、聖霊様の働きが間違った方向に行くことを防ぐ重要な安全装置でもあります。コリント教会の一部の人々は聖霊様の賜物を自分たちが霊的に優れているということを自慢する手段として使おうとしました。しかしパウロは聖霊様のすべての働きがキリストの十字架に向かわなければならないとはっきりと言います。

真の聖霊様の働きは必ず十字架を志向します。聖霊様の賜物や力が自慢や霊的高慢につながるなら、それは真の聖霊様の働きではありません。真の聖霊様の働きは私たちをさらに十字架の前に導き、十字架の愛と謙遜を悟らせます。

9. 一人ではなく共に:教会共同体の中で

パウロは2章6節以降から継続して「私たちが」、「私たちに」、「私たちは」という表現を繰り返し使用します。これは聖霊様の啓示が一人だけの神秘的な経験ではなく、教会共同体全体の経験であることを示します。

聖霊様は個別の信者たちを別々に孤立させて助けるのではなく、信仰の共同体の中で共に働かれます。十字架が神の知恵として悟られることも個人的な悟りを超えて共同体的な経験です。

このような共同体的特性は聖霊様の働きが正しいかを確認する基準でもあります。真の聖霊様の啓示は個人を教会共同体から分離させるのではなく、共同体の中でキリストの体をさらに強固に建て上げる方向に作用します。十字架を神の知恵として悟ることは、このような共同体的成熟の表れです。

従って私たちは個人的にだけ聖霊様の満たしを求めるのではなく、教会共同体全体が聖霊様に満たされることを求めなければなりません。私たちの教会が共に十字架を神の知恵として悟り、共にキリストの心を抱くことができるよう祈らなければなりません。

10. 毎日毎日続く聖霊様の働き

最後に、聖霊様の働きは一度で終わるものではなく、継続してつながる過程であることを知らなければなりません。パウロは2章12節で「私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに与えられたものを、私たちが知るためです」と言う時、これは今も続いている経験を言います。

十字架を神の知恵として悟ることは、一瞬の悟りですべてが終わるものではありません。聖霊様の継続的な助けを通してだんだんより深くなる過程です。これは「新しい内容」をもっと学ぶことではなく、「より深い悟り」を持つことです。聖霊様は私たちが「世の強要する基準からだんだんより自由になるよう」継続して助けてくださいます。

このような継続性はまた聖霊様の働きが変わらないということを保障してくれます。聖霊様の啓示は気まぐれだったり一貫性がないものではなく、十字架という明確な中心に向かって継続して集められます。それで私たちは十字架を神の知恵として悟る確信の中で生きていくことができます。

従って私たちは毎日毎日聖霊様の満たしを求めなければなりません。昨日受けた聖霊様の助けに満足せず、今日も新しく聖霊様の導きを求めなければなりません。十字架の意味が私たちの生活の中でより深く現れることを祈らなければなりません。

結論

ロンドンの有名な弁護士だったフランク・モリソン(Frank Morison)は、イエス様の復活が偽りだということを証明するために本を書き始めました。彼は徹底的な歴史的証拠を調査し、論理的分析を通してキリスト教の虚構性を明らかにしようとしました。ところが研究をすればするほど不思議なことが起こりました。かえってイエス様の復活が歴史的事実だという確信が生まれ始めたのです。

結局彼は元々計画していた本とは正反対の本を書きました。その本のタイトルがまさに『墓を覆した者』(Who Moved the Stone?)です。彼は後にこう告白しました。「私が変わったのは新しい証拠を発見したからではありませんでした。同じ証拠が完全に違って見え始めたのです。その時私は聖霊様が私の目を開いてくださったということを悟りました。」

愛する聖徒の皆さん、これがまさに聖霊様の働きです。同じ十字架、同じ福音ですが、聖霊様が働かれると完全に違って見え始めます。愚かさが知恵に、弱さが力に、失敗が勝利に見えるようになります。

今日聖霊降臨主日を迎えて、私たちが深く悟らなければならないことがあります。聖霊様なしには私たちもフランク・モリソンが最初にそうだったように、十字架を愚かなものとしかみることができないということです。しかし聖霊様が私たちの心に臨まれると、その十字架が神の最も偉大な知恵であり、最も驚くべき愛として見えるようになります。

皆さん、もし最近信仰生活が無味乾燥に感じられますか?聖書のみことばがつまらなく感じられますか?十字架の恵みが当然のことのように思われますか?そうであるなら、今がまさに聖霊様を新しく求めるべき時です。

聖霊様を求めてください。毎朝目を覚ます度に「聖霊様、今日も私の心を開いて十字架を神の知恵として見させてください」と祈ってください。聖書を読む前に「聖霊様、このみことばを通して神の心を知らせてください」と求めてください。困難なことに出会う度に「聖霊様、この状況でキリストの心で反応できるよう助けてください」と願い求めてください。

また一人だけの信仰ではなく、教会共同体と共に聖霊様の働きを経験してください。共に祈り、共にみことばを分かち合い、共に十字架の愛を実践する聖霊共同体の一員となってください。

そしてこの世に出て行って聖霊様の力で十字架の福音を伝えてください。皆さんの論理や話術ではなく、聖霊様の現れと力で失われた魂たちが十字架を神の知恵として見るようになることを祈りながら福音を分かち合ってください。

聖霊降臨主日を迎えて、聖霊様が私たち一人一人の心に、私たちの家庭に、私たちの教会に新しく満ちて臨まれることを切に祈ります。それで日々十字架を神の知恵として見つめ、その十字架の愛で生きていく聖霊に満たされた聖徒となられますよう、主の御名によって祝福いたします。

 
 
 

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