本文:黙示録3:14-22
I. はじめに
韓国のSBSテレビ局で2018年から2021年まで4年間、成功した外食事業家ペク・ジョンウォン氏を招いて、食堂経営で苦労している人に問題の原因と解決方法を提示してくれる「路地食堂」という番組を制作しましたが、この放送がとても興味深いです。
高校生の頃から外食事業に携わってきたペク・ジョンウォンさんは、食堂のホールで調理された料理の味を見ただけで、料理長の調理方法、食材の産地、使用する調理器具、厨房の清潔度までほぼ正確に当てました。ペク・ジョンウォンさんが依頼した食堂の社長に問題を指摘すると、戸惑った食堂の社長が言い訳や言い訳をしたり、さらには嘘をつく場合があります。このような時、ペク・ジョンウォンさんは、あなたが本当に成功したいなら、言い訳をしないで、嘘をつかないで、最初からやり直す覚悟を持てと恐る恐る叱咤激励します。
ある時、ペク・ジョンウォンさんが依頼を受けた食堂でキムチチゲを食べながら吐き出します。 その中に入っていた豚肉の臭いがひどかったからです。 食堂のおばさんはそんなはずがないと言いながら、10年間取引してきた肉屋から今朝届いた新鮮な肉だと主張します。 するとペク・ジョンウォンさんは、取引先がおばさんを騙したのだと断言します。そしてペク・ジョンウォンさんが食堂のオーナーに直接肉を食べたことがあるか尋ねると、食堂のオーナーは自分は健康上の理由で豚肉を食べないと言います。 だから取引先がおばさんを騙してきたのだとペク・ジョンウォンさんは言います。 信じられないおばさんが直接口の中に肉を入れて食べてみます。やがて感想を言いながら吐き出してしまいます。他の家族も食べてみたところ、みんなひどい臭いですぐに吐き出してしまいました。 飲食店経営とは関係ない私のような人もこの番組を面白く見ましたが、飲食店を経営している方なら、おそらく「私の話」のように真剣に聞くことでしょう。
私はヨハネの黙示録の2、3章を黙想しながら、「路地裏食堂」のテレビ番組がヨハネの黙示録をパロディ化したものだと思いました。 イエス・キリストが親身になってあなたの教会を訪問し、彼らの行いを一つ一つ見ておられます。ラオデヤ教会は口の中に入れて味見までしてくださいます。主の炎のような目と口の区別をごまかすことはできません。
時にはイエス様が彼らの問題を指摘し、厳しく叱責されます。 しかし、主の叱責は彼らを破滅させる目的ではなく、立ち直らせるためです。今日の本文19節にもあるように、「愛しているから叱る」のです。
今日私たちが見ていく「ラオディケヤ教会」は、たとえ主から褒め言葉は一言も聞かず、叱責ばかりを受けましたが、だからといってラオディケヤ教会は主の教会でないわけではありません。
聖徒の皆さん、黙示録2章と3章がまさに教会と聖徒のためのソリューションプログラムです。主が問題の原因を把握し、解決策を与えてくださいます。今日の現代教会にもまだ有効なソリューションの御言葉、生存のための御言葉なのです。
II.本文
1.ラオディケアの背景
ラオディケヤはビラデルビアの南東64km、西のエペソまでは約160km離れていました。ラオデヤは東西と南北を貫通する二つの主要道路の交差点に位置していたため、商業と金融が発達し、富裕層が多く住む都市でした。
ラオディケイア地域は、柔らかく光沢のある安価な黒い羊毛を大量に生産するなど、衣類産業が発達し、4種類の衣類を世界に輸出しました。 特に、袖が短く膝まで下がるトリミタと呼ばれるチュニックで有名で、451年のカルケドン会議では、ラオディケイアを「トリミタリア」という愛称で呼ばれるほどでした。
また、ラオディケイアには医学部があり、医学が非常に発達した都市であり、「ラオディケイアン」というナードの香油から抽出した耳の病気の軟膏と「ブルギアン」という錠剤を細かく砕いて目に塗る目薬が有名でした。
しかし、ラオディケアの致命的な弱点があったのですが、それは水の供給源がないことでした(水の供給源であるイエス様が門の外に立って待っておられました)。そのため、南に10km離れたデニズリというところから直径90cmほどの送水管を通して水を供給しましたが、この水はラオディケイアまで来る過程でぬるくなり、嘔吐を起こすほどでした。 それに比べて、すぐ隣の都市ゴロサエでは健康に良い冷たい水が噴出し、ヒエラポリスでは薬用に使われる熱い水が噴出しました。
2.イエス様の三つの描写
この地域に主の教会がありました。 しかし、世間の風潮に影響を受けやすく、世間に似てきていました。 そして、霊的な無知と貧困に陥っていた教会がラオデヤ教会です。 その教会にソリューショニスト(Solutionist)であり、Problem Solverであるイエス様が来られます。このイエス様はどのような方として紹介されていますか?
'アーメンです。忠実であり、真の証人である。神の創造の根源である方
1) イエス様はアーメンである方
コリント人への手紙1章20節を見ると、"神の約束はいくらでもキリストの中で実例となり、それゆえ、それによって私たちはアーメンとなり、神に栄光を捧げることができるのです。」
イエス様が「アーメンである方」というのは、神の約束がまだイエス様の中だけで成就されることを言います。イエス・キリストを離れて、イエス・キリストを離れては、神の約束が「アーメン」、「イエス」とならないという事実を覚えておくべきです。 ラオデヤ教会は愚かにも「アーメン」であるイエスを教会の外に立てました。 これは「イエス」がなくても自分たちの能力で健全な教会になれるという大きな錯覚に陥っていることを示しています。
2) 忠実で真の証人であるイエス様
イエス様が「忠実で真の証人」であるため、イエス様の教会と聖徒も忠実で真の証人でなければなりません。 イエス様はご自身を証しされました。 これはどういうことかというと、イエス様は聖父と聖霊と同じ神であるため、「わたしを見た者は父を見た」と言われ、「わたしが言うことは自分でするのではなく、父がわたしの中におられ、父の御業をなさるからです」(ヨハネ14:10)と言われました。 つまり、イエス様は言葉と生活でご自身が神であることを証しされました。 このように、教会も自分の中におられるイエス様を証ししなければなりません。ラオデヤ教会はイエス様を自分の中ではなく外に立ててイエス様を証ししようとしたので、力が現れるはずがないのです。
3) 神様の創造の根本であるイエス様
また、イエス様は「神の創造の根本である方」です。コロサイ書1:16-17によると、万物はイエス・キリストから創造され、万物はイエス・キリストのために創造され、万物はイエス・キリストの中に一緒に建てられたと言います。黙示録の結末は、イエス・キリストの再臨による新しい創造です。イエス様の再臨の時、新しい天、新しい地が訪れます。 その時、イエス・キリストを信じる信仰の中に生きる者は、新しい天、新しい地、新しい創造の中で新たに発見されるでしょう。 しかし、イエス様を否定し、信じない者は、決して新しい天、新しい地では見られないでしょう。
このようなイエス様が教会を愛しておられます。教会がイエス様をお迎えし、自分の中におられるイエス様を証しすれば、多くの魂がイエス・キリストの新しい創造に入るでしょう。 まさにイエス様の'アーメン'に参加することになるのです。
3.イエス様の叱責とソリューション
それでは、ラオデヤ教会に対するイエス様の叱責を見てみましょう。
1) イエス様の叱責は大きく二つです。
(1)まず、ぬるま湯のような信仰を叱責されました。
イエス様がラオデヤ教会に向かって「熱くもなく、冷たくもない」という表現をなんと3回も使っておられます。聖書で同じ表現が3回繰り返されて使われたということは、非常に重要なことです。イエス様が教会の問題をめぐって3回も同じ言葉で叱責されたなら、これは本当に深刻な問題として受け止めなければなりません。
19節を見ると、イエス様は明らかに「熱い熱心」を望んでおられます。 しかし、ラオデヤ教会は熱いわけでもなく、かといって冷たいわけでもなく、ぬるい状態だと言われています。 主はこれが嫌で吐き気がすると言われました。
実際、霊的に最も危険な状態は、ぬるま湯の状態です。信仰に「グレーゾーン」はありません。 神を全面的に受け入れるか、拒否するかのどちらかです。
実存主義哲学者であり、神学者であるケルケゴールは「死に至る病」という本で、人間の絶望状態を3つのタイプに分けています。
第一に、自分が存在することを知らない絶望、
第二に、自分自身になろうとしない絶望、
第三に、自分自身になろうとする絶望。
このうち、2番目のタイプである「自分自身になろうとしない絶望」に陥っている人の状態は、「自分の本当の本質や可能性を認識しない、または無視している状態」です。 この状態の人々は、自分の人生について深く考えず、表面的なレベルでのみ生きています。 彼らは自分の本当の自己を発見し、実現するために必要な努力やリスクを避けようとします。 その結果、彼らは真の成長や変化を経験することができず、精神的にも実存的にも停滞した状態に留まることになるとキェルケゴールは言います。
霊的な次元で考えてみると、霊的な停滞に陥ったが、自己満足に陥って慢性化し、自ら抜け出そうとする意欲自体を失った状態が、まさにラオディケーア教会の状態だと言えます。
イエス様は愛の化身です。私たちを愛するために自分の命さえも犠牲のいけにえとして捧げられた方です。愛の化身が教会の中に、そして聖徒の中にあれば、ぬるま湯はあり得ません。 イエス様を門の外に置いておく限り、ぬるま湯から逃れることはできません。
(2)第二に、イエス様は霊的貧困に対する無知を叱責されました。
主がサマナ教会に対しては、「お前は貧しいが、実は豊かな者だ」と言われました。 一方、ラオディケヤ教会は自分たちは「豊かで豊かで、不足することがない」と言いますが、主は「お前は霊的に惨めで、哀れで、貧しく、目が見えなくなり、裸で恥を晒している」と言われました。この地に主の御国が来ると、逆の現象が起こるということです。 サマナ教会は豊かな教会として現れ、ラオデヤ教会は最も貧しい教会として現われるでしょう。
霊的な無知の深刻さは、まさに自分が無知であることを知らないという点です。 この点で、霊的な無知は自己欺瞞です。霊的な無知は霊的な貧困につながります。
1980年代の日本は世界経済を席巻していました。 だから日本列島は「私たちは豊かだ!私たちは豊かだ!私たちは豊かだ!私たちは豊かだ!私たちに足りないものはない!」と思っていました。 しかし、今の姿を見てください。 失われた30年」と言われています。何を失ったというのでしょうか? あの時、手に握りしめて振ったその「豊かさ」を失いました。満足感を失いました。 今も、いつかは失うものを手に持って、「私は豊かだから豊かで不足がない」と言う人は、いつか恥をかくことになるでしょう。
ラオデヤ教会は、霊的な貧困に陥っているのに、自己欺瞞に陥って「私は豊かで豊かだ」と言う貧しい状態、貧しい心霊なのです。 物質的な貧困よりもっと危険な状態は、霊的な貧困に陥ることです。
愛する聖徒の皆さん、皆さんの魂の温度はどうですか? 長い間、ぬるま湯の状態ではありませんか? また、霊的貧困に陥っているのに気づいていないのではありませんか?
2) イエス様のソリューション
それでは、ラオデヤ教会に対するイエス様のお勧めの言葉とソリューションを見てみましょう。
(1) '買いなさい'
霊的貧困に陥っているラオデヤ教会に与えられた処方箋は買い物リストです。18節を見ると、彼らが霊的貧困から抜け出すために購入すべきものが書かれています。霊的貧困から抜け出すために「買うべきもの」は3つです。
1)第一に、火で鍛えられた金です。 火で鍛えられた金」があれば、霊的な貧困から抜け出すことができると言われています。 ところで、「火で鍛えられた金」とは何でしょうか。 火で鍛えられた金」とは、信仰の患難と迫害に直面して忍耐する信仰を指します。 ラオデヤ教会の「ぬるま湯」の原因は、患難と迫害に目を背けていたことです。
正義のヨブは、今日で言うところの大富豪でした。 ところが、ある日、神様の試練ですべての財産はもちろん、家族まで失う貧しい乞食になります。 しかし、ヨブはこう告白しました。 私はようやく純金になっていくのだ」。決して簡単な告白ではありません。 しかし、このようなヨブの告白を実際に成就された方がいます。それはイエス・キリストです。イエス様は、すべての患難と迫害と死を乗り越えて「純金」になられた方です。 そのイエス様が「私に火で練り上げた金を買え」と言われます。これは金塊を所有しろということではなく、イエス様のようにあなた自身が純金になれということです。真の金持ちは純金をたくさん所有している人ではなく、自分自身が純金のような人です。
2) 第二に、白い服を買えと言われました。 先ほどサデデ教会は、彼らが着ていた服を汚したので、主から叱責を受けました。 しかし、なんと、ラオディエゴ教会は失われました。世間の誇りに酔ったラオディエゴ教会は、自分たちが裸であることを知りませんでした。今日、世の中の人々は有名なメーカー、ブランドの服と靴は履いていますが、霊的には裸です。主は霊的な裸を隠すことができる白い服を「私から捨てなさい」と言われます。最後の日、神の前に裸のまま立ってはいけません。イエス様の義で服を着てください。
3) 第三に、目薬を買って目に塗るようにと言われます。今日では、白内障、緑内障、老眼が来ても、医学が発達して良くなることができます。 しかし、「目が見えない」ことは治すことができません。 ラオディケアの有名な目薬も、視力が良くない人には効果があるかもしれませんが、「すでに目が見えない人」には効果がありません。
ほくろは視力が退化したと言われています。 だから、ほくろは地中に巣穴を掘って生きています。 罪人も同様です。 罪の中に生まれた人間は、霊的な視力を失ったまま生まれてきます。 だから、暗い世界の中だけで生きています。ほとんどの人が生まれてから死ぬまで、自分たちに霊的な目があったという事実すら知りません。 霊的な目隠し」の状態で生まれたので、霊的に圧迫される豊かさと豊かさを知らず、霊的な貧困に陥るしかありません。
神様の創造の根本であるイエス様が、霊的な目が見えるようにする目薬をご自分からサガと言われます。これは、イエス様だけが私たちの霊的な目を開かせることができるということです。
* 「私から去れ」に込められた意味:タダではありません。
イエス様が「私から去れ」と言われ、3つのことを言われました。 霊的な豊かさを与えることができる火で練り上げた金と、永遠に罪の恥を覆う衣服と、霊的な目を開かせることができる目薬。これらはイエス様からしか手に入れることができないものです。
では、いくら払えば、主から金と衣服と目薬を買うことができるのでしょうか?果たして私にそれだけの価値を支払う能力があるのでしょうか?
イザヤ書55:1を見てみましょう。 「ああ、あなたがたのすべての喉が渇いた者よ、水に来なさい、お金のない者も来なさい、あなたがたは来て買って食べなさい、お金もなく、値段もなく来て、ワインと乳を買いなさい」と言われます。
言葉の前後が合わないようです。 買って食べなさい、お金なしで、値段なしで来て買って食べなさい」。論理的な矛盾が発生するようです。 しかし、この言葉が意味を持つようにする方法が一つあります。それは、私たちが無価値で食べている間、誰かがその代価を払ってくれるということです。 はい、そうです。 無価値で買え」という言葉は、神様が私たちのためにその代価を払ってくださったという意味です。 では、神様は何で代価を払ってくださったのでしょうか?
- ローマ人への手紙3:24-25 キリスト・イエスのうちにある代価によって、神の恵みによって無償で義とされる者となったのです。このイエスを、神がその血によって、信仰による和解のいけにえとして立てたのです。
たった一人の独り子を代価として払われたのです。
そうだ。タダではない
ここまで来ると、「じゃあ、わざわざ「サラ」、「買え」なんて言う必要はないでしょう」と言われる方がいるかもしれません。キリスト教の信仰が最も大きく誤解されるのがこれです。 イエスを信じさえすれば、すべての罪が赦されて天国に入るのか? そんなに簡単に? それなら、一生勝手に罪を犯しながら生きて、死ぬ直前に悔い改めれば天国に行かなければならない」。これはキリスト教の救いを安っぽく扱う態度です。どうですか、皆さんの心にこれと同じような考えはありませんか?
救いは決して安っぽいものではありません。 そもそも人間の努力や意志では得られないのが救いです。旧約聖書の39冊の本がずっとそれを確認させてくれたのではないでしょうか。 神様だけが私たちを救われるしかないので、神様であるイエス様が人となって、私たちに代わって血を流して死んで代価を払ってくださったこと。
神の御子が支払われたのです。 決してタダではありません。 安っぽいものではありません。 これを信じなさい。 そうすれば、あなたは無償で救いを得ることができます。これがキリスト教の福音ではないでしょうか。
私たちが無償で救われたからといって、タダではないという事実を決して忘れてはなりません。
III.結論
最後に、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの有名な童話「裸の王様」の話は、ほとんどの方がよくご存知だと思いますが、私が簡単に紹介させていただきます。
昔々、とても虚栄心の強い王様がいました。 彼は自分の外見や服装に過度に気を使っていて、毎日新しい服を着たいと考えていました。 ある日、二人の詐欺師が王国に現れ、彼らは特別な布で服を作ることができると主張しました。 この布はとても美しく、特に愚かな人や無能な人には見えないと言いました。
王様は彼らの言葉に興味を持ち、二人の詐欺師にたくさんのお金と資源を与え、その生地を作らせました。 詐欺師たちは実際には何も作らず、空白の空間で縫うふりをして時間を過ごしました。 彼らは王様に「見てください、なんて美しい服でしょう!」と言いましたが、王様には何も見えませんでした。 しかし、自分が愚かで無能であることを恐れた王様は、「ああ、とても素敵ですね!」と答えました。
結局、王様は彼らが作った「服」を着て盛大な行進に出かけました。 人々は皆、王様の服を褒めましたが、実は王様は何も着ていませんでした。 その時、一人の小さな子供が「王様は裸だ!」と叫びました。 この言葉が広まった時、人々はようやく真実に気づき、王様は自分の虚栄心と欺瞞を恥ずかしく思いました。
私はこの寓話が人間の現実をとてもよく反映していると思います。 今日、ただ高級品のロゴをTシャツの胸にプリントしただけなのに、バッグに貼っただけなのに、「高級品」といって数十倍から数百倍の値段を支払って購入します。 そして、「私は金持ちだ。私は豊かだ。私は不足がない」と言います。人間は人間の虚栄心が作った無駄な価値観を持って、「私は金持ちだ。私は豊かだ。私は不足がない」と自己欺瞞に陥っています。
幼い子供の叫びにも王様が恥をかかれたなら、私たちの主が雲に乗って来られる日に、主が「誰でも裸だ!」と叫ばれたら、どれほど大きな恥でしょうか。 その日、恥をかかされたくないなら、今からでも自分の霊的な貧しさを主に告白し、ドアを開けて受け入れてください。主よ、私は実は乞食です。私を豊かにしてくださるのは主のみです」と告白してください。主よ、あなたは火で鍛えられた金です。義の衣であります。霊的な目を開いてくださる目薬のようなイエス様を信仰で無償で買ってください。
ラオデヤ教会は、イエス様を門の外に立てました。 それでいて、自分たちは豊かであると自負していました。しかし、彼らは霊的な停滞に深く陥り、霊的に疲弊し、貧しく、哀れで、盲目で、裸になりました。ラオデヤ教会に対するイエス様の熱い心を持ったイエス様が言われます。
20節、「見よ、わたしがドアの外に立ってたたきつけるので、だれでもわたしの声を聞いてドアを開ければ、わたしは彼に入り、彼と一緒に食べ、彼はわたしと一緒に食べる」。
熱い愛の化身であるイエス様を心の扉を開いてお迎えしましょう。 彼がいなければ、私たちの魂は決して熱くなることはできません。 火で鍛えられた金であります。義の衣であります。霊的な目を癒してくださる目薬のようなイエス様を無償でお迎えしてください。イエス様が私たちの中におられる時、ぬるま湯のような人生が熱く熱くなります。イエス様が私たちの中におられる時、私たちの口からは「私に不足はありません」という告白が出るでしょう。
今日は聖餐主日です。 この聖餐は、イエス様が私と皆さんのために親身になって下さったご褒美です。 このご褒美は、人類史上最も貴重なご褒美です。私たちは無償でこの恵みの晩餐に参加します。 しかし、この晩餐はタダではないことを覚えておいてください。信仰で聖餐に参加し、イエス様を食べないで、イエス様をあなたの骨となり、肉となるようにしてください。イエス様の心を食べ、イエス様の人格を表してください。アーメン。
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