聞(き)いて悟(さと)り、実(みの)りなさい
- rlxonorg
- 6월 28일
- 22분 분량
聞(き)いて悟(さと)り、実(みの)りなさい
本文:マタイによる福音書(ふくいんしょ) 13章 1〜23節
(日本語同時通訳(どうじつうやく)用)
はじめに:同じ種(たね)、異(こと)なる秋
私が初めて日本に来て驚(おどろ)いたことの一つは、日本のお米があまりにも美味(おい)しいという事実でした。韓国では日本のお米を改良(かいりょう)してコシヒカリを開発しましたが、興味深(きょうみぶか)いのは、同じコシヒカリであっても、すべての地域で同じ味になるわけではないという事実です。
遺伝的(いでんてき)に同じように改良(かいりょう)された、完璧(かんぺき)な種(たね)です。同じ品種(ひんしゅ)の種(たね)であるにもかかわらず、それでも、どの地域で育つかによって、その味と風味(ふうみ)が変わってきます。いったい何がその違いを生み出しているのでしょうか。種(たね)は同じでした。種(たね)には欠陥(けっかん)がありませんでした。結局、本当の変数(へんすう)は種(たね)ではなく、それが根を下ろした土、つまり大地にあったのです。同じ種(たね)であっても、ある土地はそれを豊かな味に育て上げ、ある土地はそうはなりません。水と日光(にっこう)と土壌(どじょう)の質、そして農夫(のうふ)の手がその土地を耕(たがや)したからです。
今日私たちが共に見ていく本文が、まさにこの地点から出発(しゅっぱつ)します。マタイによる福音書(ふくいんしょ)13章に出てくる、あの有名な種(たね)を蒔(ま)く人のたとえです。この本文は、人間の心が外から来る神の国の真理(しんり)をどのように受け入れ、また、どのように弾(はじ)き返すのか、その霊的(れいてき)なメカニズムを綿密(めんみつ)に解き明かしています。同じように礼拝(れいはい)に出席(しゅっせき)し、同じ神の御言葉(みことば)を聞いたのに、なぜある人の人生は根本的(こんぽんてき)に変化し、ある人の人生は何の動きもないのか、今日の御言葉(みことば)を通して解き明かし、主の御心(みこころ)の中へと進んでいくことを願います。
一.なぜよりにもよってこの時点(じてん)だったのか — たとえが投げられた空気
今日から私たちは五週間(ごしゅうかん)にわたって、マタイによる福音書(ふくいんしょ)の三番目の講話(こうわ)にあたる13章の御言葉(みことば)を深く見ていきます。13章には数多くのたとえが満ちあふれています。イエス様がなぜよりにもよってこの時点(じてん)で、このような話を持ち出されたのか、その文脈(ぶんみゃく)からまず押さえてみたいと思います。
このたとえが登場(とうじょう)する直前(ちょくぜん)である、マタイによる福音書(ふくいんしょ)11章と12章の背景(はいけい)を見ると、当時の状況(じょうきょう)は一言で言えば総体的(そうたいてき)な難局(なんきょく)でした。完璧(かんぺき)なメシアが来られたにもかかわらず、そうでした。メシアが登場(とうじょう)され、完璧(かんぺき)な真理(しんり)を伝え、想像(そうぞう)もできない奇跡(きせき)を目の前で見せてくださいました。ところが、大衆(たいしゅう)の反応(はんのう)は冷たいどころか、完全(かんぜん)に敵対的(てきたいてき)でした。
さらには、そのメシアの道を備えた偉大な預言者(よげんしゃ)、洗礼者(せんれいしゃ)ヨハネさえも牢獄(ろうごく)の中で疑(うたが)いを抱(いだ)き、「来るべき方は、あなたなのですか」と尋(たず)ねます(マタイ11:3)。最も多くの奇跡(きせき)を見た町々は鼻であしらいました。宗教(しゅうきょう)指導者(しどうしゃ)たちはあからさまに殺意(さつい)を露(あらわ)にし、さらには家族でさえ、彼が気が狂(くる)ったと思って外でうろついている状況(じょうきょう)でした。
この状況(じょうきょう)を今日の私たちの言葉に置き換えてみると、どれほど呆(あき)れた状況(じょうきょう)なのかが実感(じっかん)できます。ある巨大(きょだい)企業(きぎょう)(たとえば「アップル」)が、数兆(すうちょう)ウォンの開発費(かいはつひ)を注(つ)ぎ込んで、技術的(ぎじゅつてき)な欠陥(けっかん)が一つもない完璧(かんぺき)な革新(かくしん)製品(せいひん)を発売(はつばい)したとしましょう。途方(とほう)もない期待作(きたいさく)が出たわけです。ところが、消費者(しょうひしゃ)の反応(はんのう)が完全(かんぜん)にめちゃくちゃです。市場の先駆者(せんくしゃ)というインフルエンサーたちは公(おおやけ)に製品(せいひん)を疑(うたが)い、競合(きょうごう)他社(たしゃ)は悪評(あくひょう)をつけ、さらには社内(しゃない)の社員(しゃいん)や家族でさえ、この製品(せいひん)がなぜ必要なのか納得(なっとく)できない、というわけです。
そんなとき、普通(ふつう)の企業(きぎょう)やリーダーはどんな選択(せんたく)をするでしょうか。中核(ちゅうかく)の機能(きのう)に何か致命的(ちめいてき)な欠陥(けっかん)があるのではないかと考え、自分たちが出したその種(たね)を作り直そうとするでしょう。それが一般的(いっぱんてき)な反応(はんのう)です。ところが、イエス様はまったく異(こと)なる結論(けつろん)を下されます。種(たね)には何の問題もない、というのです。完璧(かんぺき)なメッセージが失敗(しっぱい)した理由は、ひとえにそれを受け入れる対象(たいしょう)、すなわち土地の状態(じょうたい)が深刻(しんこく)に壊(こわ)れているからだ、という診断(しんだん)です。
ですから、このたとえは単に農作業(のうさぎょう)を上手にやろうという話ではありません。神の国の真理(しんり)がなぜ拒(こば)まれるのかについての、主の最初の公式(こうしき)な釈明(しゃくめい)です。それで、受け手の心の状態(じょうたい)にこれほど焦点(しょうてん)を合わせているため、本文には種(たね)を蒔(ま)く人や種(たね)そのものについての叙述(じょじゅつ)がほとんどありません。レンズの焦点(しょうてん)は、道端(みちばた)、石地(いしじ)、茨(いばら)の茂(しげ)み、良い土地という四つの受容性(じゅようせい)の類型(るいけい)に完全(かんぜん)に固定(こてい)されています。
二.私たちの錯覚(さっかく) — 七十五パーセントの失敗率(しっぱいりつ)
そして、ここで私たちが正直(しょうじき)に認めなければならないことが一つあります。私たちはこのたとえに接するとき、とてつもない肯定的(こうていてき)な偏(かたよ)りに陥(おちい)っていた、という事実です。私たちは普通(ふつう)、この話を聞くと「ああ、そうだ、結局は良い土地に落ちて百倍(ひゃくばい)の実を結ぶんだな」と思いながら、心温まるハッピーエンドとして消費(しょうひ)してしまいます。主に教会学校でそう教(おそ)わったからです。
ところが、数学的(すうがくてき)に確率(かくりつ)を計算(けいさん)してみると、現実(げんじつ)はまったく異(こと)なります。提示(ていじ)された四つのシナリオの中で、なんと三つ、つまり七十五パーセントが惨(みじ)めな失敗(しっぱい)に終わります。これは「必ずうまくいく」という希望(きぼう)に満ちた励(はげ)ましというよりは、人間の心が真理(しんり)を受け入れて成長(せいちょう)していく過程(かてい)がどれほど失敗(しっぱい)しやすいか、その障害物(しょうがいぶつ)について非常(ひじょう)に冷酷(れいこく)に警告(けいこく)する本文なのです。その失敗(しっぱい)の構造(こうぞう)を一つずつ解き明かしていくと、主の警告(けいこく)がいかに具体的(ぐたいてき)であるかが分かります。
三.第一の土地 — 固く踏み固められた道端(みちばた)
第一の道端(みちばた)タイプは、数多くの人の足に踏まれて、コンクリートのように固く踏み固められた心です。防衛(ぼうえい)機制(きせい)で凝(こ)り固まっているため、メッセージがそもそも表面(ひょうめん)を突き破って入っていくことすらできず、弾(はじ)き返される状態(じょうたい)です。本文は、鳥が来てその種(たね)を食べてしまったと言います。中に入れなかった真理(しんり)は、留(とど)まる場所がなく、すぐさま奪(うば)われてしまうのです。
四.第二の土地 — 早く熱くなり、早く冷(さ)める石地(いしじ)
ところが、本当に興味深(きょうみぶか)いのは二番目の石地(いしじ)です。石地(いしじ)は最初は芽がものすごく早く出てきて、反応(はんのう)が良いように見えます。見た目にはまさにそう見えます。しかし、これを理解(りかい)するには、一世紀(いっせいき)ガリラヤ地方の実際(じっさい)の地質的(ちしつてき)な特性(とくせい)を少し知っておく必要があります。この地域の土地は、表面(ひょうめん)にだけ土が非常(ひじょう)に薄(うす)く覆(おお)っていて、そのすぐ下には石灰岩(せっかいがん)の岩盤層(がんばんそう)が広く硬(かた)く敷かれている場合が多くありました。
土が深くないので、種(たね)が落ちると、その浅(あさ)い土の層(そう)のせいで太陽熱(たいようねつ)がすぐに閉じ込められ、温度(おんど)変化が急激(きゅうげき)に起こります。それで、他の土地よりも芽がはるかに早く、非常(ひじょう)に劇的(げきてき)に出てきます。ところが、問題は何でしょうか。根が岩盤(がんばん)に阻(はば)まれて下に伸びていけないので、日が少し熱くなると、水分(すいぶん)不足(ぶそく)でそれだけ早く焼け焦(こ)げてしまうのです。
これは、その浅(あさ)い感情的(かんじょうてき)な動揺(どうよう)が、どのように早い消耗(しょうもう)へとつながるのかを完璧(かんぺき)に説明(せつめい)してくれる物理的(ぶつりてき)なメカニズムです。私たちが何か新しい恵(めぐ)みや真理(しんり)に接したとき、「わあ、これは私の人生を変えるメッセージだ」と熱く燃え上がっていたのに、その真理(しんり)を自分の人生に適用(てきよう)するために、面倒(めんどう)で苦しい代価(だいか)を払(はら)わなければならない瞬間(しゅんかん)が来ると、一夜(いちや)にして冷(さ)めてしまう現象(げんしょう)とまったく同じです。鍋(なべ)のようにすぐに沸き、すぐに冷(さ)めてしまうのです。
五.第三の土地 — 何ともないようで窒息(ちっそく)させられる茨(いばら)の茂(しげ)み
三番目のタイプは、もしかすると今日のクリスチャンが最も身につまされて聞くべきたとえです。それが茨(いばら)の茂(しげ)みの土地です。この土地は、先の二つの土地とは根本的(こんぽんてき)に状態(じょうたい)が異(こと)なります。土も柔(やわ)らかく、養分(ようぶん)も十分(じゅうぶん)に供給(きょうきゅう)されます。種(たね)が育つうえで、その客観的(きゃっかんてき)な環境(かんきょう)そのものはまったく悪くない、という意味(いみ)です。問題は、その何ともない土地に、すでに茨(いばら)の茂(しげ)みがびっしりと場所を占めている、ということです。種(たね)が芽を出して育つには育つのですが、土壌(どじょう)の養分(ようぶん)と日光(にっこう)を、その茨(いばら)が全部吸(す)い取ってしまいます。
この箇所(かしょ)で、私たちがコンピューターやスマートフォンを使うときに経験(けいけん)する状況(じょうきょう)が思い浮かびます。一度考えてみてください。ブラウザの窓を数十個(すうじっこ)開いて作業(さぎょう)をします。一方のタブでは速報(そくほう)ニュースが流れ、別のタブではショッピングモールのセール通知(つうち)が鳴り、メッセンジャーは点滅(てんめつ)し続けます。私たちの認知的(にんちてき)な帯域(たいいき)、つまりメモリ容量(ようりょう)は明らかに限(かぎ)られているのに、この数多くのタブがバックグラウンドでシステム資源(しげん)を全部食い尽くすのです。そうして、いざ自分の人生で最も大切な、深い思索(しさく)をしたり、真理(しんり)を心に刻(きざ)もうとしたりするときには、すでにエネルギーが全部枯渇(こかつ)して、システムがもたついた末にダウンしてしまいます。
このブラウザのタブのたとえを本文の言葉に置き換えてみると、意味(いみ)が明確(めいかく)になります。本文は、この茨(いばら)の正体(しょうたい)を「世の思い煩(わずら)いと富の誘惑(ゆうわく)」だと指摘(してき)してくれます(マタイ13:22)。食べて生きていく問題についての果てしない不安(ふあん)、他人よりも多く成し遂げ、消費(しょうひ)しようとする欲望(よくぼう)、そして現代(げんだい)社会特有(とくゆう)の果てしない情報(じょうほう)の慌(あわ)ただしさ、これらこそが私たちの魂(たましい)のエネルギーを消耗(しょうもう)させるバックグラウンドのアプリなのです。これらのアプリが削除(さくじょ)されずに回り続けるかぎり、どんなに良いメッセージが入力(にゅうりょく)されても、それを自分の人生に統合(とうごう)する霊的(れいてき)な余力(よりょく)が窒息(ちっそく)させられてしまいます。完全(かんぜん)に死んだわけではないけれど、何の実も結ばない、もしかすると最も欺瞞的(ぎまんてき)で恐(おそ)ろしい状態(じょうたい)だと言えます。
六.なぜたとえで語られたのか — 心を試すリトマス試験紙(しけんし)
ところが、ここで一つ根本的(こんぽんてき)な疑問(ぎもん)が生じます。人々の心が固く、浅(あさ)く、よそ事で満ち満ちている絶望的(ぜつぼうてき)な状態(じょうたい)であることを、主ご自身が診断(しんだん)されたのなら、このような不毛(ふもう)な状況(じょうきょう)であればこそ、むしろもっとあからさまに、直接的(ちょくせつてき)に衝撃(しょうげき)を与えて、人々の脳裏(のうり)に刻(きざ)み込ませるべきではないでしょうか。それなのに、なぜ聞き取るのも難しい、謎(なぞ)めいたたとえという方法(ほうほう)を選んで、話を遠回(とおまわ)しに語られたのでしょうか。
さらには、本文が引用(いんよう)するイザヤ預言者(よげんしゃ)の聖句(せいく)を見ると、「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟(さと)らない」という箇所(かしょ)が出てきます(マタイ13:14、イザヤ6:9)。これは、はじめから特定(とくてい)の人々には聞き取れないように、わざと鍵(かぎ)をかけておいた、という過酷(かこく)で排他的(はいたてき)な決定論(けっていろん)のように聞こえます。実際(じっさい)、多くの人々がこの箇所(かしょ)で「神は結局、人の運命(うんめい)を前もってすべて定めておいて、差別(さべつ)されるのではないか」という深刻(しんこく)な誤解(ごかい)に陥(おちい)ります。
しかし、たとえという仕掛(しか)けが持つ高度(こうど)な心理的(しんりてき)メカニズムを理解(りかい)すると、その誤解(ごかい)は解けます。たとえは、決して誰(だれ)かを排除(はいじょ)しようとして任意(にんい)に立てておいた障壁(しょうへき)のようなものではありません。むしろ、聞く者の心の状態(じょうたい)によって完璧(かんぺき)に異(こと)なるように作動(さどう)する、一種の選択的(せんたくてき)なフィルタリングシステムに近いものです。
そのメカニズムは具体的(ぐたいてき)にどうなっているのでしょうか。たとえや隠喩(いんゆ)のような語り口は、本質的(ほんしつてき)に聞く人の積極的(せっきょくてき)な認知的(にんちてき)関与(かんよ)を要求(ようきゅう)します。パズルのピースを投げ与えて、自分で組み合わせさせる方式(ほうしき)です。もし、ある人がメッセージを伝える話者(わしゃ)に対して、はじめから鈍感(どんかん)であったり、そもそも関心(かんしん)すらなかったりするなら、その脳(のう)はパズルを解読(かいどく)するためにエネルギーを使おうとはしないでしょう。それで、表面的(ひょうめんてき)に聞こえる童話(どうわ)のような農作業(のうさぎょう)の話だけをざっと聞き流して、「これはいったい何の話だ」と思いながら、そのまま通り過ぎてしまう雑音(ざつおん)になってしまいます。
反対(はんたい)に、真理(しんり)への渇(かわ)きがあり、開かれた心を持つ人であれば、その隠(かく)された意味(いみ)を探(さが)し出すために、絶えず問いを投げかけながら、知的(ちてき)にも霊的(れいてき)にも没入(ぼつにゅう)するようになります。すなわち、外から無理やり扉(とびら)に鍵(かぎ)をかけたのではなく、聞き手自身が自(みずか)らの態度(たいど)を通して、扉(とびら)を開けるか開けないかを決める構造(こうぞう)なのです。結局、たとえという言語(げんご)そのものが、その人の心の畑(はたけ)を試すリトマス試験紙(しけんし)の役割(やくわり)を果たすのです。耳を閉じた者には完璧(かんぺき)な暗号(あんごう)となり、心を開いた者には、より深い真理(しんり)へと導(みちび)く鍵(かぎ)となります。実(じつ)に驚(おどろ)くべき語り口ではありませんか。
七.悟(さと)りとは何か — 散らばったものを一つに集めること
それでは、そのフィルターを通り抜けて、最終的(さいしゅうてき)に到達(とうたつ)すべき地点、つまり本文が言うその「悟(さと)り」というのは、正確(せいかく)にどのような状態(じょうたい)を意味(いみ)するのでしょうか。私たちは普通(ふつう)、「悟(さと)った」と言うと、頭の中で「ああ、なるほど」と知的(ちてき)なスパークが弾(はじ)ける様子(ようす)を思い浮かべます。しかし、本文はもっと深いところを指(さ)し示します。
ここで、ギリシャ語の単語(たんご)を一つ、共に見ていきたいと思います。本文で「悟(さと)る」と訳(やく)された単語(たんご)は、シュニエーミ(συνίημι)です。この単語(たんご)は、「共に」という意味(いみ)のシュン(σύν)と、「送る、置く」という意味(いみ)のヒエーミ(ἵημι)が結合(けつごう)した単語(たんご)です。散らばっていた情報(じょうほう)の断片(だんぺん)、経験(けいけん)のかけらを一つに引き寄せ集めて、完成(かんせい)したパズルの絵に作り上げていく過程(かてい)を意味(いみ)します。言い換えれば、断片化(だんぺんか)された知識(ちしき)が、自分の人生の文脈(ぶんみゃく)と完全(かんぜん)に一つに統合(とうごう)される瞬間(しゅんかん)なのです。
ですから、単に頭の中で概念(がいねん)を一つ多く知っていくという知識(ちしき)の拡張(かくちょう)ではありません。自分の人生のすべてのパズルのピースが集まって、世界観(せかいかん)そのものが再編(さいへん)される経験(けいけん)をしたのなら、その人は以前(いぜん)とまったく同じやり方で生きていくことはできません。物理的(ぶつりてき)な行動(こうどう)と人生の方向性(ほうこうせい)がひっくり返るのが正常(せいじょう)です。
それで本文は、「悟(さと)る者は、すなわち実(みの)りて」と言います(マタイ13:23)。悟(さと)りと実、つまり結実(けつじつ)の間に、いかなる時差(じさ)も隔(へだ)たりも置きません。人生を削り取る物理的(ぶつりてき)な献身(けんしん)と変化を伴(ともな)わない、単なる知的(ちてき)な理解(りかい)は、真(しん)のシュニエーミではない、という断固(だんこ)とした宣言(せんげん)です。知的(ちてき)な遊戯(ゆうぎ)で終わる哲学(てつがく)ではなく、必ず人生という土壌(どじょう)で実質的(じっしつてき)な作物(さくもつ)を育て上げてこそ、本物の知識(ちしき)として認められる、という意味(いみ)です。
八.絶望(ぜつぼう)か希望(きぼう)か — 土地は変わりうる
それでは、ここまで共についてこられた皆さんは、自然(しぜん)とある一つの問いに行き着くことになります。「果たして私はどんな土地なのか」という、自分自身についての診断(しんだん)です。最も重要(じゅうよう)な問いです。もし私が石地(いしじ)であったり、茨(いばら)の茂(しげ)みで満ちていたりするなら、私たちは絶望(ぜつぼう)しなければならないのでしょうか。
この本文が、あれほど冷酷(れいこく)な七十五パーセントの失敗(しっぱい)確率(かくりつ)を語りながらも、結局は希望(きぼう)のメッセージである理由が、まさにここにあります。土地の性質(せいしつ)は固定(こてい)されたものではなく、変わりうるという事実です。どれほど不毛(ふもう)な土壌(どじょう)であっても、農夫(のうふ)がどのような物理的(ぶつりてき)介入(かいにゅう)をするかによって、いくらでも肥沃(ひよく)な良い土に変わりうるのです。それで、それぞれの土地の状態(じょうたい)に合わせた、具体的(ぐたいてき)で実践的(じっせんてき)な処方(しょほう)を共に分かち合いたいと思います。
第一に、長い時間固く踏み固められた道端(みちばた)のような心を持っているなら、悔(く)い改めという鋤(すき)で、その表土層(ひょうどそう)を完全(かんぜん)に掘り返さなければなりません。起耕(きこう)をしなければならない、ということです。これは単に「私が間違っていた」と反省(はんせい)する水準(すいじゅん)ではありません。今まで自分が当然(とうぜん)のように思いながら踏み歩いてきた人生の慣(な)れ親しんだルーティン、世界観(せかいかん)そのものを破壊(はかい)し、ひっくり返して、むき出しの、その柔(やわ)らかい感覚(かんかく)を再び引き上げる、徹底的(てっていてき)なひっくり返しです。
第二に、石地(いしじ)のための処方(しょほう)は、より本質的(ほんしつてき)です。感情(かんじょう)のスパークだけに依存(いそん)しながら、浅(あさ)い土で速く育つことを、極度(きょくど)に警戒(けいかい)しなければなりません。岩盤(がんばん)を砕(くだ)いて根を下ろす過程(かてい)は、決して華(はな)やかではありません。むしろ、極度(きょくど)に退屈(たいくつ)です。
私が聞いた話が一つあります。今日、大型(おおがた)船舶(せんぱく)で船員(せんいん)たちが最もやりたがらない仕事が、その巨大(きょだい)な船の隅々(すみずみ)に生じた錆(さび)を取り除く作業(さぎょう)だそうです。あちこちに、特に溶接(ようせつ)部位(ぶい)に錆(さび)がついたのを取り除かなければ、船に穴が開き、そのまま放っておけば、ついには船が沈(しず)んでしまうというのです。それで、目にも留(と)まらず、褒(ほ)められもしない、その退屈(たいくつ)な錆(さび)取り作業(さぎょう)を、誰(だれ)かが毎日黙々(もくもく)と担(にな)わなければならないのです。
私たちの人生も同じです。世の荒波(あらなみ)によって、私たちの魂(たましい)の隅々(すみずみ)に錆(さび)がついていきます。私たちは、その錆(さび)を取り除く仕事をやめてはなりません。それこそが、聖霊(せいれい)の助けを求めながら、御言葉(みことば)と祈(いの)りによって聖(きよ)い生活を保(たも)とうと力を尽くすことです。人々の目に留(と)まらないところで、毎日着実(ちゃくじつ)に御言葉(みことば)を読み、黙想(もくそう)し、自分を省(かえり)みる、その見えない規律(きりつ)だけが、硬(かた)い岩盤(がんばん)を砕(くだ)き、永遠(えいえん)の湿(しめ)り気を含(ふく)ませ、私たちの魂(たましい)の錆(さび)を防ぎます。早天(そうてん)祈祷会(きとうかい)、水曜(すいよう)礼拝(れいはい)、金曜(きんよう)聖霊(せいれい)待望会(たいぼうかい)などに励(はげ)んで出席(しゅっせき)してください。信仰(しんこう)は感傷(かんしょう)ではなく実戦(じっせん)です。
第三に、おそらく最も多くの方が共感(きょうかん)される茨(いばら)の茂(しげ)みの土地に対する処方(しょほう)は、絶え間ない雑草(ざっそう)の除去(じょきょ)です。茨(いばら)というものは、一度抜(ぬ)き取ったからといって、永遠(えいえん)に消え去るものではありません。そのまま放っておけば、また再びぐんぐん育って、私の魂(たましい)の容量(ようりょう)を全部食い尽くします。毎日毎日、自分の人生の優先(ゆうせん)順位(じゅんい)を点検(てんけん)し、重要(じゅうよう)でない欲望(よくぼう)と不安(ふあん)のタブを強制的(きょうせいてき)に閉じて終了(しゅうりょう)させる、そのような絶え間ない意志的(いしてき)な決断(けつだん)が必要です。
九.百倍(ひゃくばい)、六十倍(ろくじゅうばい)、三十倍(さんじゅうばい) — 比べてはならない
この三つの処方(しょほう)を通して、ついに良い土となったとき、本文は百倍(ひゃくばい)、六十倍(ろくじゅうばい)、三十倍(さんじゅうばい)という結実(けつじつ)の分量(ぶんりょう)について、非常(ひじょう)に新鮮(しんせん)な視点(してん)を提供(ていきょう)してくれます。私たちはよく、無条件(むじょうけん)に百倍(ひゃくばい)の成果(せいか)を出してこそ完璧(かんぺき)な成功(せいこう)だと考えがちです。ところが、本文は収穫量(しゅうかくりょう)の差を、ありのままに認めてくれます。
私は、この部分を日本の高級(こうきゅう)農産物(のうさんぶつ)になぞらえて考えるとき、心が実(じつ)に安(やす)らかになります。私たちがよく知っている日本の有名な産物(さんぶつ)は、それぞれその産地(さんち)の名を誇(ほこ)らしげに掲(かか)げています。松本(まつもと)スイカ、新潟(にいがた)米、北海道(ほっかいどう)牛乳(ぎゅうにゅう)のようにです。同じスイカで、同じお米で、同じ牛乳(ぎゅうにゅう)なのに、なぜわざわざ産地(さんち)の名をつけるのでしょうか。まさに、その土地ごとに育て上げる味と風味(ふうみ)が異(こと)なるからです。
専門家(せんもんか)たちは、これをテロワール(terroir)と呼びます。同じように優(すぐ)れた農夫(のうふ)が育てた作物(さくもつ)であっても、その地域の日照量(にっしょうりょう)と土壌(どじょう)の微細(びさい)な成分(せいぶん)によって、甘(あま)みが異(こと)なり、風味(ふうみ)が異(こと)ならざるをえません。人間も同じです。私たち一人ひとりが、生まれ持った気質(きしつ)、置かれている環境(かんきょう)、耐(た)え抜いてきた傷(きず)の形(かたち)が、みな異(こと)なります。誰(だれ)かは百倍(ひゃくばい)の結果(けっか)を出す爆発力(ばくはつりょく)を持っていますが、誰(だれ)かは自分の限界(げんかい)の中で三十倍(さんじゅうばい)を出すことだけでも、とてつもない奇跡(きせき)でありうるのです。
三十倍(さんじゅうばい)も、とてつもない結実(けつじつ)です。他の畑(はたけ)が百倍(ひゃくばい)を収(おさ)めたからといって、自分の三十倍(さんじゅうばい)の収穫(しゅうかく)を恥(は)じたり、比べたりする理由はまったくありません。松本(まつもと)のスイカと北海道(ほっかいどう)の牛乳(ぎゅうにゅう)が互(たが)いをうらやまないように、神は各(おのおの)の人を、その産地(さんち)固有(こゆう)の名で呼び、その固有(こゆう)の結実(けつじつ)を喜(よろこ)ばれます。核心(かくしん)は、実の大きさや量(りょう)ではなく、その実がどれほど本質(ほんしつ)に近い本物なのか、その真実性(しんじつせい)に合わせられているからです。
十.聞いて、悟(さと)り、実(みの)りなさい — 天の種(たね)を抱(いだ)きなさい
それで、この本文が全体(ぜんたい)を貫(つらぬ)きながら導(みちび)き出す、真(しん)の受容(じゅよう)と変化の構造(こうぞう)は、結局三つの段階(だんかい)で完成(かんせい)します。聞く、そして悟(さと)る、最後に実(みの)る。聞いて、悟(さと)り、実を結ぶことです。パズルを組み合わせ、人生を変えることです。この三つの歯車(はぐるま)が途中(とちゅう)で途切(とぎ)れることなく、完璧(かんぺき)に噛(か)み合って回るとき、はじめて外から与えられた完璧(かんぺき)な種(たね)が、自分の内面(ないめん)の地質(ちしつ)と結び合わさって、真(しん)の意味(いみ)での命を誕生(たんじょう)させます。
ところが、ここで私たちが決して見逃(みのが)してはならないことが一つあります。イエス・キリストを信じるということは、すなわち、この聞いて、悟(さと)り、実(みの)ることです。しかし、この結実(けつじつ)は、決して地から生じる種(たね)ではありません。それは、天の種(たね)を抱(いだ)くことです。私たちの心の畑(はたけ)に蒔(ま)かれるその種(たね)は、土から生じたものではなく、上から下ってきたものであり、その天の種(たね)から、はじめて神の国が育ち、生み出されるのです。
今日、私たちは、二千年(にせんねん)前の古いたとえが、どのように今、私たちの心と人生をそれほど正確(せいかく)に貫(つらぬ)いているのか、また、人間の心という畑(はたけ)が、どれほど弱々しくありながら、同時(どうじ)に無限(むげん)の可能性(かのうせい)を秘(ひ)めているのか、その深い深淵(しんえん)を共に覗(のぞ)き込みました。
私たちは毎朝、目を開ける瞬間(しゅんかん)から、アルゴリズムが口移しに食べさせてくれる刺激的(しげきてき)な映像(えいぞう)、怒(いか)りを誘発(ゆうはつ)するニュース記事(きじ)、果てしなく他人との比較(ひかく)を強要(きょうよう)するソーシャルメディアのフィードという、巨大(きょだい)な情報(じょうほう)の洪水(こうずい)の中に投げ込まれます。避(さ)けられない現代人(げんだいじん)の宿命(しゅくめい)です。この無慈悲(むじひ)な認知的(にんちてき)過負荷(かふか)の中で、皆さんの魂(たましい)の表土層(ひょうどそう)が、道端(みちばた)のように固く踏み固まったり、茨(いばら)の茂(しげ)みに窒息(ちっそく)させられたりしないように、守(まも)り抜かなければなりません。
それでは、今日すぐに皆さんの人生に適用(てきよう)できる、自分だけの雑草(ざっそう)抜きのルーティン、自分だけの錆(さび)取り作業(さぎょう)とは何でしょうか。眠(ねむ)りにつく前に、スマートフォンをいっそ別の部屋に置いて、静(しず)かに御言葉(みことば)を読む三十分(さんじゅっぷん)でしょうか。それとも、慌(あわ)ただしい一日の中で、しばし立ち止まって、聖霊(せいれい)の助けを求めながら祈(いの)る、静(しず)かな十分(じゅっぷん)でしょうか。それぞれの方法(ほうほう)があるでしょう。早天(そうてん)祈祷会(きとうかい)や礼拝(れいはい)などに出席(しゅっせき)して、静(しず)かに御言葉(みことば)を聞いてください。
この神の国の結実(けつじつ)は、ただクリスチャン各自(かくじ)だけが生み出せるものです。世の誰(だれ)も、代わりに結んではくれません。皆さんの心の畑(はたけ)に蒔(ま)かれた天の種(たね)を、皆さん自身が聞いて、悟(さと)り、育て上げて、実(みの)らせなければならないのです。これこそが、私たち一人ひとりに委(ゆだ)ねられた聖(きよ)い使命(しめい)です。
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