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過去の栄光から現在の恵みへ(黙示録3:1-6)

過去の栄光から現在の恵みへ(黙示録3:1-6)

1.導入:過去の経験が継続的に影響を与える。

  ギャンブル場に行っても私はいつもお金を失うだけだ」という人は、ギャンブルに中毒になることはほとんどないでしょう。 しかし、ギャンブルで大きなお金に一度でも触れた経験がある人は、その一度の「致命的な」経験がその後も持続的な影響を及ぼします。仕事が手につかない。お給料だけでは飽き足らず、少しでもお金ができるとすぐに競馬場、競馬場、パチンコに駆け込みます。 その一度の強烈な経験が、その後のすべての行動に影響を与えるのです。 世俗的な爽快感やひそかな快楽はなおさらそうです。ひどくなると、その後の普通の生活を飲み込んでしまうほど強い影響を与えることもあります。  過去の痛みや傷、失敗を経験した人は、過去から抜け出そうと必死になります。 しかし、これも簡単なことではありません。 過去の失敗や傷が長い時間が経っても足かせになっている場合が多いです。  しかし、自ら過去の栄光に足かせをかけ、現実を直視できない人がいます。少なくない人気芸能人や、高位公務員だった人たち、または成功した企業家、さらには大教会の引退した牧師の中には、引退後も過去の栄光に囚われて生きている人がいます。  このような方々、私たちの周りには、過去の栄光にとらわれ、今日を直視できない人が案外多いのです。 日本の経済を語る時、必ずと言っていいほど「失われた30年」という言葉がありますよね。 この言葉にも、過去の栄光を取り戻したいという願望が込められていることがわかります。 そうです、過去の栄光にとらわれながら生きているのは、一個人だけでなく、国家もそうであり、教会もそうである可能性があります。 

 [サデ教会]  教会がどうしてそうなるのでしょうか?今日の本文に登場する教会、サデデ教会がまさにそうでした。チャールズというコメンテーターはサデ教会を指して「過去の栄光と現在の没落が対照的な場所」と言いました。 現在、霊的に疲弊していても、過去の栄光から抜け出せなかった教会がサデ教会でした。  


[サデ市の歴史的背景と類似したサデ教会の状態]

  サデ教会に対する主の叱責と勧めをよく理解するには、古代都市サデの歴史的背景を知る必要があります。サデは急な丘の上に位置する難攻不落の要塞であり、古代世界で最も強力な都市の一つであるリディア王国の首都でした。 近隣のパクトルス川から金が採掘され、豊かな都市であり、初めて金と銀のコインを鋳造した場所として知られています。 また、羊毛製品の生産と染色技術で有名な繊維産業都市でもありました。 サデには不足するものがありませんでした。一つ欠点があるとすれば、サデの市民は誇りが強すぎて傲慢であったことです。  その過度のプライドと傲慢さが最終的に彼らの街を滅ぼしたことを歴史が証明しています。  高さ460メートルの急な崖の上に位置する都市サデは、事実上、どんな敵も征服できないような天恵の要塞でした。 しかし、紀元前546年、当時サデの王であったクロイソスはペルシャの脅威に直面していました。 彼はアポロ神殿の巫女であるピティアに行き、自分の運命について教えてもらいました。そして、「もしあなたがハリス川を渡れば、大帝国を滅ぼすだろう」という曖昧な答えが返ってきました。 自信に満ちたクロイソスは、これを自分の勝利と解釈しました。 しかし、ペルシャとの最初の戦いで敗北した後、クロイソスはサデに退却しました。 彼は自分の要塞が安全だと確信したため、同盟軍を解散させました。この傲慢さが彼の没落を招いたのです。  ペルシャの王キルスはこのチャンスを逃さず、サデを包囲しました。 しかし、サデはまさに天恵の要塞でした。隙がないように見えました。ペルシャ軍は14日間包囲していた中、ある兵士が偶然、サデ城壁の警備員がヘルメットを落としてそれを拾うために急な崖を下りてくるのを偶然目撃します。これにより、その兵士はほとんど見えない秘密の通路を発見することになります。 そしてその夜、仲間を率いてその経路に沿って城壁を登りました。 驚いたことに、サデ人は彼らの要塞があまりにも安全であると自負していたため、その部分を全く防備していませんでした。 結局、この小さな隙間がサデ陥落の決定的なきっかけとなり、ペルシャ軍は城を占領し、クロイソス王を捕らえました。 このように、かつて難攻不落と思われていた要塞が、油断と慢心によって一夜にして崩壊してしまいました。  しかし、サデにこのようなことが起こったのは今回だけではありません。 約330年後、つまり紀元前218年、ほぼ同じような形でサデは再び主人が変わることになります。セレウコス帝国の王アンティオコスがサデを征服した時は、「ラゴラス」という兵士が15人の兵士と一緒にこの急な崖を登って城の中に侵入した後、内部からドアを開けて残りの軍隊が入るようにし、その結果、征服されることになります。難攻不落の要塞都市サデが二度も征服されたのは、いずれも「夜中に泥棒のように」岩壁を登ってきた数人の敵軍によるものでした。岩壁に斜めに開いたその隙間でも警戒を怠れば、たった数人でも強力な都市が一夜にして征服される可能性があることを示す重要な出来事です。  その後、サデは少しずつ衰退し始め、サデが位置する丘の上の都市は、増加する人口に対して規模が狭かったため、これ以上発展することができませんでした。周辺に新しい都市ができ始め、サデは次第に衰退していきました。 しかし、彼らは依然としてプライドが高く、傲慢でした。  サデが滅びそうになる決定的な出来事は、紀元17年に起こります。大地震です。 この地震によってサデはほとんど破壊されます。黙示録が記録された当時、サデの街はほぼ滅亡した都市でした。  それにもかかわらず、サデの人々はまだ過去の栄光に酔いしれており、プライドと慢心は依然として残っていました。 自分たちが滅びたという事実すら認識できないほどなら、これは深刻な病的症状と言えるのではないでしょうか。


2.サデデ教会に対するイエス様の叱責 

1) 生きていたという名前を持ちながら死んだ教会   サデデ教会は評判の良い教会として名前が知れ渡りました。 名前だけ聞いても良い教会、リバイバルする教会、立派な教会だと人々は思っていました。 しかし、イエス様が教会を見回された時、最終診断をこう下しました。 脳死状態、死んでいる教会。  マウンズという聖書学者は「サデデ教会が七つの教会の中で最も厳しい非難を受ける教会」と言いました。 なぜでしょうか? 彼らは霊的に死にかけながらも、自分たちがそのような状態であることを知らなかったからです。

2)行いから完全なものを見つけられない教会   何がサデデ教会を脳死状態に陥った教会、死んでいる教会にさせたのでしょうか。 2節後半の御言葉を見ると、「あなたの行いの完全なものを見いだせなかった」とあります。  他の教会と同じようにサデデ教会にも「行い」がありました。 しかし、彼の行いをご覧になった主は「あなたの行いにあるべき「完全さ」がない。完全なものが見当たらない」と言われます。 (ギリシャ語表現で「ウ・ヒュレカ」)  行為に完全なものがないというのは何を意味するのでしょうか? 神様のための行為ではないことがバレたということです。 イエス様の名前を掲げて、自分の名前を知らしめたのです。 つまり、自分の名声のためだけに働く教会でした。

3) 受け取ったことと聞いたことを忘れたまま熱心な教会   サデデ教会の問題は、彼ら自身も気づかなかったようです。 彼らは主のために働いていると思っていたかもしれません。 しかし、彼らは「受けたことと聞いたこと」を忘れたまま働いていました。 3節の「受けたことと聞いたこと」とは何でしょうか。 それは、恵みと御言葉です。 すでに受けた恵みを忘れ、聞いた御言葉を守らない結果、彼らの行いに完全さが現れません。  完全」というギリシャ語πεπληρωμένα(ペペレロメナ)は注目に値します。この単語の原形は「成し遂げる、達成する」という意味の動詞πληρόω(πληρόω)ですが、これを現在形、受動態、分詞、複数形で書かれています。 これがどのような意味を持つかというと、「過去の行動が現在まで継続的に影響を及ぼしていること」を意味します。  まとめると、サデデ教会は主から過去に「受けたこと、聞いたこと」を考え、守り、悔い改め、行為の完全な実を結ぶことができました。 しかし、彼らの行為は「受けたこと、聞いたこと」に基づいていなかったので、彼らの行為から主は完全なものを発見することができなかったのです。

4)イエス様より世によく似合う教会と聖徒たち彼らはイエス様を告白することでキリストの服を着ました。 しかし、彼らの熱心さと行為はイエス様から受けたことと聞いたことに基づいていなかったので、結局はその服が汚されました。 きっと彼ら自身は服がきれいだと思ったでしょう。 羊毛繊維産業が活性化したサデデ地域で服だけはきれいに着たでしょう。 しかし、霊的には彼らの「義」は変質していました。 彼らの高価な服と高級な外見は世の中と似合うものであって、主と似合うものではありませんでした。 4節で、主は「その服を汚さなかった人と一緒に行く」と言われました。  サデデ教会には叱られる人だけがいたわけではありません。 その衣服を汚さなかった者が何人かいる」と主は言われます。 衣服を汚さなかった」という言葉は、当時、羊毛繊維産業が発達していたサデデの人々には馴染みのある表現だったでしょう。  当時の古代社会で「白い色」を表現するために引用されたのが「羊毛のように白い」でした。サデ地域には白い羊毛で作った服がたくさんありましたが、その白い服を着たからといって、その人の魂まで白いとは言えません。


3.イエス様はご自分の教会と聖徒を生かすことを望んでおられます。

1)イエス様は、教会を目覚めさせ、堅固にするようにと言われます。目覚めよ!」という主の命令は、叱咤激励ではなく、死にゆく者を生かそうとする切実な声です。今、死にかけてる人たちに向かって悲痛に叫ぶ声です。目覚めよ!

2) 主だけが教会と聖徒を回復させることができます。 なぜなら、イエス様が教会を建てられた主人であり、聖霊によって教会と聖徒の内面を知り、見守って、新しくしてくださる方だからです

3) 神様の御前で完全であると認められた方はイエス様だけです。 従って、教会を完全にして神様の御前に認められるようにされる方もイエス様だけです。 イエス様が教会と聖徒に下さった恵みと御言葉が教会と聖徒を完全にするものであり、イエス・キリストご自身でもあります。 イエス様を忘れると、行為から完全さがなくなります。イエス様を忘れると、世の中に似ていきます。


4.イエス様のソリューション

1) 目覚めさせ、堅固にしなければならない理由  恵みと御言葉が教会と聖徒を目覚めさせます。主から受けて聞いた恵みと御言葉が絶えず教会と聖徒の中で生き生きと働かなければなりません。 覚醒させなければ、イエス様の再臨を審判として受けることになります。しかし、目覚めさせれば、イエス様の再臨を私の最終的な勝利として楽しむことができます。  また、受けた恵みと聞いた御言葉で人生が目覚めれば、イエス様に似ていきます。外見ではなく、心霊が似ていきます。 そうして、彼が行うことがイエス様の仕事になります。 そうすれば、神の前で行為で完全なものが発見されます。

2) 目覚めさせ、固める方法  

(1)主から受けた恵みと聞いた御言葉を毎日、今日、ここで覚えておく必要があります。  主の恵みと御言葉が過去の栄光を圧倒しなければなりません。世の中で得た過去の栄光ではなく、イエス・キリストが十字架の死と復活で得た栄光が私の真の栄光であることを知らなければなりません。 その栄光は、信仰で今からでも参加することができます。 そして享受することができます。 キリストの苦難に参加することです。

 (2)第二に、「守りなさい」と命じます。ヨハネの黙示録で「守る」という動詞は、常に主の御言葉と律法と関連しています。御言葉は守れと言われるのであって、感動しろ、感じろと言われるのではありません。 実際には、御言葉が教会と聖徒を守るのです。 皆さんが御言葉をどんどん近づけなければならない理由がここにあります。御言葉が、私たちが世に流されないように、しっかりと守ってくださるのです。

 (3)第三に、悔い改めなさいと言われます。悔い改めは、罪で汚れた魂を清めるものです。 悔い改めは、神様が許可された方法でしなければなりません。イエス・キリストの十字架の血を頼り、自分の罪を告白することです。 問題は、霊的なアーサ状態に陥った者は自分の状態を知らないということです。 肉体的な病気は痛みを伴うことが多いですが、霊的なアーサは肉体的な感覚では気づきにくいです。 しかし、みことばと聖霊は私たちの中にある罪を気づかせてくださいます。C.S.ルイスは彼の著書『純粋なキリスト教』でこのようなことを言いました。 眠っている人は自分が眠っていることを知らない。眠っている人だけが眠るということが何であるかを知っているように、邪悪な人は自分が邪悪であることを知りません。人は、善くなればなるほど、自分の中に残っている悪をよりはっきりと悟ることができますが、逆に、悪くなればなるほど、自分の悪を悟ることができません。」  受け取ったイエス様、聞いたイエス様が私たちの中で私たちを完全にしてくださるほど、私たちは私たちが眠っていたことに気づき、悪であることを知るようになります。これが、教会と魂を「目覚めさせる」ことです。


5.結論  

サデデ教会は現代の都市教会と似た点が多く、外部からの迫害や迫害はほとんどありません。 そして、今日、名前だけ聞いても分かるような評判の良い教会もたくさんあります。 評判の良い教会、果たして主も良い評価を下さるのか、今日の御言葉を通して点検しなければならないでしょう。 人々の認識と評判でその教会の良さを評価してはいけません。主の御目には脳死状態の教会、死んでいる教会かもしれないからです。  教会の実態を正確にご存知の方がイエス様であるように、教会を完全にすることができる方もイエス様しかいません。  過去の栄光、失敗から離れなければなりません。ロトの妻を見てください。過去の栄光から抜け出せなかった彼女は、救いを目の前にして審判を受けました。 これが聖書が語る審判の性質です。 身体を避けたからといって避けられるものではありません。

 私が汝矣島純福音教会で教区長をしていた時でした。 ある日、年配の女性が私が担当する教区の所属勧士だと言って訪ねてきました。勧士名簿に名前はあったのですが、連絡が取れなかった方でした。 その方は私に裕福だった自分の過去の話をしてくれました。 自身はかつて有名な特級ホテルのVIP会員として、毎日そこで運動をしたり、ホテルのレストランで食事をしながらVIP会員と付き合いながら生活していたそうです。そんなある日、夫の事業が失敗し、もはやホテルのVIP会員を維持することができなくなったそうです。 その後もその巫女さんはよく私を訪ねて来られましたが、来るたびに過去の栄光、特級ホテルのVIP会員時代の話をされました。 その方の現在は没落したにもかかわらず、まだ過去の栄光に囚われて生きていました。不思議なことに、過去の栄光、特級ホテルのVIP会員時代について話すと、首がこわばり、人をこのように見下し始めます。  この勧士さんは、お金に余裕ができると、過去のホテルに行き、食事をするそうです。 彼の宝物はそこにあるそうです。一度、私も招待されて一緒に行ったことがあります。 その方がとても幸せそうに見えました。 イエス様を信じていると言いながら、何十年も経った今でも、過去の栄光を取り戻す楽しみで生きている人が教会内にいることがあります。過去の栄光と現在の没落が対照的な実に不思議な姿でした。  聖徒の皆さん、心で過去から離れ、約束の地に入らなければなりません。 イスラエルの民は体はエジプトから出てきましたが、精神と性質は40年間そのままでした。 神様は40年間、荒野で訓練をさせました。 しかし、最初の世代は荒野で裁きを受け、死んでしまいました。  

イエスを信じたなら、新しい時代、新しい統治を受ける新しい民になったのです。 過去の栄光、世俗的な快楽と誇りから離れなければなりません。  私たちは、私たちがそこから抜け出す方法をすでに主から与えられています。 それは恵みと御言葉です。私たちはこの主日の礼拝で恵みと御言葉を受け、聞きます。 恵みと御言葉が眠った魂を目覚めさせます。私たちの中に残っている罪悪を悟らせます。  このように再臨される主を真夜中の泥棒のように出会う(審判する)教会ではなく、迎え入れる教会にならなければなりません。  毎日与えられた'現在'の生活の中で、神の恵みと主の御言葉を黙想し、それが私に守られ、私に悔い改めさせ、再臨されるイエス様と付き合う者になりましょう。

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