イエス様がローマに行かれる(使徒言行録28:11-15)
メリデが福音を受け入れた証拠
パウロはメリデ島で最も高い人であるボブリオの招待を受け、三日間待遇を受けることになりました。 この時、パウロはボブリオの熱病と赤痢にかかり、苦しんでいる父親のために祈ってあげました。ボブリオの父が癒されると、その知らせを聞いたメリデ島にいる他の病人たちもパウロを訪ねてきて癒されました。
では、メリデの人々はイエス・キリストの福音を信じて受け入れたのでしょうか。
これについては先週も少し触れたことがありますが、一部の注釈者は、パウロがメリデで福音を伝えたという内容がないので、メリデの人々は福音を聞かなかったのではないかと推測します。本当にそうでしょうか?
使徒言行録という大きな森を見ながらメリデという木を見ると、彼らが福音を聞いて受け入れたという情況が捉えられます。10節を見ると、
使徒言行録28:10 寛大な例で私たちをもてなし、出発するときに私たちが使うものを船に積んでくれた。
パウロの祈りのおかげで癒され、癒された後、寛大なもてなしをしたのは至極当然の行動と思われます。 しかし、私はこの箇所をメリデの人々が福音を聞いたという根拠節として提示します。
'寛大な例として扱った'という言葉を原語通りに直訳すると、'私たちに多くの代価を払って敬意を表した'という意味です。 つまり、何かの対価として敬意を表したのです。 先ほどメリデの原住民が遭難した人々を'特別な同情'、つまり'人間愛'で助けたのとは違うのです。 彼らはパウロを通して'神の恵み'を経験し、それに対する反応として敬意を込めた返礼をしているのです。 このような彼らの反応は、使徒言行録の主題と密接に関連するポイントです。
福音に対するさまざまな反応
使徒言行録の中には、福音に対するさまざまな反応が繰り返し出てきます。 つまり、福音の伝播とともに、それを妨害する勢力が登場します。 彼らはユダヤ人です。使徒パウロはどこへ行っても一番最初に同族であるユダヤ人に福音を伝えようとしました。 しかし、彼らの一部は信じましたが、他の一部は強く反論し、誹謗中傷し、迫害までしました。 彼らは福音の流れを阻止するために、事あるごとに口論し、反論し、誹謗中傷する勢力として登場します。使徒言行録13章45節を見ると、
ユダヤ人たちがその群れを見て嫉妬に満ちて、パウロが言ったことに反論し、誹謗中傷した。
そのため、パウロとバルナバはユダヤ人たちにこう言います。
使徒言行録13:46 パウロとバルナバが大胆に言って言った、「神様の御言葉を先に伝えますが、あなたがたがそれを捨てて、永遠の命を得るにふさわしくない者と自認することになり、私たちは異邦人に向かいます。
ユダヤ人たちが福音を拒絶したため、水の流れの方向が変わったのです。 今度は異邦人に福音を伝えるということです。川の流れの方向が変わると流れが荒れるように、使徒言行録のあちこちにこのような内容がたくさん出てきます。ユダヤ人が拒絶した福音が異邦人に伝えられるようになりますが、福音を聞いた異邦人の反応はどうですか? 福音を聞いても拒絶するユダヤ人とは対照的な反応を示します。13章48節を見ると、
異邦人が聞いて喜び、神の御言葉を賛美し、永遠のいのちを与えようと決められた者はみな信じた。
異邦人がユダヤ人と対照的な姿を見せるのは使徒言行録だけではありません。 福音書でも見ることができます。イエス様が共生の期間中、何度も異邦人に会うことが記録されていますが、ユダヤ人の冷笑的な反応とは異なり、イエス様に賞賛される異邦人が登場します。代表的な例がローマの百人隊長です。 彼は自分の病気の使用人の治癒のためにイエス様を訪ねます。 そして、イエス様が来られることなく、言葉だけで治すことができると言います。すると、イエス様はこうおっしゃいます。
マタイ8:10
イエスは聞いて驚かれ、従う者たちに言われた、「わたしは本当にあなたがたに言うが、イスラエルの誰からもこのような信仰を見たことがない。
ユダヤ人にはこのような信仰がないということです。
また、マルコによる福音書7章を見ると、ヘレライ人であるスロヴォニケの女がイエスを訪ねてきて、凶悪な悪魔に取り憑かれた自分の娘を癒してほしいと懇願します。これに対してイエス様は
マルコによる福音書7:27 イエス様が言われた。"子供に先に腹を満たさせなさい、子供の食べ物を取り、犬に投げつけるのはふさわしくない。"
言い換えれば、「ユダヤ人が先だ」と言われたのです。 すると、異邦人の女性がこう言います。"主よ、正しいのですが、祭壇の下の犬たちも子供たちが食べていたパンくずを食べます"(マルコ7:28)
すると、イエス様は、「女よ、あなたの信仰は大きい、あなたの願い通りになるであろう」と言われ、それ以来、その女の娘が癒される恵みを経験することになります(マタイ15:28)。
この場面が意味するのは、「プライドが傷ついても粘り強く祈れば答えられる」ということではありません。 ユダヤ人が拒絶したイエス様の命の福音が異邦人に伝わることを暗示しているのです。
ルカによる福音書17章を見ると、イエスに出会った熱病のハンセン病患者が癒される奇跡の出来事が記録されています。当時、ハンセン病(今日のハンセン病)は神に呪われたものと認識されるほど恐ろしく残酷な病気でした。人々は誰も彼らに接触しようともしませんでした。 コミュニティから隔離され、荒野のような場所で暮らさなければなりませんでした。 そしてハンセン病患者は常に健常者と石を投げた以上の距離を置かなければなりませんでした。 もし健常者が近い距離にいれば、石を投げて口を覆い、「私は不潔だ」と叫んでいました!私は不潔だ!」と叫んで自分の位置を知らせなければなりませんでした。
このような10人のハンセン病患者をイエス様は癒してくださいます。 彼らは再び家庭に戻ることができるようになり、神様に礼拝することができるようになりました。呪いから解放されたのです。 ああ、なんとありがたいことでしょう!しかし、その中でたった一人だけ、大きな声で神に栄光を捧げ、イエス様に戻り、「その足元にひれ伏して感謝しました」(ルカ17:15,16)。この人はユダヤ人ではなく、異邦人でした。 そこで、イエス様が「十人とも清められなかったのか、その九人はどこにいるのか」。 そうして言われた言葉が重要です。
ルカ17:18,19 この異邦人以外に、神に栄光を帰す者はいないのか / イエスは彼に言われた、「起きなさい、あなたの信仰があなたを救った。
九人のユダヤ人はイエス様に戻らなかったが、たった一人の異邦人はイエス様に戻ってきて感謝し、神様に栄光を捧げたということ、このような傲慢なユダヤ人の排斥と異邦人の謙虚な態度の極端な対照的な姿は、その後のペンテコステ事件の後、弟子たちが迎えた時代にも同じでした。
使徒言行録でユダヤ人たちの拒絶と抵抗のクライマックスを示す場面が、21章から26章までパウロがペンテコステ期間にエルサレムを訪問した時です。全国から集まったユダヤ人たちが、パウロ一人を殺そうと懸案になって襲いかかりました。サン・ヘドリンまで出てきて、二人の総督を圧迫しながらまでパウロを死刑にしようとしました。 この時、イエス様が直接パウロに現れて言われた言葉がこの言葉ではないでしょうか?
使徒言行録23:11
その夜、主がパウロのそばに立って言われた、「大胆になりなさい、あなたがエルサレムで私のことを証言したように、ローマでも証言しなければならない。
エルサレムが拒絶した福音が今、ローマに向かいます。これが使徒言行録に流れる巨大な福音の流れです。ユダヤ人は福音を聞いても頑なに拒絶しました。 しかし、異邦人は喜んで喜んで福音を受け入れます。エルサレムでのその騒動、その騒ぎの中でも、異邦人であるローマの天長グァウディオ・ルシアと、ローマに圧送する天長ユリオを見てください。囚人であるパウロを助けることまでしていますよね。 このように、福音に対する異邦人の好意的な反応は、遠く離れた小さな島の町、メリデでも見られるのです。
ディオス・グーロに乗ってローマへ
ディオス・グーロ(カストルとポルクス迷信)
さて、いよいよメリデを離れ、ローマ行きの船に乗り込みます。イエスが言われたローマまであとわずかです。 パウロと一行が乗った船は、難破した船と同じように「アレクサンドリア」から出発してローマに向かう船でした。 ただし、ルカはこの船の特徴を記録していますが、船首の装飾が「ディオス・グーロ」(双子)であったということです。
双子とはゼウスの息子である「カストル(Castor)」と「ポルックス(Pollux)」のことで、星座の中の「双子座(Gemini)」がまさに「カストルとポルックス」を指しているのです。 この双子は航海する人々を助ける神であり、もし嵐の中で双子の星座が見えたらそれは幸運のしるしとされていました。 その幸運のしるしを船首の装飾にしたのです。
この船の船長と船主は、破船した船とは違って、自分たちの船は「カストル」と「ポルックス」が守ってくれたと公言したかもしれません。 船首の装飾に多額のお金を払ったのなら、おそらくそうだったでしょう。
日本で信仰生活をしている聖徒の皆さんの環境がこのようなものでしょう。 皆さんの家庭や職場が「ディオス・グロを飾った船」のようなものかもしれません。
イエス様を信じる人が事業がうまくいかない時に、不信心者の同僚が自分は迷信を信じたからダメになったのだと言ったらどうしますか? 迷信に満ちた世界の中で、イエス・キリストに従って生きる人生とは、このように不便なものです。
パウロと一行は、たとえ「カストールとポルックス」という船に乗らなければなりませんでしたが、航海の守護者は唯一の全能のエホバ神であることを経験した者たちです。
日本には本当にたくさんの「カストールとポルックス」があります。 他にもたくさんの迷信があります。日本の代表的なカストルとポルックスは、おそらく「招き猫」と「だるま」でしょう。 ない飲食店、ない店を探すのが難しいくらいです。 もしかしたら、あなたの家の中にカストルとポルックスはありませんか? カストルとポルックスはありませんか?
愛する聖徒の皆さん、皆さんはカストルとポルックスで飾った成功という船、富と名誉という船に乗らなければならないかもしれません。 しかし、皆さんの行く道を導いてくださるのは神のみであることを忘れてはなりません。
こうしてローマに向かう船の中に、偉大な使徒が乗っています。途方もない破壊力を持つ核弾頭ミサイルのように、ローマを福音化する偉大な使徒を乗せた船は、南風に乗ってローマに向かって進んでいます。今日ここに集まった皆さんは、日本を福音化させるために主が用意された偉大な働き者であることを信じてください。
メリデを出発した船はスラグサで3日間、レギオンに移動し、そこで1日過ごした後、南風が吹いて翌日ボディオールに到着します。ボディオール(ポチオリ)はローマ南部、ナポリに位置する港で、ローマから南に約180km離れたところにあります。パウロはこのように、ついにボディオールを通して偉大な第一歩を踏み出します。
パウロにとってローマとは?
パウロにとってローマとはどんなところでしょうか?パウロは第3次伝道旅行の終わりにコリントでローマ書を執筆しました。 その時、彼はローマに行きたいという気持ちまで込めて手紙を送ったことがありました。 当時、パウロはエルサレムに寄ってから西バナに行く予定で、その時に少しローマを経由するつもりだったそうです。
しかし、今のローマはそのローマではなく、パウロのローマではなく、イエスのローマ、イエスが送ったローマです。
パウロにとってローマはいつでも心さえあれば行ける場所でした。世界中を飛び回っていた使徒がローマだと特別難しいことではないでしょう。 しかし、イエスの命令を受けて行くローマは違います。旅行先ではなく、使命地になります。パウロにとってローマはイエス様が送るローマです。パウロはエルサレムで死にそうになる峠を越えながら、イエス様が送ってくださるからこそ行けるローマであることを悟りました。
使徒言行録23:11 その夜、主がパウロのそばに立って言われた、「大胆になりなさい、あなたがエルサレムで私のことを証言したように、ローマでも証言しなければならない」。
パウロにとってローマは主から使命として与えられたローマです。 今やローマは通り過ぎる場所ではなく、自分の骨を埋めるローマになりました。 当然、臨む覚悟も違ってきます。
聖徒の皆さんの現在の人生にこのような使命感がありますか? クリスチャンの結婚もローマと考えるべきです。世の中の人は配偶者を自分が選びます。 心が合い、条件が合うから配偶者として選びます。 しかし、クリスチャンは神様に配偶者としてもらわなければなりません。
クリスチャンカップルの中で、お互いにイエス様を信じているから、このまま結婚すればイエス様の中で結婚するのだから良いだろうと思います。 しかし、そうではありません。 まず神様に任せ、神様に許される配偶者として受けなければなりません。 神様が私に許された配偶者であるという確信を持った人は、使命感を持って配偶者を愛し、仕えることで神様の家庭を築くことができます。夫婦生活、家庭、使命がなければ 감당하기 힘든ものです。
ボディオールで出会った兄弟たち、
パウロがボディオールに到着した時、自分を待っていた兄弟たちに会います。使徒言行録で兄弟とは聖徒を指す言葉です。ローマにもすでに多くのクリスチャンがいました。 だからパウロはローマ書を書いたのです。
先ほど申し上げたように、使徒言行録では聖徒を「兄弟」と言います。この表現も使徒言行録を理解する上で重要なキーワードです。イエス・キリストの中で、すべてのクリスチャンは主の中で一つの家族になったことを意味します。 つまり、福音の伝道を通して、神の家庭がますます大きくなっているのです。
ボディオールで出会った「兄弟たち」は、おそらくローマから180キロメートルも離れたところからパウロを受け入れるために来たのでしょう。
ボディオールの兄弟たちにとって、パウロはどんな人だったのでしょうか。ローマ教会の兄弟たちは、使徒パウロが送ったローマ書を読んでいました。キリスト教の真理の宝庫であり、救いの教理を見事に集大成したその偉大なローマ書を書いたパウロ使徒に会いたくないはずがありません。 しかし、彼らは使徒に慰めが必要であることを知っていました。 エルサレムで2年間苦難を受けたというニュースを聞いたことでしょう。 しかし、航海中に船が破船し、冬を過ごさなければならなかったパウロ、彼らは暖かい心でパウロを迎えました。
14節を見ると、「そこで兄弟たちに会い、彼らの招きを受けた」とありますが、ここで「招きを受けた」という言葉はギリシャ語の「パラカレオ」ですが、実はこの言葉の核心的な意味は「慰める」、「慰められる」であり、その意味がもっと強調されるべきです。
これと同じ形のパラカレオが使われた箇所がもう一箇所あり、第一テサロニケ3章7節です。
"それゆえ、兄弟たちよ、私たちはすべての困窮と苦難の中で、あなたの信仰によって慰め(パラカレオ)を受けたのです。"
強靭な心地のパウロであっても、彼の心身は非常に疲れています。使命を追いかけていく聖徒を誰が理解し、慰め(パラカレオ)してあげられるでしょうか。
しかし、真の慰めと励ましは聖霊様がしてくださいます。イエス様が聖霊様を「パラクレトス」と紹介します。聖霊は慰める者の聖霊です。聖霊に満たされた人は、聖徒を慰める人です。聖霊を通して、同じ道を行く兄弟たちだけが慰める(パラカレオ)ことができるのです。
ボディオールで兄弟たちに会い、なんと7日間も彼らと一緒に滞在します。 囚人にこんなことができるでしょうか。 百人隊長ユリオの許可がなければ不可能です。 ユリオの名前は出てきませんが、ユリオはパウロの便宜を図ってくれました。
7日後、兄弟たちと一緒にパウロはアブビオ広場とトレイスのタベルネに行きます。 そこでは、別の兄弟たちがローマから降りてきてパウロを迎えてくれます。
エルサレム訪問の時とは全く違う雰囲気であることが分かります。これは、イエス様がパウロを迎えて下さったとしか思えません。 ローマに来るまでにどれだけの苦労と労苦をしたのでしょうか。 イエス様の御言葉に従い、使命に従うパウロに、主はそこの兄弟たちを通して慰めて下さっているのです。
締めくくり
愛する聖徒の皆さん、福音を力強く伝えてください。排斥し、迫害するユダヤ人のような者たちはどこにでもいます。 しかし、福音を聞いて受け入れ、歓迎し、主に栄光を捧げるメリデの人々のような人々が私と皆さんを待っていることを信じてください。
礼拝が終わって皆さんが帰る皆さんの家庭が、皆さんの職場が、皆さんの生活の場が、イエス様が送るローマです。行く道は大変で難しいかもしれません。 しかし、主から与えられた使命です。主が送るローマです。 そこには聖霊の慰めがあります。 その道を一緒に行く兄弟、姉妹がいます。
宣教師の道が辛く苦しくても、「パラクレトス」となる慰め者である聖霊様が教会と聖徒たちを通して「パラクレオ」してくださいます。私たち一人一人が聖霊に感化され、互いに慰め合い、励まし合う聖霊の人となることを主の御名によって祝福します。
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