2008年の映画「ダークナイト」でベットマン役を演じた主演俳優クリスチャン・ベイルがインタビューでこんなことを言ったそうです。
「時には正しいことをすることが、あなたをより大きな孤立に追い込むことがあります。」
悪役ジョーカーのテロから街を守るために自分のすべてを捧げたヒーローが、むしろ殺人者に追い込まれるシーンは、私たちに深い考えさせられます。真実を守ろうとすると、むしろ嘘つきとして追い詰められ、正義を求めたらむしろ悪人として指弾される状況...。ベットマンをはじめ、多くの映画やドラマ、小説によく登場する小ネタです。
しかし、このようなことは映画の中の話だけではありません。 私たちの周りでも似たようなことをよく見かけます。会社で不正を拒否したのに孤独になる社員、学校で不正行為をしなかったのにいじめられる学生、真実を言ったのにむしろ不利益を受ける人たち...。まるで、この世界では正しいことをすることが、時には間違っているように思われることがあります。
私たちはこのような状況を見て驚かないわけにはいきません。 なぜ正しいことをすることがこんなに難しいのでしょうか? 正直に生きることがむしろ損をするような世の中で、私たちはどう生きるべきなのでしょうか? 多くの人がこのような悩みの前で、結局妥協を選びます。 私くらい...」、「今回だけ...」、「他の人もみんなそうしているのに...」と。
しかし、イエス様はこのような状況にある人たちに対して、全く違うことを言われます。「義のために迫害される者は幸いである、天国が彼らのものだからです。」 正しいことをして、むしろ損をして孤立する人たちに向かって、「あなたがたは幸いである」と宣言されるのです。
どうしてこれが可能なのでしょうか? 正しいことをして受ける苦難が、不当な扱いを受けることが、どうして祝福になるのでしょうか?世の中から見れば明らかに不幸に見えるこの状況を、なぜイエス様は祝福と言われるのでしょうか?
今日、私たちはこの驚くべき逆説の意味を一緒に見ていきたいと思います。 そして、それを通して、私たちが生きているこの厳しい世界の中で、義롭게生きることがどのような意味を持つのか、深く考えてみたいと思います。
本論1:祝福された迫害に対処する正しい姿勢
真実と正義が迫害を伴うことを、私たちは生きていく中で感じます。 そしてその前で私たちは背を向けます。妥協します。自己合理化に陥り、正義を行わないのです。 しかし、聖書は、正義のために迫害を受ける者は「幸いである」と宣言しています。どうしてこれが可能なのでしょうか?
これを理解するためには、私たちが受けた救いをまるで囲碁の「復碁」のように振り返ってみる必要があります。囲碁の棋士たちが対局が終わった後、一手一手振り返って勝敗の原因を分析します。これを復碁(復碁)と言います。 私たちクリスチャンは、自分が受けた救いがどこからどのように始まったのか、毎日毎日復碁してみる必要があります。
囲碁における復碁は単なる回想ではありません。 それは勝敗を分けた決定的な手を探す旅であり、同時に大局の本質を理解する過程です。同様に、クリスチャンの霊的な復碁は、私たちの救いの決定的な瞬間である十字架にさかのぼる旅です。
私たちが受けた救いのその出発点はどこですか? 十字架です。私たちは何の功績もなく、どんな迫害や苦難もなく、イエス・キリストの十字架によって救われました。 しかし、今、私たちがその十字架の意味を真に理解し、キリストと連合した人生を生きようとするとき、私たちは必然的に世界との衝突を経験することになります。
本日の本文10節で注目すべき単語の一つが、ギリシャ語の「ヘネカ」(ἕνεκα)という単語です。 これは「ゆえに」あるいは「ために」という二重的な意味を持っています。私たちはキリストに「ゆえに」迫害されますが、同時に義の「ために」迫害されるのです。 これは受動的な被害者ではなく、積極的な選択の意味を内包しています。
私たちの救いの出発点である十字架事件の意味を振り返ってみましょう。 これは単なる歴史的な出来事ではありません。 私たちの救いの出発点である十字架事件は、神の義がこの世でどのような扱いを受けるかを最も劇的に示す出来事です。完全な義であるイエス・キリストがこの世であれほど善良で幸いなことをされたにもかかわらず、結局、世界から受けたのは十字架であったという事実は、義と世界がいかに根本的に衝突するかを示しています。
愛する聖徒の皆さん、私たちはこの十字架の恵みで無償で救われました。 今、私たちがその十字架の意味を深く理解し、キリストと連合された人生を生きようとする時、私たちは自発的にその十字架の道に入ることになるのです。 使徒パウロがコロサイ書で言った「キリストの残された苦難を私の肉体に満たす」とは、まさにこのような意味です。
これが、本文で言う「義のための迫害」の本質です。 これは単なる不幸や偶然の苦難ではありません。 これは、キリストの十字架を復唱し、その道に従う者が必然的に世界から受ける「による」迫害です。 キリストの「ために」受ける栄光のしるしです。
本論2:義の本質と迫害の必然性
イエス様がこの地に来られたのは、神の国の義を成し遂げるためでした。非常に昔から預言者たちが宣べ伝えた神の国の公正と正義、洗礼者ヨハネが切望していたその義を完成させるために来られたのがイエス様です。 しかし、ここで私たちは重要な事実を一つ発見します。イエス様は義を成し遂げる過程で、誰よりも強い抵抗と反対、そして迫害を受けたという点です。
これは偶然ではありません。 まるで私たちの体にワクチンを注射すると、その体にすでに広がっていたウイルスが激しく反応するように、神の義がこの世界に入ってくるとき、世界は本能的に抵抗します。 なぜでしょうか? それはなぜでしょうか?
そうです、それは世界の本質と関係があります。聖書は、私たちが本来「怒りの子」であったと言います。私たちの本性は、神の義とは正反対の方向に向かっていたということです。 ですから、神の義が入ると、それは必然的に私たちの本性と衝突するしかありません。
使徒ペテロは、このようにギリシャ人たちが世の中に住んでいる間に受ける扱いを「異様にみなされる」と表現しました。 この時、「異様にみなす」という原語は「クセニゾ」ですが、これは単純に「異様に見ること」ではなく、「よそ者扱いする」、「異邦人として扱う」という意味を含んでいます。義の人は、この世界では必然的に旅人になるしかないということです。
旧約聖書から「クセニゾ」扱いを受けてきた人たちがいました。 神様の義に対する深い渇望を持った預言者たちはいつも変人扱いされました。 数多くの奇跡を起こしたモーセも自国民から変人扱いされました。 バアルと妥協する時代の中で神の義を叫んだエリヤも変人扱いされました。
洗礼者ヨハネはこのような預言者たちの精神を受け継いだ者でした。 しかし、彼はエルサレムの神殿ではなく、荒野で叫びました。 なぜ荒野だったのでしょうか。 当時、エルサレムの神殿は宗教的な形式だけが残り、神の義は消えていたからです。 そこで彼は荒野に出て「神の義の国が近づいた」と宣言しました。 その時、驚くほど多くの人々が義のために荒野に、ヨルダン川のほとりに出てきました。
その群衆がいるところに、完全な義人の一人が来られました。 それは神の国の義です。イエス・キリストが来られました。 イエス・キリストは洗礼者ヨハネにバプテスマを受け、「このようにしてすべての義を成し遂げるのがふさわしい」(マタイ3:15)と言われました。これは、預言者たちと洗礼者ヨハネが切望していたその義をご自身が完成されるという宣言でした。
そして、イエス様はご自分に従う者たちに次のように言われます。
「義のために迫害される者は幸いです。あなたがたの前にいた預言者たちもこのように迫害されました。 天国はまさにこのような人々のものです。 ですから、喜び、喜んでください。天国であなたの報いは大きいです。」
これは単なる慰めではなく、私たちが預言者たちと同じ仲間、同じ義を求める者の系譜に入ったという宣言です。
本題3:祝福された迫害の栄光の意味
今、私たちは「祝福された迫害」がなぜ栄光であるかを理解することができます。 それは単に苦難や困難を経験することではありません。 それは預言者たちと同じ仲間入りをすることであり、キリストの義に参加することです。
ミシュラン3つ星を獲得したシェフが麺料理を作るのを見ました。 自分で麺を抜いて、味付けをします。完成したと思ったら、その上にあるキノコを挽いて振りかけます。実は、その上に振りかけているのは「トリプル」と呼ばれる「トリュフ」でした。
トリュフについて調べてみると、意外な事実が判明しました。トリュフは、見た目は土のついた石ころのようなものですが、1キログラムで10万円を超える高価な食材だったのです。 このキノコは、どんぐりの木のある地中深さ30センチから1メートルまで成長し、この木の根と共生関係を結ばなければ育たないのです。
さらに興味深いのは、このキノコの香りです。トリュフの香りは非常に独特で、初めて香りを嗅いだ人はその独特な香りに戸惑うかもしれません。 しかし、一度その味を知った人は一生その香りを忘れることができないと言われています。 特に驚くべきことは、ほんの少しだけで、料理全体に深い風味を加えるということです。
私はトリュフから教訓を得ました。 これはキリストの苦難に参加することに驚くほど似ています。黒い石のような形をしているので、私のような人は、床に落ちていても踏んだり、蹴ったり、通り過ぎたりすることができます。
正義のために迫害される者、世間の目には愚かな選択かもしれませんが、キリストとの連合の中で受ける苦難は、私たちの人生に特別な香りを加えます。世の人々は理解できず、「不思議に思う」かもしれませんが、霊的な人はこの香りの中にキリストの臨在を発見します。
まるでトリュフの一片が普通のパスタを最高の料理に変えるように、義のための迫害は私たちの人生に特別な香りを加えます。これは、単に外から振りかける香水とは違います。それは、キリストとの交わり、聖霊の臨在によって、私たちの存在そのものから放たれる香りです。
使徒パウロはこれを「キリストのために良い香り」と表現しました(2コリント2:15)。驚くべきことに、この香りは迫害の中でさらに濃くなります。 なぜなら、義のために迫害される現場にイエス・キリストご自身がおられるからです。 なぜなら、義のために迫害される現場で、私たちはイエス・キリストとの連合を経験するからです。
だから、使徒パウロは、苦難は忍耐を、忍耐は鍛錬を、鍛錬は希望を成就させると言ったのです(ローマ5:3-4)。まるで香辛料を押さえれば押さえるほど、その香りがより強くなるように、迫害は私たちの中にあるキリストの香りをより濃くします。
これが「義のために迫害される者は幸いである」という御言葉の深い意味です。 これは、私たちがキリストの義に参加している証拠であり、同時に私たちの中でキリストの香りがさらに深まる過程です。
おわりに
愛する聖徒の皆さん、義によって、そして義のために生きるなら、迫害がないはずがありません。 物理的な迫害や攻撃や妨害だけではありません。 世の中を好み、慕う私の古い自己が最も大きな迫害者になることができます。イエス様の弟子たちがエルサレムまではついて行ったが、ゴルゴダの丘には登れなかったことを考えてみてください。神様よりお金を愛する私が義の道の大きな障害になることがあります。イエス様はペテロに「あなたは私をつまずかせる者だ」と叱られました。
親愛なる聖徒の皆さん、ここに集まった私たちは皆、行くべき道があります。イエス・キリストを追いかけなければなりません。 その道は孤独な道であり、認められない道です。 しかし、偉大な預言者と使徒たちがイエス様を追いかけて行った道です。 だから、この道を行く人を預言者の仲間に入れてくださいました。 このことはどれほど栄光なことでしょうか。
忘れないでください。完全な義人であるイエス様がこの地に住んでいる間、最も大きな抵抗と迫害を受けたことを、また覚えてください。そのイエス様がその苦難と迫害を通して最も偉大な救いを成し遂げられたことを。 そして今、私たちがイエス様と連合する時、イエス様の苦難に参加する特権を得たことを信じてください。
ですから、迫害は特権であり、キリストを追いかけて道を行く者に与えられる特権です。皆さんが御言葉通りに生き、世の中から「不思議に思われる」というのは、私たちがこの世に属していないことを証明するしるしです。 しかし、これは単なるしるしを超えた特権です。
キリストによる迫害は、私たちの人生にキリストの香りを加えます。これは単なる苦難ではなく、私たちをキリストとより深く結びつける恵みの通路です。
したがって、私たちは今、迫害を恐れたり、恥ずかしがったりすることはありません。 むしろ、喜び、喜びます。 それは、私たちが預言者の仲間、神の義を求める者の栄光の系譜に立っている証拠だからです。 これこそ、神の子どもだけが享受できる特権の中の特権なのです。
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