信仰で帆を上げる(使徒言行録27:27-44)
私たち人間は弱いです。耐えることにも限界があり、忍耐することにも終わりがあります。人生を生きていく中で訪れる苦難と試練を私たちは本能的に忍耐し、耐え忍び、耐えようと努力します。 しかし、苦難と試練が続き、その終わりが見えず、出口が見えなければ、これ以上耐えられなくなり、崩れ落ちることがあります。
人間は有限な存在です。肉体は年齢を重ねれば重ねるほど弱くなり、病気になりやすくなります。精神力で持ちこたえますが、非常に混乱したり、非常に驚いたり、ショックを受けたりすると、精神が乱れたり、正常な判断や行動ができなくなることがあります。
船は、まるで私たちの壊れやすい体のように、あちこちにぶつかりながら、その状態がどんどん悪くなっており、船の中の人々は、私たちの壊れやすい精神や心のように、深い絶望と恐怖に陥っていました。
人々は生き残るために、自分の荷物や船の道具まで船外に投げ捨ててしまいました(19)。しかし、このような努力にもかかわらず、船の外の状況は少しも改善されませんでした。
過去のGPSシステムがなかった時代には、太陽と星を見て方向を知ることができました。 太陽が昇る方は東、沈む方は西、夜は小熊座の尻尾に相当する北極星を見て北を知ることができました。 しかし、20節を見ると、「何日も経っても星が見えず、大きな風浪がそのままあり、救いの望みさえもなくなった」(27:20)
どこへ行くのか分からないまま、大きな風浪によって無残に流されているのです。 このような状況の中で、船体はどんどん壊れて壊れていきます。船員たちは自分たちが生き残る可能性が全くないと判断し、食べることさえ放棄しました(20)。
ご覧の通り、この船は外的にも内的にも希望がありません。
パウロが希望のメッセージを伝える
死の陰鬱な谷としか言いようがないこの船の中で、希望の灯を掲げて持ち上げた人がいて、それが囚人パウロでした。 彼は神から与えられた希望の言葉を人々に伝えました。
「皆さん、安心してください。神様は、私と皆さんを無事に一つの島にたどり着くことができると言われました。"
普段なら「あの囚人は結局は狂ったんだな」と思われたかもしれませんが、絶対絶望に陥っている人々にパウロが伝えた神の言葉は、一握りのわらじのような希望のメッセージとなりました。
絶対絶望に陥っている船の中で、神の御言葉が宣布されました。 神様の御言葉が宣布されたら、今何をすべきでしょうか。 今、「信仰と忍耐によって」宣布された御言葉の成就を待たなければなりません。待つには忍耐が必要です。長い忍耐が必要です。これは聖霊の実です。
さて、美港を出てから2週間が経ちました。 神様の御言葉は宣言されましたが、状況は全く変わりませんでした。 ところが、十四日目になりました。パウロが宣言した神の御言葉の成就がついに実現します。
太陽が昇る直前が一番暗い」という言葉があるように、神の御言葉の成就が実現する直前まで絶望と恐怖に陥っていました。
十四日目の真夜中になりました。真っ暗な夜です。まだ船はコントロールできない状態です。狂ったように風に引っ張られ、船員たちは水深が浅くなっていることを感知します。水深を測ると「二十道」です。ここでの単位はオルギアὀργυιάですが、1オルギアὀργυιάは大人が両腕を広げた幅程度で約1.8メートルです。おそらく海中のアンカーと接続された線に単位を表示しておいた節を見て、水深を測ることができたのでしょう。もう少し航行して再計測すると「十五オルギア」です。本当に近くに陸地があるのかもしれません。
しかし、一方で船員たちは「リーフ」を心配していました。 確かにリーフはたくさんありました。 このままこれ以上近づくと、陸に着く前に船はリーフにぶつかってバラバラになってしまいそうです。 そこで一旦船を止めることにしました。船尾側から4つの錨を降ろします(29)。
錨を下ろして停泊する
錨とはギリシャ語でἄγκυρα、ここから派生した英語がanchoranchorです。アンカーは車に例えると、航海における「サイドブレーキ」のような役割を果たします。重いアンカーを糸で繋ぎ、海の底、これを「海底」と呼びますが、海底まで下ろして固定させるのです(写真参照)。現在の錨は金属で鉤状のものを作っていますが、古代は重い石板に穴をあけて糸を繋いで錨として使用していました。 このように錨が海底に固定されると、その時から船は大きな波にも簡単に流されなくなります。
アンカーは、帆と並んで航海で最も重要なものです。 車がどんなにパワーがあり、速く走ってもブレーキがなければ走る爆弾と同じです。 航海する船も同じです。帆を広げて推進力を得て、錨を下ろしてブレーキをかけます。
錨の大きさと重さは、その船の大きさと重さに比例します。船が大きくて重ければ重いほど、錨も大きく重くなければなりません(写真参照)。そうすることで、錨が海底に突き刺さり、船が流されないようにする役割を果たすことができます。
聖書には、私たちの信仰に錨を「希望」と表現する箇所があります。ヘブライ人への手紙6:19節です。
"私たちがこの望みを持っているのは、魂の錨のようなもので、丈夫で堅固で、幕の中に入るのです。"
希望の錨を持っている人は、世の中の誘惑と罪の風浪にも簡単に流されることはありません。 希望をつかんで耐えるのです。 耐えることも能力です。
しかし、願いの錨ではなく、世俗的な錨を頼ることが本当に多いですね。 辛くて困難な時、神様を頼るのではなく、世俗的なものを錨にすることがどれほど多いでしょうか。 お金や財物が私を支えてくれると思って錨にします。 周囲の人が私を助けてくれると思って人脈の錨を降ろします。これでもかこれでもかと、世の中の楽しみに錨を下ろします。これらが依存症です。
錨を下ろすふりをして渡し船を
船長と船主、そして船員たちは一旦船尾に錨を下ろして船を停泊させた後、本当に島があるのか肉眼で確認するために日が昇るのを待ちました。 日が昇ると目の前に島が見えてきました。 しかし、島まで行くのに岩礁が多すぎて、すでに船の調子が悪いので、船を停泊させることはできません。すでに船の状態が悪いので、船員たちは船が決してあの島にたどり着くことはできないと判断しました。 そこで彼らは自分たちだけでも生き延びようと企みました。 これが邪悪な者の集まりです。 異物(前方)に錨を下ろすふりをして、渡船の綱をほどき、海に降ろしました。
ロシアとウクライナに戦争が起きると、徴兵対象の若い男性たちは急いで祖国を離れました。他の人が死のうが死のうが関係ない、まずは自分から生きなければならないということです。
しかし、私たちが注目すべきは、彼らがすぐに「一人も死なずに島に到着する」という神の言葉を完全に信じていなかったことが明らかになったということです。
今日、クリスチャンの救い観が個人主義に陥っています。自分だけがイエス様を信じて天国に行けばいいという考え。普段聞いた神様の御言葉は、イエス様が私だけのためにこの世に来られたのでしょうか。 イエス様が私だけのために来られたのでしょうか。
主イエスを信じなさい!そうすれば、あなたとあなたの家が救われる」(使徒言行録16:31)
使徒たちを見ながら、もう一つ、私たちの信仰を点検してみる部分があります。 それは使徒たちが「ふるい」をしたことです。 錨を降ろすふりをして、帆船を海に下ろした」。
錨を降ろすことは、船に乗ったすべての人のための仕事です。 しかし、はしけを海に降ろすことは、自分だけのための仕事です。船頭たちは皆のために仕事をしているふりをして、自分たちのために仕事をしていたのです。
ここで「ふりをした」という言葉は、ギリシャ語の「πρόφασις」プロパシスを翻訳したもので、これは偽装、見せかけ、言い訳などの意味を持っています。 するふりをする」という言葉は、偽装して演じるということです。
イエス様を信じることが、信仰生活することが偽装であり、演技になることがあります。奉仕することも結局は自分だけのための「プロパシス」偽装、演技になることがあります。
イエス様がパリサイ人や律法学者たちを見るたびに、彼らの「プロパシス」を激しく叱られました。 彼らは知らなかったのです。 彼らの目には、パリサイ人や律法学者たちは、言葉も多く知っていて、祈りも多く、断食も多く、奉仕や善行も多くしている人たちでした。 しかし、人の心を監察される神様であるイエス様の目をごまかすことはできません。
マタイによる福音書23:27「外食する律法学者たちとパリサイ人たちよ、あなたがたは漆喰で塗られた墓のようで、外見は美しく見えるが、その中には死んだ人の骨とすべての汚いものが詰まっている。
今日、イエスの霊である聖霊が聖徒一人ひとりを叱責します。 演技をするな」、「ショーをするな」。何度も突き刺さるので、従わなければなりません。ふるまうことをやめ、「プロパシス」を捨てなければなりません。
主は、私たちが利己的に頼り、依存することを断ち切ることを望んでおられます。自分だけのためのその小さな舟を捨てて、より大きな船に乗ることを望んでおられます。救いの箱舟であるイエス・キリストだけを頼ることを望んでおられます。
パウロが舟を捨てるようにする
イエス様がパリサイ人たちにそうされたように、パウロは使徒たちの「外食」を見破ります。 そして百人隊長に言います。
使徒言行録27:31 パウロは百人隊長と兵士たちに言った、「この人たちが船にいなければ、あなたがたは救いを得られない。
皆さんはこの場面でどのように思いますか? パウロがひどいと思いますか? もしそう思う方がいたら、あなたは、船頭のように自分のための渡し船を静かに準備しているのかもしれません。
この人たちが船にいなければ、あなたがたは救いを得られない」この言葉の意味は何でしょうか?船をコントロールする専門家が必要だという意味でしょうか? やはりパウロも船頭の役割が重要だと思ったからでしょうか?
他の教会のニュースを聞くと、よくこんな言葉を聞きます。
その教会には誰もいなければならない。誰もいなければ奉仕する人がいないし、誰もいなければ教会の財政が苦しくなる」「だから誰も教会から出られないようにしなければならない」。
パウロが「使徒たちが船にいなければ、あなたがたは救いを得られない」という言葉の意味はこれではありません。
パウロは、神の御言葉は、一部の人だけが救われるのではなく、この船に乗った全員が共に救われるという御言葉だと信じていました。
聖徒の皆さん、「それぞれ生きて天国で会いましょう」というような救い観ではないということです!
パウロがこのように言う理由は、神様がそう言われたからです。 自分だけに言われたのではなく、そこにいた276人全員が一緒に神の言葉を受けたという信仰を持っていたからです。
パウロの言葉を聞いた兵士たちは、舟を吊るしていた糸を切ってしまいました。 この時、きっと船の中には恨みと争いが満ちていたことでしょう。 船員たちが自分たちだけが生き延びようと画策したことを知った人々は、恨みと争いが起こったことでしょう。 船員たちも自分たちの舟の糸まで切ってしまった百人隊長とパウロの一行に対して良い感情を持つことはできなかったでしょう。 推測するに、船の中の雰囲気は陸を目の前にして、さらに悪化したことでしょう。
しかし、パウロは彼らを恨んだり、非難したりせず、むしろ再び希望を失った人々に希望のメッセージを伝えました。
パウロは食べることを勧めたのです。 このような状況で誰が食欲があったでしょうか。 なんと十四日間も食べられなかったので、気力さえなかったでしょう。
主の晩餐に招待する。
もしかしたら人生の最後の時間になるかもしれないこの時、パウロは言います。
"食べ物を食べることを勧めます、これはあなたの救いのためです"(34)
つまり、この食事は死を控えた最後の食事ではなく、救いのための信仰の晩餐であるということです。 あなたがたのうち、髪の毛一本も失う者はいないだろう」と言います。この食事が単なる空腹を解決するためではなく、崇高な霊的な意味を含んでいることを示唆しています。
パウロは「すべての人の前で」パンを持って神に祝福しました。私たちはこの姿から、イエス・キリストの晩餐を思い浮かべざるを得ません。 感謝で神様に差し上げた餅は、今、再び神様に頂いた餅になります。
聖徒の皆さんが神様に十分の一を捧げること、感謝の献金をする意味もこれと同じです。 今まで自分のものだと思っていたものを神様の所有物として捧げ、再び神様が私に与えてくださったものとして受け取ることです。
パウロが祝福したパンは、今や神様から与えられたパン、つまり神様がこの船の中にいる人々に与えてくださる恵みになります。皆さんが食事のたびに祈る理由も同じことです。
パウロが祝福し、パンを取って食べ始めました。おそらく一番最初にもう一人のクリスチャンであるアドリダーゴとルカが参加したでしょう。 彼らの姿を見て、生きる希望を失っていた人たちに食欲が湧き始めます。聖書36節には、彼らが「安心した」とありますが、「安心して」と訳された古代ギリシャ語の表現が注目に値します。
"εὔθυμοι δὲ γενόμενοι" (ユトゥモイ・デゲノメノイ)
ユスモスεὔθυμος」この単語は新約聖書で唯一ここにしか出てこない単語ですが、この単語の中には「怒り、怒り、怒り」という意味の単語「ユスモス」が入っていますが、ここの前に「良い」という意味の「ユ」がついています。 そして「ユスモス」に「ギノマイ」という単語がついたのですが、この単語は「立ち上がる」という意味を持っています。 つまり、欲求不満で絶望に陥っていた彼らの心の中で「燃えるような力と勇気が湧き上がった」ということを言います。
彼ら全員がパウロが主の御名によって分け与えたパンを食べ始めます。驚くべき光景に違いありません。 船はさらに壊れ、壊れていきますが、船の中には活気が回り始めます。
信仰の帆を上げる
みんなお腹いっぱい食べました。 そして、船に積んでいた小麦をすべて海に捨てました。 すると「日が昇る」、つまり日が昇りました。 ギノマイ」が使用されました。
傾斜した海岸が目に入ります。 やはり岩礁もたくさん見えます。百人隊長と船長と船主は、果たしてこの船を安全に港まで運ぶことができるかどうか話し合いました。 人々は、岩礁や急流で船が耐えられないだろうと言います。 結局、神に任せるしかないのです。 本当に彼らはそうしました。
40節を一緒に見てみましょう。
使徒言行録27:40 錨を切って / 海に捨てると同時に / 舵を解いて遅くし / 帆を張って / 風に合わせて / 海岸に向かって進んだ。
彼らが最初にした行動は「錨を切ったこと」でした。 そうです、船が動くためには、錨が下がっていてはいけません。彼らは神の救いの御言葉を信じてアンカーを切ったのです。 信仰で前進するためには、アンカーが下がっていてはいけません。
皆さんが神様の御言葉に従順して前に進もうとするのに動けず、前に進めない理由は何でしょうか。 罪の錨が下がっているからではないでしょうか。 あちこちに不信の錨が下がっているので、信仰の帆を上げても、いつもその場しのぎばかりしているのです。
船が動くためには、錨を引き上げなければなりません。 しかし、重い四つの錨を船体に引き上げると、船はそれだけ重くなり、より多くの岩礁によって船が破船する危険性が高くなります。 だから、錨を切ってしまうのです。
アンカーを切ると同時に何をするかというと、「舵を緩めて」減速させました。キーは船の方向を決める舵です。今までは鍵を縛って固定していたのですが、これを緩めてしまいます。簡単に言えば、ハンドルを離したのです。
ここで船長が言います。帆を上げろ!私はこの光景を想像するたびに全身に鳥肌が立ちます。 錨も外し、舵も外しました。 この状態で帆を広げ、帆を上げました。 これで船の運命は風にかかっています。風が吹いてきます。 船は浜辺に沿って港に向かって進みます。
次第に水深が浅くなっていきます。41節を見ると、船首が「二つの水が合流して流れるところ」に突き刺さります。船は砂州に突き刺さり、もう動けません。 砂州の両側に強い急流が流れ、船の後部、つまり船体を叩き始めました。 そうでなくても、すでに弱っている船体はもう耐えられず、壊れ始めています。 もう全員、船から飛び降り、泳いで陸に行かなければなりません。
この時、兵士たちは百人隊長に囚人を殺そうと言います。 囚人が逃げたら看守が代わりに死ななければならないからです。 しかし、百人隊長はパウロを信頼していたので、全員を生かすことにしました。
泳げる人はダイビングをして先に陸に行くようにし、泳げない人は板切れや水に浮くものを頼りに陸に行くようにしました。
そうして、船にいたすべての人が無事に陸にたどり着くことができました。 神様がパウロを通して下さった約束の言葉がそのまま実現しました。ハレルヤ!
彼らが到着したのはメリデ(マルタ)という島でした。本当に驚くべき事実は、彼らが出発した美港からメリデ島までの距離が885キロメートルということです。 ここまでは何日かかりましたか? 十四日、14日かかりました。 計算すると一日63キロメートルずつ歩いたことになります。 実際、彼らは十四日間、自分たちがどこに行くのか分からず、ただひたすら果てしなく吹く強風に追われ、押され、恐怖に怯える時間でした。
しかし、到着してみると、彼らは間違ったところに行ったのではなく、神の導きによってローマ近郊に向かっていたのです。 そこにいた人々は、パウロが神から受けたという使命、ローマに行くという使命を改めて考えずにはいられませんでした。
結びの言葉
愛する聖徒の皆さん、もしかしたら、環境はますます厳しくなり、恐怖に取りつかれ、このままではダメになってしまうのではないかと心配している方はいませんか?
私たちの肉体は病んで弱くなることがあります。環境は改善されないかもしれません。 しかし、私たちの魂は主の恵みによって、日々日々新しくなることができることを信じてください。コリント人への手紙2:4:16 ですから、私たちは落胆しない、私たちの外見は古くなりますが、私たちの内面は日々新しくなります。
今日の御言葉が皆さんに慰めと力になりますように。神の御言葉をしっかりと信じて、信仰の帆を広げてください。 そのためには、まず不信の錨を切ってください。錨を下ろしながら帆を上げることは愚かなことです。 信仰の帆を上げるためには、主の導きによって航海するためには、世の中に頼っていた欲望の錨を断ち切ってください。物質と人を頼っていた不信のアンカーを断ち切らなければなりません。
みことばなしで行なわないでください。御言葉なしに帆を上げないでください。聖霊の神様は、御言葉で吹く風のような方です。
この一週間が、御言葉と聖霊によって、信仰と決心で、私たち善い神様の導きを受ける私と皆さんになることを、主の御名によって祝福します。
この時間、3つの祈りの題目を掲げて、共に祈ります。
まず、主よ、私が弱いからといって、主まで弱いと考えていたことを悔い改めます。 これまで主の御言葉を聞かずに勝手に帆を上げ、一方では貪欲の錨を下ろしていたことを悔い改めます。世の中に頼っていた不信の錨を打ち砕かせてください。
第二に、主よ、主の導きを受けることを祈りながら、人知れず私だけのための渡し舟を準備しました。 私の外食を脱ぐことができますように。私と私の家が、そしてさらにすべての家族と隣人が救われるように。
第三に、目の前が暗くても、どこへ行くのか分からなくても、善き羊飼いである主が私の行く道を守り、導いてくださることを知りました。パウロのように恐れる人々に救いの福音を伝えることができますように。
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