蜜と毒蜜を一緒に置く理由
- rlxonorg
- 7월 5일
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本文: マタイによる福音書13章24節-43節
I. 序論:神義論的な問いの提起
種蒔きのたとえ(個人の心)から毒麦のたとえ(世界全体)へと視点を拡大
核心的な問い:「神が支配しておられるなら、なぜ世に悪がこれほど満ちているのか」
背景:ヨブ記、詩篇73篇、ハバクク書に見られる伝統的な神義論の問題提起
II. 第一に、敵が蒔いた毒麦(13章24-30節)
良い種を蒔いた良い畑 — 創造は本来善であった
敵が夜中にひそかに毒麦を蒔いていった
ギリシャ語ジザニオン(毒麦)の植物学的特徴:初期段階では小麦と区別がつかず、実に毒性があり、根が絡み合う
ローマ法上、犯罪行為とされていたという背景説明
神学的含意:悪は神の創造の失敗ではなく、敵(悪魔)の侵入によるもの
III. 第二に、なぜ今すぐ抜かれないのか(13章29節、34-35節)
しもべたちの反応:「行って抜き集めましょうか」(即座の正義感)
主人の応答:「そのままにしておきなさい」
理由1:人間の判断力の限界(良い麦まで抜いてしまう危険性)
理由2:神の忍耐深さ(第二ペテロ3章9節の引用) — 悔い改めの機会の提供
挿入されたたとえ(からし種・パン種)は次回の説教へ保留
34-35節:詩篇78篇2節の引用 — たとえによる教えの旧約的連続性
IV. 第三に、必ず来る分離の日(13章36-43節)
弟子たちの要請とイエスによる寓意的解釈(37-39節)
「畑はこの世界」(38節) — 一次的適用は世界全体
教会史における二次的適用:アウグスティヌス以来の伝統、マタイ福音書内の並行箇所(22章11-13節、25章1-13節、7章21-23節)
「人の子の国」(41節) — ダニエル書7章13-14節との連関、イエスの王的・裁き主的アイデンティティ
ゼパニヤ書1章3節の反映 — 主の日の成就
火の炉(42節)をめぐる神学的論争:永遠の刑罰説 対 消滅説(annihilationism) — マタイ25章46節を根拠とする多数説の支持、強調点は期間の長さではなく裁きの確実性
結論:義人は太陽のように輝く(43節、ダニエル書12章3節の反響)
V. 結論と適用(3点)
軽々しく人を裁かないこと(ただしマタイ18章15-17節の牧会的勧告とは区別する)
悪への即座の裁きがないことに落胆しないこと
待つ時間を悔い改めの機会とすること
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