神様が喜ばれる断食(イザヤ書58:1~12)
私は先週の日曜日、聖徒の皆さんに四旬節期間中、リレー断食祈祷に参加するようお願いしました。 そして先週の水曜日、当教会の2024年度四旬節リレー断食祈祷がスタートしました。
教会に出席して間もない方の中には、「四旬節とは何なのか、断食祈祷とは一体何なのか」と疑問に思われる方もいらっしゃると思います。
私は今日の御言葉を通して、今回の四旬節のリレー断食祈祷会が皆さんにとって驚くべき霊的な利益になることを願っています。 また、同じように一食を断食しても、他の人より霊性が深まり、さらに霊的な成長をしたいという聖なる願望を持つようになることを祈っています。
四旬節は冷水をかけることです。
韓国語に「冷水をかける」という慣用句があります。うまくいっていることに飛び込んで雰囲気を台無しにするという意味です。
冷水をかけるという言葉は、本来は「くっついた」子犬を引き離すために使われる方法を指すものです。 くっつく」とは、動物が交尾するときに、雄と雌がくっつくことを指します。いわゆる'血統のある'犬が'種も知らない'他人の犬と付き合った時、その子犬を殺すことを心配して、飼い主が冷たい水をかけて離すことから出た言葉です。
神の光の子である聖徒が世の中を生きていく中で、知らず知らずのうちにどんどん世の中と付き合い、世の中に同化されがちです。 その都度、ゴルゴダの丘、私のために十字架につけられたイエス様を見つめること、「冷たい水をかけること」です。 そうして親密になった世の中と距離を置くことです。
マタイによる福音書16章を見ると、イエス様が弟子たちに重大な発表をされます。初めて弟子たちに、自分がエルサレムに上り、苦難を受け、殺されることを明かします。この時、ペテロがイエス様を捕まえて「なぜ冷たい水をかけるのか」とイエス様を叱ります。 おそらくペテロはこう思ったのでしょう。
"イエス様、今の雰囲気はどれほど良いですか。 今と同じように、イエス様は病人を癒し続け、悪魔を追い出し、五つの麦のパンと二匹の魚で五千人を食べてください。 そうすれば、あなたに従う人はますます増えるでしょう。 苦難だの、十字架だの、このような話は止めておきましょう。"
それまで弟子たちは、イエス様がこの地に来られた本当の目的を知らなかったのです。 イエス様がこの地に来られた目的は、病人の病気を治すことよりも、その病気の根源である罪の問題を解決することです。 イエス様は悪魔を追い出すだけでなく、悪魔が足がつかないように人の罪を洗い流すために来られたのです。
多くの企業が会社のロビーや本社に行くと、その会社の最初の商品を展示している場合があります。これは、会社の歴史と発展過程を示す一つの方法であるだけでなく、会社のルーツやアイデアを鑑賞することができます。
四旬節は、私と皆さんが受けた救いのルーツと過程を振り返ることができる機会です。 私たちが享受している霊的な恵みの川筋がどこから流れてきたのかを考える時間であり、私たちの家庭と夫婦と子供たちと日常のすべてのものが神様の中で神聖な祝福として享受できるようになったその救いの出来事の現場、十字架に向かうことが四旬節の目的なのです。
四旬節が正式に定められたのは、西暦325年のニケア公会議です。 そのため、四旬節は堕落した中世ローマ教会の時に作られたものではありません。 四旬節はニケア公会議以前から伝統があったため、初代教会の時から守ってきたものと言えます。
四旬節の基準はイースター、つまりイースターまでの40日間を計算したのが四旬節です。ただし、主日は「小イースター」であるため、この期間のうち6回の主日を除外して計算します。
古代教会では、四旬節期間中、聖徒たちはそれぞれ3つの目的を持って四旬節を過ごしました。
一つ目は、予備聖徒の四旬節です。ここで予備聖徒とは、復活祭にバプテスマを受けるために待っている人たちで、予備聖徒はバプテスマを受けるために40日間、聖書を学んだり、バプテスマ問答のための神経を学びました。私たちの教会にも予備聖徒がいます。今年バプテスマを受ける方は、この四旬節が神様をより深く知る時間になることを願っています。
第二に、大きな罪を悔い改める聖徒たちの四旬節です。ここで大きな罪とは、殺人罪、姦淫罪、偶像崇拝罪などを指します。古代教会で大きな罪を犯した人は公的に自分の罪を告白しなければなりませんでした。 その人の罪を教会で公的に知らせ、公的に罪を洗う期間を四旬節の間持ったのです。 現在のフランス地域であるガリア教会では、アダムとエデンの園から追い出されるように、四旬節が始まる日(灰の水曜日)に告白者たちを礼拝堂から追い出すシーンを演出しました。 この時、告白者たちは告白服を着て灰を受け、礼拝堂から追い出されます。
これが公的な告解制度でしたが、その後、この制度は私的な告解制度に変わり、今日のローマカトリックの中で「告白」となり、灰を撒く儀式はすべての聖人が受ける儀式に変わりました。男性聖徒には頭に灰を振りかけ、女性聖徒には額に灰で十字架を描いてもらいます。告解者たちの告解が灰の水曜日に始まり、四旬節の最後の週である木曜日に公的に罪が洗い流されたことを告げられるようになりました。
最後に3つ目、一般聖徒の四旬節です。予備洗礼者でなくても、大きな罪を犯した者でなくても、一般信徒は四旬節を迎え、イエス・キリストと御言葉を深く黙想しながら、予備洗礼者と告白者たちを助けました。 そして、自分の弱さと罪も告白しながら、主の恵みを請う期間としました。
皆さんもこの三つのうち一つ以上の目標を立てて、有意義な四旬節を過ごしてください。
神様が喜ばれる断食
それでは、四旬節を誰よりも主と親密に過ごすことができる方法についてお話しします。 それは、主が喜ばれる断食に参加することです。
伝統的に四旬節の期間中は、聖徒たちが断食をしました。 もちろん、40日間すべて断食をしたわけではありません。 325年のニケア公会議まで、少なくとも2日間は断食をしたようです。ほとんどの聖徒が今回の四旬節期間中に断食をすることになるでしょう。
では、なぜ断食祈りをするのでしょうか?まず、皆さんにお聞きします。 いつ、そしてなぜ断食祈りをするのでしょうか。 飲食を全廃しながらまで祈りに没頭するということは、それだけ非常事態であるか、切実さを示しています。聖書を見ると、エステルがそうでした。 彼女は同族のユダヤ人が滅ぼされる非常事態にアハシュエロ王に向かうために断食をしました。
では、断食祈祷は非常時にのみ神様に答えを得るための属性祈祷コースなのでしょうか? 自分の切実な願いを叶えたいという切実さを持って神様に群がるように祈ることが断食祈祷の唯一の目的として知っている方がいます。
まるで幼い子供が親に生餌を使う時に「私の言うことを聞かないとご飯を食べないよ!」と言うように、神様に断食闘争することを断食祈祷と考える方もいます。 だから断食祈祷期間中、祈りはせず、ただ飢えることだけをする方がいます。
もちろん、私はこのような祈りでも神様が知らないでなさることはないと思います。 もし、新信者がこのように生を捧げながら断食祈りをするなら、神様は可愛がってくださるかもしれません。 しかし、数年間、あるいはそれ以上の年数の間、信仰生活をしてきた聖徒であれば、少なくとも「神様が喜ばれる断食」が何であるかを知って断食祈りをするべきでしょう。 単なる飢餓の時間ではなく、たった一食の断食でも神様を喜ばせる時間であることを願っています。
そこで今日はイザヤ書58章1節から12節の御言葉を根拠に、神様が喜ばれる断食が何なのかをお話ししたいと思います。
1.神様が嫌う断食
今日の本文はまず、神様が嫌う断食が何であるかを教えてくれることで、私たちの信仰の真正性を問いかけます。
1)神様は聖徒の祈りと生活が一致しないことを嫌います。
祈りは神様の御心を求めるものです。 では、断食祈りは何でしょうか? 断食しながら神様の御心を切実に求める祈りです。
神様の御心を求めるために断食までするなら、神様の御心通りに生きる覚悟が必要でしょう。 飲食を全廃しながらまで神様の御心を求める断食祈りは、事実上、自分の意志を殺す祈りです。 なぜなら、神様の御心と常に対立するのは、自分の意志に他ならないからです。 自分の意志、自分の頑固な意志を曲げずに神様の御心を求めることはできません。
では、神様の立場に立って考えてみましょう。神様が自分の意志を知らせても、どうせ従わない人に応答してあげたいと思いますか。 応答を受けても、自分の望む意志と合わなければ、背を向けて従わない人に、神様が応答してあげたいと思いますか。
(すでに知っている主の御心から従うこと)
主日礼拝に出席した皆さんは、すでに神の御心をよく知っています。毎週神様の御言葉を聞いているからです。 聖書を読んで学んでいるからです。 つまり、神様の御旨を全く知らない人たちではないということです。 しかし、たまに見ると、祈るたびに神様の御旨を全く知らないように祈る人たちのようです。
イザヤ書58章2節は新改訳や共同訳で読むと本来のニュアンスを知ることができます。
イザヤ58:2 彼らはまるで正義を行い、神の掟を破らない民族のように、日々私を探し、私の道を知ることを好む。彼らは、何が公正な判断なのかを私に尋ね、神に近づくことを喜ぶという。"とあります。
神様が嫌う断食祈りとは、まさにこのようなものです。 今現在、神様の御心通りに生きていないのに、神様の御心を求める人の断食祈りです。
2)神様と隣人に対してそれぞれ違う態度を嫌われます。
神様には満面の笑みを浮かべながら、周りの人にはいつも眉をひそめて神経質に接する人の断食祈りを神様は嫌われます。断食しながら他の人と喧嘩をしたり、喧嘩をしたり、暴力を振るう人の祈りは神様に届きません。
また、自分は安息日に礼拝を捧げるために教会に来ているのに、他人にはいろいろな仕事をさせて自分は少しも損をしないように外食する人の祈りを嫌われます。
私たちが最も誤解している聖書箇所が6節ですが、ここで出てくる「凶悪の束縛を解き放ち、ヨークの糸を引き、抑圧された者を自由にし、すべてのヨークを打ち砕くこと」、この言葉は、神様が私たちにそうしてくださるという意味ではなく、断食して祈る皆さんが自分の隣人にそうしてあげなければならないという意味です。
ですから、7節の御言葉に、飢えた者に私たちの糧を分け与え、家のない者を家に迎え入れ、裸の者を見かけたら着せ、親族を知らないふりをしないことが、神が喜ばれる断食であると言われています。
重要な霊的な原則
ここで私たちが気づく重要な原則が一つあります。それは、皆さんが隣人に接するその態度が、神様にも当てはまるということです。
これは、イエス様が「ここの私の兄弟の中で最も小さい者の一人にしたことが、すなわち私にしたことである」と自ら言われたのと同じことです(マタイ25:40, 45)。
この原則が神様に祈る時にも適用されているので、どれほど重要な信仰の原則でしょうか。 神様に悔い改めの祈りをしながら、他の人を許さないなら、それは神様に忌み嫌われる祈りです。あなたが神様に求める祈りをしながら、他の人の簡単で小さな要求を聞く心を閉ざしてしまったら、神様もあなたの祈りに耳を閉ざしてしまうでしょう。
箴言21:13 耳を閉ざし、貧しい者の叫び声を聞かないなら、自分が叫んでも聞く者がいないでしょう。
イエス様は十戒を2つの戒めに圧縮され、神様への愛と隣人への愛は「同じもの」だと言われました。
マタイ 22:37-40 (NKRV)
37 イエスは言われた、「あなたの心を尽くし、あなたの命を尽くし、あなたの意志を尽くして、あなたの神を愛しなさい。
38 これは大いなる戒めであり、第一の戒めである。
39 第二の戒めは、「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」である。
40 この二つの戒めは、すべての律法と預言者の命令である。
皆さんが神様をどのように考えているか、どのように接するか、その真正性を知ることができる方法がありますが、それは皆さんが隣人に接する態度や姿勢を見れば分かるということです。 これは逆に成立します。あなたが神様に接する態度が、すでに人に接する態度を決定します。
ダビデを見れば分かります。 彼は普段から神を愛していました。 そして、彼は自分の人々を愛していました。 しかし、神を遠ざけた時、彼は罪を犯しました。 姦淫の罪を犯したのに、その罪を隠蔽するために、バセバの夫であり、忠実な将校であるウリヤを四肢を切断して死に至らしめたのです。 神様に接する態度が、すでに人に接する態度を決定します。
神を喜ばせる断食は、隣人を喜ばせます。
神様を喜ばせる断食は、あなたの隣人を喜ばせます。
ある聖徒の子供は、自分の母親が断食祈りをする時が一番嫌だと言います。 なぜなら、母親が断食をする時は、あまりにも敏感になり、「お母さんは断食中だから、ご飯は君たちが勝手に作って食べなさい」と言うからです。 私は断食中だから敏感なんだ」と今日の聖書を読んでみると分かります。これは神様が最も嫌う断食です。
つまり、神様が喜ばれる断食は、徹底的に兄弟愛が伴う祈りです。 ですから、私たちの教会の四旬節リレー断食祈祷会の期間は、どの時よりも兄弟愛が最も強く現れる期間でなければなりません。 それが神様が喜ばれる断食です。
もし皆さんが一食の断食をしたら、その一食に相当する金額を神様と隣人のために使ってみてください。神様は本当に喜ばれることでしょう。
神様を喜ばせる断食をすれば、神様は皆さんに驚くべき祝福を与えてくださいます(8-12節)。
その祝福は私たち自身よりも大きな祝福です。8節から12節までの内容を読んでみましょう。
イザヤ書 58:8-12 (NKRV)
8.そうすれば、あなたの光は夜明けのように輝き、あなたの癒しは急速であり、あなたの正義があなたの前に行われ、主の栄光があなたの後ろを護衛する。
9.あなたが呼ぶとき、わたしエホバは答え、あなたが叫ぶとき、わたしはここにいると言うであろう。もしあなたがあなたがたの中からヨークと指さし、虚しい言葉を取り除き、捨てて
10.飢えた者にあなたの心を動かし、苦しむ者の心を満足させれば、あなたの光が暗闇の中から現れ、あなたの闇が昼のようになる。
11.主がいつもあなたを導き、枯れたところでもあなたの魂を満足させ、あなたの骨を丈夫にするであろう、あなたは水を含んだ園のようになり、水が途切れない泉のようになる。
12.あなたから生まれる者たちは、長い間荒廃した場所を再び建て、あなたは、歴代の破壊された基礎を築き、あなたは、崩れたところを補修する者と呼ばれ、道を縮めて住む場所にする者と呼ばれるでしょう。
12節を見ると、さらに、あなたの不信心者の家族や隣人があなたの断食祈りを喜ぶようになります。 そして、あなたを指して、「割れた壁を直す人、道を直して人々が住めるようにする王のような人!」(12節)と言うでしょう。皆さんが神様に喜ばれる断食をする時、世の人々が皆さんによって神様に出る道ができるのです。
それでは、お話を終わります。
この四旬節が、これまで世の中に近づきすぎた私たちに冷や水をかけるようなものになることを願っています。そして、神様にもっと近づく四旬節になることを願っています。 また、リレー断食祈祷がまず、神様に喜ばれる断食になることを願っています。それで私の頑固な意志を打ち砕き、私の意志と計画を捨てて、すでに私が知っている神の御心に従順することで神の善い導きを受けてください。
そして、神様に対する皆さんの真正性が、皆さんが隣人に接する態度や姿勢から現れることを忘れないでください。神様を愛するなら、身近な兄弟姉妹から愛してください。そうすることで、神様を喜ばせてください。そうすれば、神様は皆さんを水で満たされた園のように作ってくださるでしょう。 そして、人々は皆さんを「割れた壁を直す人! 道を直し、人々を集める人!」と賞賛するでしょう。 神様がこのように、四旬節リレー断食祈祷に参加する皆さんに大きな恵みを与えてくださることを主の御名によって祝福します。
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