パウロが恐れない理由(使徒言行録27:21-26)
私たちの人生はしばしば海を航海する船に例えられることがあります。 なぜなら、人生の旅が海を航海するのと似た側面があるからです。 航海は、私たちの人生の不確実性、挑戦、変化、そして成長の過程を効果的に説明してくれます。あなたの人生の航海は順調ですか?
今日、私たちが一緒に見て、分かち合う箇所、使徒言行録27章は、カイザリアからローマまでの航海を記録した日誌です。 この日誌の中で、人間の普遍的な本性を見ることができます。
脅威や不確実な状況で恐怖と絶望を感じる人間の姿を見ることができます。 また、生存のための本能を見ることができます。船員たちは船を軽くするために荷物を捨てます。それでいて、一方では帆船を握ります。 艱難に出会った共同体の危機を見ることができます。 そして、私たちは極度に深刻な状況の中で、パウロの信仰のリーダーシップがどのようにこの船の雰囲気を変えるかを見ることができます。
今日の御言葉を通して、皆さんの人生の航海が三位一体の神様の同伴によって成功した航海になることを願っています。
囚人パウロの警告を無視して、船は美港を出港します。ちょうど南から順風が吹きます。 船長と船主の言葉を信じた百人隊長と人々は自分の選択が正しかったし、パウロの言葉に従わなかったことを良かったと思ったことでしょう。
しかし、南から吹いてきたこの風は船長と船主のためのものではありませんでした。 この風はグレデ島の中央に高くそびえ立つ(標高2456m)アイダ山から北東風の強風に急激に変わり、この船を攻撃します。このときから船は追い出され、押し流されますが、船長と船主にできることは何もありませんでした。 罪人であるイエス・パウロの言葉が次第に現実のものとなりつつあります。
276人の運命を乗せたこの船は、「ユラグルロ」によって狂ったように流され始めます。この時、船に取り付けられていた非常用船である救命ボート(life boat)が外れてしまいます。船員たちは救命舟を引き上げるために必死に力を尽くしたことでしょう。 幸いにも、ちょうど「ガウダという小さな島の下」を通過していたので、かろうじて救命舟をつかんで引き上げることができました。)船員たちは救命舟が再び落ちないように、綱を船体に巻き付けてしっかりと縛り付けました。
人生の渡し舟たち
渡し舟を私たちの人生に例えると、ほとんどの人は自分なりの渡し舟を準備します。最悪の状況、緊急時に使用するための脱出用の渡し舟を準備します。 お金と財物」という渡し舟を準備します。病気の時や老後のために「お金」という渡し舟を用意し、これをしっかりと巻き付けて、それを握りしめておきます。 また、「家族」という渡し舟を用意する人もいます。 苦しい時や困難な時は結局家族しかいないので、家族という渡し舟を用意します。保険に加入して自分なりの筏を用意する人もいます。健康保険、生命保険、火災保険、がん保険など、毎月少なからずのお金を払って、緊急時に利用する人生の筏を準備します。
皆さんにも渡し舟はありますか? もしそうなら、その渡し舟は何ですか?
家族も、保険も、財産も大切です。 しかし、人生を生きていると、このような「渡し舟」が何の役にも立たないことがあります。現代医学では治療不可能な重い病気にかかったり、愛する家族を失ったり、霊的あるいは精神的に押しつぶされるように苦しくなってもそうです。 ひどいうつ病に陥った人は、お金も、財物も、人も希望にならない極度の恐怖に陥るそうです。
渡し船の特徴は小さいということです。 非常時には少数しか乗ることができません。30節を見ると、船頭たちが自分たちだけ生きるためにこっそり渡し船を下ろすことを見ることができます。 結局、自分たちだけ生きるために渡し船を縛り付けたことにしかなりません。 皆さんの渡し船もあまり変わらないかもしれません。自分だけの、あるいは自分の家族だけのための渡し舟ではないでしょうか。 しかし、神様はすべての人を救うための箱舟を用意してくださったと信じてください。
砂州とリーフ
なんとか渡船をしっかりと固定することができましたが、問題は水深の浅いエリアを無事に通過することです。 このような場所を通過するときは、船が大きければ大きいほど、また重ければ重いほど危険です。大きな船は水深が深いところでは安定しているかもしれませんが、水深が浅いところでは砂州やリーフに注意する必要があります。
砂浜は、自然に砂が風や水によって一箇所に押し寄せ、堆積してできたものです。実際、砂州は海岸を保護する役割を果たしますが、時には大きな船が引っかかって座礁したり、大きな魚が砂州に引っかかって大群死することもあります。
砂浜よりも危険なのはリーフです。サンゴ礁は大きな船も一気に沈没させることができます。
韓国のことわざに「十里の水の中は知っても、一里の人の中は分からない」という言葉があります。これは人の心を水路に例えた言葉です。
私は人の心にも砂浜と礁のようなものが存在すると思います。 遠くにいるときはよく見えませんが、近づいて深く付き合ううちに人間関係によって傷つく場合がありますが、それは心の砂浜と礁があるからです。
心が限りなく広い人でも、砂浜や礁がある場合があります。
日本人出身の二人の芸能人が7年ぶりに会って和解するシーンを見ました。 7年前は二人とも親しい間柄だったそうです。 そんなある日、後輩が交通事故を起こして先輩に連絡したところ、途中で電話が切れたそうです。その後、先輩は後輩が礼儀がないとして、7年間連絡を取らなかったそうです。 それだけでなく、その後輩が出演する放送には一緒に出演しないほど、徹底的に後輩と背を向けるようになったそうです。
私は他のことはともかく、礼儀のない人は大嫌いだ」、「私は約束を守らない人は許せない」、「私は一度きりがない」、「私は一度きりがない」、これによって周りの人を失います。
これが心の砂浜であり、サンゴ礁ではないでしょうか? 普段は見えない心の中のサンゴ礁は、あなたにはありませんか?
譲れない執着の礁、許せない傲慢の礁、許せない強迫観念の礁があなたの心の中にあるのではないでしょうか? このような礁は、周りの人を傷つけ、傷つけます。
教会は「運河」である
運河をご存知ですか? 陸上に人工的に船の道を作ったものです。 運河を作る時に幅よりも重要なのは「深さ」です。 あの有名なエジプトのスエズ運河を作る時、元々の深さは5メートルでしたが、その後どんどん深くなり、現在は深さ24メートルになりました。 運河の水深が深ければ深いほど、より多くの船が、そしてより大きな船が安全に通行できるのです。
教会は多くの人が通行する場所です。人々が教会に来て、神様に近づき、神様に出会い、神様の恵みを受ける場所です。 ですから、教会は世界と天の神様をつなぐ霊的な運河です。水深の深い運河でなければなりません。
しかし、教会を訪れる人の中には、教会内にある砂浜や岩礁に引っかかって、神様に近づくことができず、かえって傷を負って去っていく場合がよくあります。
私は牧師として、自分が砂浜や礁にならないように日々精進しています。最も簡単な方法は人と人の間に距離を置くことです。 時にはこれが安全かもしれません。 しかし、教会は「聖徒が互いに交わる場所」です。聖徒と聖徒が近づくべきです。 教会はそのような場所でなければなりません。
教会が深い運河のようになるためには、私たちの心を監察される聖霊様が、私たちの心の砂州と岩礁を取り除く必要があります。知らず知らずのうちにどんどん積み重なっていく砂浜と、深いところから始まった強固な岩礁を聖霊様が取り除いてくださる必要があります。
このように祈りましょう。「主よ、私の心の中に世の欲望という砂州が積み重なっています。罪という岩礁がたくさんあります。これにより、私の身近な人たちが傷ついています。彼らは私に近づくことを嫌がります。主よ、私の心の欲望の砂州を取り除き、罪の岩礁を取り除き、深い運河のように、多くの人々と深い交わりを持つことができるようにしてください。
このような神の恵みが私たち全員に臨み、世の中の人々が三位一体の神様に向かうのを助ける運河になりましょう。教会の大きさよりも大切なのは深さです。運河が深くなればなるほど、より多くの船が運行できるように、私たちの教会が深くなればなるほど、健全にリバイバル、成長することを信じています。
荷物を捨てなければ
風浪が続きます。船は思い通りに動くことができず、船に深刻な打撃を与える可能性のある岩礁や砂州は肉眼では見えないので、恐怖は倍増します。このような時にできる最善策は何でしょうか?
そう、船をできるだけ軽くすることです。 船が少しでも水面上に浮き上がり、砂州や岩礁をできるだけ避けられるようにすることです。
漁師たちは生き残るために荷物を海に捨て始めます。きっと安いものから捨てたのでしょうが、最終的には高価なものまで捨てなければなりません。命より貴重なものはありません。 お金を失ったら少し失ったこと、名誉を失ったらたくさん失ったこと、命を失ったらすべてを失ったという言葉があります。イエス様も「人がもし天下を得ても、自分の命を失えば、何が益なのか」と言われました。
船の底からぶつかる音、船が壊れる音が聞こえてきます。 船長と船主は船の道具まで捨てるように命じます。 当時の状況がいかに緊迫していたか、危機的な状況であったことが垣間見えます。
先日、たまたま中古の台所用品を売っている店を通りかかったことがあります。 レストランにあるはずのシンクや大型冷蔵庫、テーブルや椅子で店内がいっぱいでした。 レストランで客を迎えているはずのこれらの器具は、どんな事情でここに来たのだろうと思いました。コロナ・パンデミック以降、廃業する食堂が多かったので、おそらくその余波が原因ではないかと思いました。
船員たちは自分の命を守るために荷物を船外に投げ捨てていました。船長と船主は船の道具を捨てました。 しかし、彼らはまだ恐怖から抜け出せずにいます。
一人で恐れのないパウロ
ところが、この船で一人だけ恐れを知らない人がいます。皆が恐怖に押しつぶされているその時、一人で人々に「恐れないでください。安心してください」と言う人がいました。囚人パウロです。
彼も同じように困難な状況に置かれています。 しかし、彼の眼差しには恐れはありません。 その中に何かがあるのです。
それはイエス・キリストです。イエス・キリストは、誰もが恐れ、誰もが落胆するしかない時に来て、恐れないでくださいと言われる方です。さらに、慰めと平安を与えてくださる方、それがイエス・キリストです。神様であるイエス様は、この世の人々を罪の嵐と死の海から救い出すために、自ら人となって人間の世界に入って来られました。 そして、海を切り開き、水の上を歩き、自分の人を救ってくださいました。
人々になく、パウロにあるのは、イエス・キリストです。
パウロは教会では尊敬される指導者ですが、この船では罪人で孤独なクリスチャンに過ぎません。人々は最初、彼の勧めに耳を傾けず、世間の専門家の言葉に従いました。 しかし、今、座礁の危機に陥っているこの船の中で、慰めと平安を与えることができるのはパウロです。
パウロはどのようにして恐怖がなく、大胆な信仰を持っていたのでしょうか。 彼の第二の勧めに答えがあります。
1.第一に、パウロは神の御言葉をつかみました。
22節を読んでみましょう。 使徒言行録27:22 わたしがあなたがたに勧めるのは、今は安心してください、あなたがたの誰も命には何の損害もなく、ただ船だけです。
パウロは「安心しなさい」と言います。いや、どうしてこのような状況で安心できるのでしょうか? 彼が海を航海した経験がないから、言い換えれば、「世の中を知らないから」適当なことを言っているのでしょうか?いいえ、コリント人への手紙第二十一章25節を見ると、彼は「三度も遭難を経験し、一週間昼夜を問わず深い海で過ごした経験」がある人です。ある神学者は、パウロの航海距離を計算してみると約5,000kmにもなり、この時点でこの船で最も航海経験が多い人はパウロだったはずだと言います。
では、パウロは自分の経験をもとに、この程度の強風は大したことないと現実的な慰めを与えたのでしょうか。いいえ、これはパウロが漠然とそうなることを願って発した言葉ではありません。
今、この船の状況の中でパウロが宣布した言葉の責任と重さは、人が負うことができる次元のものではありません。 276人の命を保証するこの言葉の責任と重さは、神様だけが負うことができるものです。
そうです。パウロは決して自分の言葉を言っているわけではありません。 パウロは神様が下さった言葉に対する確信をもって語っているのです。
信仰の宣言とは、自分の思いから出るのではなく、神の御言葉から出るものです。 時々、神の御言葉なしで祈り、神の御言葉なしで宣言し、神の御言葉なしで働こうとする人がいます。 結局、その責任は誰が負わなければならないのでしょうか。
パウロの恐れのない信仰がどこから来たのか見てください。経験でもなく、自己確信でもなく、ただ神の御言葉から出たのです。
2.第二に、パウロは自分の命を神に委ねたからです。
パウロに恐れがないもう一つの理由は、彼がすでに自分の命を神様に預けたからです。 世の中の人は自分の命を自分で握って生きています。 だから、自分の命を失うことを恐れています。 しかし、すでに自分の命を神様に預けた人は、命を失うことを恐れません。 イエス様はこう言われました。
マタイによる福音書16:25 誰でもわたしの命を救おうとする者は、自分の命を失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見つけるであろう。
人間の命は本当に取るに足らないと感じる時があります。
詩篇90:10 私たちの年数が七十、丈夫なら八十であっても、その年数の自慢は労苦と悲しみだけで、早く行くので、私たちは飛び去ります。
人間の命は本当に尊いものでありながら、一方ではどれほど脆弱で不確実なものなのでしょうか。 しかし、このような脆弱な命を主に差し出すと、主はあなたの命、すなわち永遠の命を私たちに与えてくださいます。
ガラテヤ6:8 自分の肉のために植える者は、肉から腐るものを刈り取り、聖霊のために植える者は、聖霊から永遠の命を刈り取るでしょう。
主様に自分の命を委ねた人は、「生きても主のために生き、死んでも主のために死に、生きても死んでも私たちは主のものです」(ローマ14:8)という告白をします。
悪魔たちはどうすればイエス様を信じる人々を失望させるか会議をしたそうです。若い悪魔が「イエス様を信じる人たちを皆殺しにすればいいのでは? と言いました。 しかし、年老いた悪魔が「私たちは以前そうしたことがあるが、殉教するたびに何百、何千人ものクリスチャンが増えるのでやめた」と答えたそうです。
すると、別の若い悪魔が「それなら、牢屋に閉じ込めて、伝道できないようにすればいいのでは?」と言うと、老悪魔は「そうもしてみたが、牢屋にいる間にどれだけ祈りと賛美をするのか、私たちはもっと損をした」と言ったそうです。
3.第三に、パウロが恐れを克服できた理由は、使命を受けたからです。
世の中の人は寿命のために、または寿命を一日でも長くするために生きています。 だから働いて、食べて、生きています。 しかし、クリスチャンは寿命ではなく、使命を持って生きています。24節を見ると、
使徒言行録27:24パウロよ、恐れるな、お前がカイサの前に立たなければならないだろうし、また、神がお前と一緒に航海する者をすべてお前に与えたと言ったからだ。
この御言葉の意味は、「パウロよ、あなたの使命はまだ終わっていない。ここが終わりではない。あなたにはまだ行くべき道がある。
だから「使命がある人は死なない」という言葉が出たのです。 使命は寿命より次元が高いです。 クリスチャンは寿命が尽きて死ぬのではなく、使命を全うして召されるのです。 使命を与えられた方は神様です。
使命を与えた方は神様です。 ならば、使命を背負わせ、完遂させる方も神様です。このように、神から使命を受け、使命のために生きる人は幸いな人です。
まとめ
24節を見ると、「神が私と一緒に航海する者をすべてあなたに与えてくださった」とあります。 これは、使命者である自分一人のために、皆さんが死なずに生きると言っているのではありません。 すべての人生の主人、命の主人はまさに神様であり、この事実をイエス・キリストを信じる者を通して知らせるためです。
この船は、パウロという一人の人によってどれほど祝福されたのでしょうか。 もしこの船にパウロが乗っていなかったら、この欲望に満ちた船は結局、寒い冬の海の真ん中で難破し、ほとんどの人が命を失ってしまったかもしれません。
今、あなたの人生の航海、家庭の船はどうですか? 不確実な明日、いつ訪れるか分からない貧困、病気、老後というユラグルロを乗り越える自信がありますか? 耐えられないことを知りながら、ただ筏一つをつかんで生きていませんか?
私は皆さんがパウロのような信仰の人、希望の人になることを主の御名によって祝福します。パウロが乗ったから船が安全なのではなく、パウロと同行し、御言葉で導いてくださる神様が彼と共におられるからです。
皆さんの人生の航海が、家庭の航海が、そして私たちの教会が、皆さんと共におられる神様によって、成功した航海をすることを祝福します。
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