誓いのいらないキリストと弟子(マタイ5:33-37)
もし皆さんが就職の準備をしているなら、自己証明をしなければなりません。 自分が誰なのか、自分の実力がどのようなものなのかを示さなければなりません。 そこで、自分が持っている実力と能力を示すために書類を準備し、面接の準備をします。履歴書には学歴や資格のリストを記録します。これが世の中が自分を証明しようとする方法です。 しかし、それだけでは決して自分を全部見せることはできませんし、証明することもできません。
神様の自己証明の方法はこれとは全く違います。神様は御言葉でご自身を啓示され、その御言葉はイエス・キリストの中で肉となって私たちの中に住まわれました(ヨハネ1:1,14)。 そして現在、聖霊様は信者の生活の中で、そしてその生活を通して御言葉が真理であることを証明してくださっています。今日、私たちは本日の御言葉を通して、このような神の自己証明の仕方と世の中の自己証明の仕方がどのように違うかを見ることになるでしょう。 そして、今日の御言葉を通して、神様は私たちが神の国の民であり、イエス・キリストの弟子であることを証明する人生を生きるように導いてくださることを信じます。
1.誓いが必要な世界と神様のやり方
私たちが住んでいるこの世界は、絶え間ない証明を要求します。就職する時は自分の能力を証明しなければなりません。 昇進する時は自分の成果を証明しなければなりません。 結婚する時は自分の可能性を証明しなければなりません。
しかし、自分の言葉や真正性を証明するために、自分自身ではなく他人の保証や保証を必要とします。 イエス様が誓いを禁じられた理由の一つが、このためだと思います。 当時、人々は誓いを立てる時に「天、地、エルサレム、髪の毛」を保証にしました。 この4つのリストは、上から下の段階に段階的に成り立っていることが分かります。実は、イエス様がこのリストを無駄に言及されたわけではありません。 このリストには意味があります。
ユダヤ人たちは第3戒律に従って、神の名を 함부로口にしませんでした。 だから、誓いを立てる時にも、神の名前で誓わないようにしています。 しかし、彼らは神ではないものの中から尊いもの、高いものを取り出し、自分の保証にしました。
しかし、イエス様は彼らの心理をお見通しでした。 そこでこう言われました。 "天でもするな、これは神の御座である。地でもするな、これは神の足の裏の像である。エルサレムにもするな、それは大王の城である。あなたの髪の毛でさえもしないでください、それさえもあなたのものではありません。」
なぜ私たちは誓約が必要なのでしょうか? 言葉で言う誓約は信じられず、保証人や保証が必要なのになぜでしょうか? これは、人間社会が基本的に不信と不安の社会であることを示しています。不信と不安の世界で生きている人は、自己を証明するために自分は保証人になれないことを示しています。
ヘブライ人への手紙6:16を見ると、 「人々は自分より大きな者を指して誓うので、誓いは彼らが争うすべてのことの最終的な確定である。」
つまり、誓いは自分より大きな方を保証にすることであることが分かります。まさにこの時点で、イエス様が警告された「虚偽の誓い」が発生する可能性があります。人々に信頼できるものがないので、誓いを要求されます。 この時、自分より大きな者を保証にします。 そして、あたかも自分が実際に大きな者になったかのように考えながら傲慢になります。不信から始まった誓い、より大きな不信を生みます。
しかし、神の自己証明の方法は全く違います。神はご自身が保証になります。 なぜでしょうか? それは、神より大きい者がいないからです。 神はご自身の言葉でご自身を明らかにされました。モーセが初めて神様に会った時、神様の名前を尋ねました。 その時、神様が教えてくださった名前が「ヤウェ」です。 ところで、「ヤウェ」の意味は「私は私である」、「私はあなたがたに「私」になる」という意味に解釈することができます。
これが世の誓いとの違いを示しています。世の誓いは不信から始まります。しかし、神様の契約は、神様の忠実さを示そうとする愛から始まります。世の誓いは自己を証明しようとするものですが、神の契約は私たちを救おうとするものです。
2.イエス・キリスト - 神様の契約の完成者
この神の契約がどのように完成されたかを見てください。イエス様を通してです。イエス様は、私たちを救ってくださるという神の誓いを成就させるために、この地の私たちに来られた方です。
マタイによる福音書26章を見ると、大祭司がイエス様に誓いを要求する場面が出てきます。 「わたしがあなたに生きている神に誓わせるから、あなたが神の子キリストであるかどうか教えてください」(マタイ26:63) この時、イエス様はどうされましたか? 自分を弁護するために大げさな誓いをされませんでした。
代わりにイエス様は何をされましたか? 十字架を背負われました。 イエス様は言葉で誓う代わりに、行動で神の古い誓いを成就するために十字架にかかりました。 言葉ではなく、行動で自分を証明されました。 イエス様の忠実さは言葉ではなく、鞭と槍、十字架の苦難と死を通して証明されました。 これがイエス様の自己証明の方法です。
3.神の国の民の新しいアイデンティティ
イエス・キリストを信じる私たちは新しい被造物になりました(2コリント5:17)。この新しい被造物は何を意味するのでしょうか?存在のあり方が変わりました。存在の仕方が変わったので、自己証明の仕方も変わったことを意味します。
クリスチャンはどのように自己証明をするのでしょうか? イエス様が模範を示された方法です。誓いではなく、ただイエスとノーで、そしてイエス・キリストの従順と忠誠と忍耐で、自分が新しい生き方の中にいることを証明します。
イエス様のように、私たちの言葉と行動にもギャップがなければなりません。 言葉が行動であり、行動が言葉になるのです。 これは非常に現実的な意味を持ちます。私たちの中に悪と陰謀がなければいいのです。これ以上、私たちは誓いで自分を証明する必要はありません。
イエス様を見てください。「イエス様は「私を見た者は父を見た」と言われました。 彼の存在そのものが神を明らかにするものでした。 今、私たちもそのように生きなければなりません。 彼を見るとイエス様が見える」という言葉を聞くことができなければなりません。
これが、「あなたの言うことは正しい、正しい、そうでない、そうでないようにしなさい」という御言葉の本当の意味です。これ以上、私たちは誓いで自分を包装する必要はありません。 私たちの存在そのものが神の御言葉を明らかにする証拠にならなければならないからです。
イエス・キリストの弟子の自己証明はとても逆説的です。神に対しては「はい」ですが、自分自身に対しては「いいえ」と言うことで自己を否定します。自己否定が自己証明になる人が、イエス・キリストの弟子です。
自分自身に対して「私は知らない」と言う時、聖霊が働き始めます。
4.聖霊の助けによって生きる人生
そうです。聖霊の助けがなければ、クリスチャンの自己証明はできません。
たいていの人は、「言葉と行動が一致しなければならない」と言われると、いっそのこと言わない方を選びます。言葉だけ並べて行動しなければ非難されるのが怖いからです。 「約束をしない方がいい」、 「どうせ欠席する日も多いのに、教会に出席すると言わない方がいい」、 「祈ると言わない方がいい」、 「助けると言わない方がいい」と考えます。
正直に見えますが、これは聖霊のない人の態度です。聖霊は私たちに新しい心を与えるだけでなく、その心を行動に移す力も与えてくださいます。私たちが「祈ります」と言ったとき、聖霊は実際にその魂のために執り成すように助けてくださいます。「助けます」と言った時、聖霊は私たちの歩みを彼らに向けて導いてくださいます。
今、私たちは言葉と行動がどれだけ一致しなければならないかに注目するのではなく、私自身が聖霊の道具になるように、だから神の御言葉に「イエス」しかない人生を生きるように聖霊の導きを求めなければなりません。
神の国はお互いを疑う必要がない国です。教会は神の国の入り口です。聖徒はお互いがキリストの中で一つの兄弟姉妹であることを忘れてはなりません。お互いの咎を覆い、お互いを信頼することができなければなりません。もし陰口を言う人がいたら、彼はまだ世の中です。 そのような人は「偽りの誓い」で生きていくことになるでしょう。 しかし、教会と聖徒たちには神の誓いだけがあります。イエス・キリストが十字架の生活で示された誓いだけがあります。
5.神の国の民の実際の生活
では、このような真理は私たちの日常生活をどのように変化させるのでしょうか。より具体的に見てみましょう。
まず、私たちは自己証明の強迫観念から解放されます。
最近、多くのクリスチャンがSNSで自分の信仰を誇示しようとします。「今日も夜明けの祈りをしました!」、「聖書通読何冊目です!」しかし、このようなことが本当に必要なのでしょうか?私たちのアイデンティティはすでにキリストの中で確実です。もう自分の信仰を証明しようと努力する必要はありません。 神様は私たちのフェイスブックやインスタグラムではなく、私たちの心を見ておられるからです。
第二に、誓いの代わりに行動で証明しなければなりません。
明け方祈祷会に出てくる方の中で、誓いを立てて出てくる方は一人もいません。 牧師さん、私は今週から明け方祈祷会に必ず参加します。 誓います」と言う人は、たいてい明け方祈祷会に出てこない人です。 そして、その誓いはたいてい実現しません。 正直になりましょう。皆さん自身も自分の誓いを信じていません。 そうする誓いは「無駄な誓い」ではないでしょうか。
イエスとノーだけしてください。主の御心であると信じるなら、誓いは必要ありません。 その御心を私たちの中に成就してくださる聖霊様を頼りにして足を踏み出すべきです。
私自身が聖霊の道具になるように、だから神の御言葉に「イエス」しかない人生を生きるように聖霊の導きを求めなければなりません。聖霊様が私たちの中で働いてくださるとき、私たちは自然に言ったとおりに行い、行ったとおりに話すようになります。
第三に、私たちは神の国をあらかじめ味わう共同体になります。
教会は神の国の模範でなければなりません。お互いを疑うことなく、信頼する共同体でなければなりません。 クリスチャンは本当に信頼できる神聖な人でなければなりません。 前では笑いながら、後ろでは誹謗中傷することは、共同体を破壊する邪悪なことです。 これは神の国の民の姿ではありません。 むしろ、世の中の姿です。
私たちはお互いがキリストの中で一つの兄弟姉妹であることを忘れてはなりません。お互いの欠点をカバーし、お互いを信頼し、お互いの成長を喜ぶこと、これが神の国の民の姿です。イエス様は「私を見ると父が見える」と言われ、彼の存在と御言葉が完全に一致していることを示されました。私たちも彼と同じように、お互いに「彼を見るとイエス様が見える」という言葉を聞くことができるはずではないでしょうか。 これがまさに神の国の姿であり、教会が世に見せなければならない姿です。
結論:キリストの中の新しい人生への招待
愛する聖徒の皆さん、今日も皆さんは何かを証明しようと努力していますか? 職場で、家庭で、あるいは教会で自分の価値を証明するために誓いを立てていませんか?
もうそんな必要はありません。 私たちは新しい被造物になりました。存在証明の方法が変わったということです。 もう私自身が私の人生の保証人ではありません。 イエス・キリストの中で新しい被造物になった私の存在方法は、イエス・キリストが保証人になりました。
イエス・キリストが十字架で神様の忠実さを完璧に証明し、それが私たちのための永遠の保証となったからです。 「義とされた者は神であり、誰が非難するのか」という御言葉のように、私たちのアイデンティティはすでにキリストの中で確実です。
さらに驚くべきことは、聖霊様が自ら私たちの霊と共に、私たちが神の子であることを証ししてくださっているという事実です。まるで幼い子供が父親のそばに立つときに自分を証明する必要がないように、私たちも神父の子としてこれ以上の証明は必要ありません。
今、私たちに必要なことはただ一つです。聖霊の助けに従ってイエス様のように生きることです。 みことばが肉となって来られたことを人生で証明してくださったイエス様の生き方を私たちの生き方として生きることです。 言葉と行動の間のギャップをなくす必要があります。心の狡猾さと傲慢さを取り除けばいいのです。 そうなれば、言葉と行動が一つとなった人生、誓いがなくても忠実な人生、お互いを信頼して愛する人生を生きることになります。
イエス様の中で、これ以上自分を証明しようと努力しないでください。イエス様を信頼してください。イエス様があなたのためにしてくださったことを受け入れてください。
(締めくくりの祈り:父なる神様、ありがとうございます。独り子イエス様を送って下さり、あなたの忠実さを完全に示し、私たちを新しい被造物にして下さったことを感謝します。今、私たちが聖霊の助けによって、イエス様のように、御言葉が肉になった人生を歩むことができますように。私たちのすべての言葉と行動が、神の契約を明らかにする証拠となりますように。 イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
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