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2024.3.3 主日説教文の翻訳

ローマに行くのは難しい(使徒言行録27:9~11)

古代都市の中には有名な都市がたくさんありました。 エジプトのアレクサンドリア、ギリシャのアテネ、ギリシャとローマ文明の重要な港湾都市であるエフェソス、バビロン帝国のバビロンなどがあります。 しかし、これらの都市よりも大きくて華やかな都市があり、それがローマです。

ローマ帝国は当時の地中海世界を支配し、主導していました。ローマ帝国の首都はローマでした。ローマは自分たちが征服した人々と彼らの宗教を比較的慈悲深く寛大に扱いました。 そのため、ローマはローマ人とギリシア人とユダヤ人と「野蛮人」まで統合することができました。ローマはギリシャの文化と言語を保護し、法律を尊重する法治国家であり、効率的な行政と郵便通信で高い評価を得ました。 そして、軍隊と海軍が管理する道路と港を通じて、人々は簡単に旅をすることができました。 そのため、「すべての道はローマに通じる」という言葉が生まれました。

やはり多くの人々がこの偉大な都市ローマを見るために遠くから旅をしました。ローマには、5万人が一度に入れるあの有名なコロッセオ競技場とそこで繰り広げられる大胆な戦車レース、ガイサの宮殿、劇場、公衆浴場や水道管などなど。当時のローマは最先端の都市、幻想的な都市だったのです。おそらく、もしあなたが当時、地中海の近くに住んでいたら、ローマには一度は行ってみたかったのではないでしょうか。

使徒パウロもぜひローマに行きたかったのです。ローマ書を見ると、ローマに訪問しようと何度も試みたそうです(ローマ15:22)。当時、パウロはエルサレム教会に献金を渡して、西バナに行く予定でしたが、西バナに行く途中でローマを経由するつもりでした。

ローマに行く理由と目的が変わる

ところが、計画通りにいかないのです。エルサレムに到着すると事態が深刻化し、ユダヤ人によって裁判にかけられ、殺される危険にさらされました。なんとかカイザリヤに移りましたが、ベリクスという総督は、パウロに罪がないことを知りながら、2年間も監禁させます。

そのような過程の中で、イエス様はパウロに「ローマに行かなければならない」と言われました。 しかし、状況はローマはおろか、カイザリアも抜け出せません。大祭司たちと長老たちはパウロをエルサレムに送るように総督たちに圧力をかけます。

パウロは結局、ローマ市民としてローマ皇帝に上訴します。 そうしてパウロはローマに行くことになります。

同じローマですが、今度は行く理由と目的が変わりました。 以前は経由するローマでしたが、今は、主が行けと言われたローマになりました。

さあ、いよいよパウロはエルサレムとカイザリヤを離れることになりました。パウロを護送するために、ローマ皇帝に属する部隊と百人隊長ユリオが派遣されました。 そして、1節を見ると、パウロ以外にも何人かの囚人が一緒に護送されていることが分かります。

カイザリヤからムラまで

まず「アドラームデノの船」に乗ります。この船はローマに行く船ではありません。 アドラムデノに行く船だからその名前がついたのです。 この船に乗った理由は、「ルギアの村」まで行けばローマに行く船がたくさんあったからです。 聖書には様々な百人隊長が登場しますが、興味深いことにほとんどの百人隊長は親切です。ユリオという百人隊長もパウロに親切に接していましたが、カイザリアから北に約50キロメートルほど離れたシドンの港に到着した時に、パウロがシドンにいる友人たちと会って食事くらいはできるように許可してくれたのです。

この船は安全のために海岸を挟んで移動しました。 航海する船がスピードを出すには順風に会わなければなりません。しかし、この船は向かい風に出会うので、グブロの海岸を挟んで北に航海します。 ギリギアとバンビリア地域を経て、ついにルギアのムーラ市に到着します。

ムーラでアレクサンドリアの船に乗り換えます。

百人隊長はここで一行をアレクサンドリアの船に移動させます。この船はどのような船なのでしょうか? 当時、地中海には旅客船はなく、軍艦か貨物船しかありませんでした。百人隊長ユリオが一行を乗せた船はおそらく軍艦ではなく、貨物船である可能性が高いです。 なぜなら、まず、船の名称がアレクサンドリアだからです。 当時、ローマ帝国の政治的安定は貿易に依存していたほど、地中海の貨物船はローマ帝国にとって非常に重要な資産でした。そのため、地中海の貨物船はローマ帝国の管理を受け、各貨物船はその行政区域の部隊に所属していたほどでした。 ですから、皇帝の部隊の百人隊長ユリオがこの船に囚人を乗せて乗船することと、その船の最高決定権者になったことは全く不思議なことではないのです。 この船には船員全員が腹いっぱい食べても余るほど多くの小麦が積まれていたことから、貨物船であることがわかります。

この船の大きさはカイザリヤから乗ってきた船とは違っていました。 37節を見ると、この貨物船に276人が乗船していました。 すでに多くの穀物を積んだ船にこのくらいの人数が乗船できたなら、かなり大きな船だったでしょう(図参照)。また、この船がかなり大きかったことが推測できるのは、海岸への行き来や緊急時に使用できる「櫓」が積まれていたからです。 この船は、水深の浅いところに行くと砂州に突き刺されて動けなくなりました。 船は安定しています。さっきまで小さな船に乗っていたのに、大きな船に乗ったので、どれほど心強かったことでしょう。 しかし、しばらくして、この船は渡し舟が外れるほどの大きな危機を迎えることになります。

村から美港へ

パウロと囚人たちを乗せたこの大きな貨物船は、村港を出港しました。 しかし、船のスピードはとても遅いです。一日の道のりを何日もかけてやっとたどり着きました。 ニド」という地域を通過するのですが、やはり風が助けてくれません。 この位置で吹く風は偏西風です。西に行かなければならないのに、西から風が吹いてきます。 それで「風勢がこれ以上許さない」とルカが記録しているのを見ることができます。

船長は焦ります。どうにかして早くローマに到着するために、様々な方法を試みます。島を風除けにしてみたりもしました(7節)。グレデの海岸を通るときにそうしました。 そして、やっと「美港」というところに到着します。 美港」は「美しい港」という意味です。船長は美港でしばらく休んで、そのままローマに行こうとしました。

パウロの助言

美港でパウロが一言アドバイスをします。パウロは地中海をよく知っている人でした。 彼は自分で何度も船に乗って地中海を移動した経験がある人です。パウロのアドバイスは何だったのでしょうか。

9節を見ると、ユダヤ人の断食節が言及されています。断食節とは、ユダヤ人の贖罪の日のことですが、この断食節が過ぎるとすぐに寒い冬がやってきます。 そうなると地中海での航海は難しくなります。当時、地中海では冬が始まると約三ヶ月間航海が禁止されたそうです。パウロはまさにそのことを言っているのです。

10節に、「皆さん、私が見たところ、今回の航海は荷物と船だけでなく、私たちの命にも打撃と多くの損害を与えることになる」。

パウロが様々な経験を通してこのような情報を知っていたなら、一年中船を運転している船長と船主もそれを知らないはずがありません。

船長と船主はもう少し先に行こうとします。美港では冬を越すのが難しいので、ベニクスというところまで移動しようということです。ベニクス、美港からそれほど遠くはありません。 しかし、パウロはすでに航海が危うい時期になっているので、ぜひ美港で冬を過ごそう、とアドバイスしました。 後から見ると、パウロの言う通りです。

しかし、船長と船主はなぜヴェニキアに行こうとしたのでしょうか。 彼らは早くローマに行き、船に積まれた穀物を売ろうとしたのでしょう。 そうすればお金を稼げます。 しかし、もし三ヶ月間、島に縛られて動けなくなったら、損をすることになります。

パウロの言葉は正しいですが、人々は囚人の言葉よりも船長と船主の言葉を信じたかったのでしょう。百人隊長ユリオもパウロの言葉より船長と船主の言葉を聞いて出航を指示します。

船が出航するのに待っていた南風が穏やかに吹き始め、「順風」に出会ったのです。 だから、人々はやはり船主と船長の話をよく聞いたと言い、一方、囚人がパウロが何を知っているのかと非難したのでしょう。

ユラグルロへ

ところが、しばらくすると、順風はなくなり、恐ろしい嵐が吹き荒れ始めます。

もう少し行けばヴェニクスです。 目の前に見えたかもしれません。 ところが間もなく右側のグレデ島の真ん中、「イダ」という山から猛烈な北東の風が吹いてきました。狂風です。14節を見ると、この狂風の名前は「ユラグルロ」と書かれています。ユラグルロという言葉は、東風という意味の「ユロス」と北風という意味の「アクイラ」を合わせた言葉です。

実はこの海では、南風が吹くと、しばらくすると強烈な北風に変わることがよくあったそうです。船長と船主はこの事実を知らなかったのでしょうか。 少なくとも南風が穏やかに吹いている時に「やっぱり囚人の言葉ではなく、船長と船主の言うことをよく聞いていた」と言った人たちは知らなかったでしょう。 しかし、もし船長と船主がこの事実を知っていたら、「南風が穏やかに吹き始めた時」に表情が深刻に変わったでしょう。

ベニクスを前にして、この船は狂風「ユラグルロ」によって大混乱に陥ります。船が押され始め、風に抵抗することができません。 15節と17節を見ると、「船が押されて追われる」、「ただ追われる」。専門家である船長と船主にできることは何もないことがわかります。船はボニクスからどんどん遠ざかり、南にあるガウダという小さな島を過ぎて南下してしまいました。

この時、船に付いているはずの緊急脱出用ボートである「ガルー」が外れそうになりましたが、かろうじてガルーを掴んで引き上げ、ロープを持ってきて船体に巻き付けました。

ガルーを船に固定させたら、今度は「スルディス」が問題です。スルディスとは「砂州」のことで、水深が非常に低い地域に船が沈む可能性があります。貨物船のような大きな船が海の真ん中の砂州に突き刺さるという事態になりかねません。

ローマに行くのは難しい

ローマに行く道はなぜこんなに難しいのでしょうか。 ローマに行くのは本当に大変だ」という嘆きが出るのも無理はないでしょう。 エルサレムとカイザリアでそれだけの苦労をしたのに、ローマに行く航海も簡単ではありません。

なぜパウロにこのようなことが続くのでしょうか。風と波も支配する神様が、航海でも楽にさせていただけないのでしょうか?

パウロは「私が行かなければならない」ローマではなく、「主が行けと言われたローマ」に向かっています。

韓国のことわざに「溝を掘ってザリガニを獲る」という言葉があります。 一挙両得」または「一石二鳥」という言葉と同じ意味です。 世の中はこのようなことを効率的と言います。 このような人を賢明と言います。 しかし、イエス様を思い浮かべてみてください。イエス様が一度でもそのように暮らしたことがありますか? ありません。 しかし、弟子たちはそうでした。 どうにかしてイエス様の名声を利用して自分の欲を満たそうとする者がたくさんいました。

使徒パウロ、せっかくローマに行くのだから、観光もしたい、人々にも会いたい。こんな風にワクワクしていたのでしょうか? 最初はそうだったかもしれません。エルサレムに立ち寄るだけで、そのままローマに行くつもりでした(ローマ15:25)。

ところが、その思い、エルサレムに来て一気に消えます。同胞のユダヤ人が自分を殺そうと躍起になり、ローマの総督は自分を拘留しておいて解放してくれません。 私の人生は結局ここで終わるのか。と思っている時に、イエス様が来て言われます。

"あなたはエルサレムでわたしのことを証言したように、ローマでも証言しなければならない"(使徒言行録23:11)

主の言葉を聞いてから、ローマに行く目的と理由が変わりました。 私が行きたいから行くローマではなく、イエス様が送られて行くべき場所になりました。 エルサレムで私のことを証ししたように」。エルサレムでどれほどの苦難と迫害を受けたか。 つまりこの言葉は、ローマに行っても試練が伴うということです。ローマに見物に行くのではなく、死ぬ覚悟で行かなければならないということです。

エルサレムからカイザリアに、カイザリアからローマに行く過程で、パウロは悟りました。 私が計画しても、歩みを導いてくださるのは主である。なんと二年の間、イザヤで動けずに拘留されました。主の計画と意志だけがパウロをローマに送ることができることを悟りました。

私はこの時点で、イエス・キリストの弟子の人生が何であるかを皆さんに思い出させる必要があると感じました。

イエス様を信じると、イエス様の弟子になります。弟子はイエス様から世界に送られます。 つまり、「送られた者」になります。 送られた者」という意味のギリシャ語が「アポストロス」です。聖書には「アポストロス」が何と訳されているかというと、「使徒」です。誰が送りますか、イエス様が送ります。一人で行かれるのですか? 遣わされた方が一緒に行かれます。

マタイによる福音書28章で、「あなたがたは行って、すべての民族を弟子にしなさい」と派遣されます。 そして同時にこう言われます。"見よ、わたしが世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。"

イエス・キリストの弟子となった聖徒の皆さん、皆さんはどこに派遣されましたか? 皆さんたちは現在、全く新しい場所、未知の場所に派遣されたわけではありません。 皆さんの生活の場に再び派遣されたのです。

イエス様を信じて弟子となったなら、あなたの家庭と職場と日本はもはや昔の家庭と職場と日本ではありません。 主が「行け」と命じられた宣教地です。心さえあればいつでも辞めることができる場所ではありません。 イエス様が送ってくださった職場です。 事業場です。日本の土地も、主と出会った後は、福音を宣べ伝えなければならない働き人になります。

皆さん、明日からまた出勤しなければなりません。 しかし、理由と目的が変わりました。 主が行けと言われて送られた場所です。 では、そこに誰が一緒にいるのでしょうか? 主が一緒にいます。

疑いがある時

主が導いてくださる道だと思う、この配偶者、神様が許された配偶者だと思う...。しかし、疑う時がありますか? あなたの職場が神様が許可された職場であることに疑問を感じる時がありますか? 職場に入った時は神様が送った職場だと思いましたが、時間が経つにつれて辞めたいと思うことはありませんか? だから、今現在、人生の現場があまりにも辛くて、果たして神様が私をここに送ったのだろうかと疑う時があるのではないでしょうか?

主が皆さんに言われます。

一石二鳥。一石二鳥。一石二鳥、一石二鳥。二つの神に仕えてはいけない。私の道を行くには、私だけに頼らなければならない。

それなら、皆さんはこう言わなければなりません。 はい、主よ、主だけが私にこの道を歩ませることができます。主が共におられないと、私は決して一歩も正しく行くことができません」このような告白で、主の道を歩んでください。

主が言われたその道は難しいです。

マタイによる福音書14章を見ると、イエス様が弟子たちに船に乗ってガリラヤ海の向こう側に行かせる場面が登場します。イエスの弟子たち、みんなガリラヤ出身です。海と呼ばれていますが、実際は結構大きな湖です。弟子のうち4人は漁師で、この人たちは幼い頃から父親に連れられて船に乗っていた人たちです。夜でも海が手のひらサイズのように見える人たちです。イエス様が「海の向こう側に行きなさい。そこでまた会おう」と言われた時、弟子たちはせっかくの自分たちだけの休憩時間だと思ったのかもしれません。すでに日が暮れる頃、イエス様を置き去りにし、私たちだけで船に乗り込みました。すぐに着くだろうと思っていました。

陸地から遠ざかるにつれ、風が吹き始めます。ここは軍馬のように周囲が山に囲まれているので、風が吹くと大変です。もう船を思い通りに漕ぐことができません。 強い波が起こり、船の中に水が入り始めます。4人の漁師が駆けつけて奮闘するも、とてもじゃないけど無理でした。 いつもなら到着しているはずの時間なのに、彼らは海の真ん中で迷子になってしまいました。希望を失いました。

その時、海の真ん中から人のような物体が近づいてくるのが見えます。弟子たちは幽霊かと思い、驚いて怯えます。 東洋人だったら「死神が迎えに来たのか」と言ったかもしれません。 ところが、馬の声が聞こえてきます。"わたしだから恐れないでください"

イエス様が水の上を歩いて弟子たちを訪ねて来られました。 この時、ペテロがしばらく水の上を歩きます。 ついにイエス様が船に上がります。イエス様が弟子たちがいる船の上に上がると、驚いたことに、狂ったように吹いていた風が止み、波が静まりました。 人々は驚いて眠りに落ちます。イエス様にお辞儀をし、「真に神の子でございます」とお辞儀をします。

この出来事を通して、弟子たちは何を悟ったのでしょうか。 私の能力で平気でやっていたことで、普段もよくできることなのに、今日は運が悪かった」と思ったのでしょうか。

彼らは、イエス様が「行け」と言われた時、主が「しなさい」と言われた時、決してイエス様の助けがなければ行けないし、できないという事実を悟ったのでしょう。

私は説教の時間に「互いに愛し合いなさい」という御言葉を伝えるのが怖いです。 普段は仲良くやっていたのに、(不思議なことに)「互いに愛し合いなさい」という説教をした後は、「互いに愛し合う」姿を見つけるのが難しいからです。 皆さんはどうですか? 罪を犯すな」という説教を聞いた後、不思議なことにその週にもっと罪を犯すように感じることがありませんか?

なぜこのようなことが起こるのでしょうか。 私たちの中に不従順の霊があるからでしょうか。 悪魔が働いているからでしょうか。

私たちは主の御言葉に従いたいです。 そうして生きたいと思い、苦しみます。 しかし、これを知っておく必要があります。 普段、自分が自信を持っていること、得意なことでも、主がやれと言われたら、主の力を頼らなければなりません。 互いに愛し合いなさい」という御言葉を聞いた時、自分の現在の能力だけで十分できると思います。

しかし、主が言われたのであれば、従順しようとするなら、言われた主の助けがなければできないことを告白しなければなりません。

従順も主の力によって

主の御言葉に従順するということは、主の仕事をするということです。 主の仕事を私の仕事のようにするということです。 私の仕事のようにしますが、私の力ではできないのが主の仕事です。主の仕事は主の力によってのみできます。 ですから、主の御言葉に従うということは、主の力によって生きるということになります。

エペソ人への手紙3章7節、この福音のために、彼の力が働くままに、私に与えられた神の恵みの賜物に従って、私は働き手になったのです。

この御言葉をよく思い出してください。パウロのような偉大な使徒が自分が働き手になったのは、主があなたの力によって働くためだと言っているのです。 福音を伝える仕事、誰の仕事ですか? 神様の仕事です。 では、誰の力によって、誰が働かなければならないのでしょうか? 主の力によって主が働くこと」が福音を伝えることです。

愛する聖徒の皆さん、皆さんが主に従うためには、主に従順するためには、まず自分の力を抜かなければなりません。パウロの表現を借りれば、まず私が死ななければなりません。

整理します。

主がパウロ使徒にローマに行けと言いました。 しかし、ローマに行く道は大変です。人々は妨害し、環境は難しく、状況は助けてくれません。 しかし、パウロは結局ローマに到着します。ローマに到着したパウロ、何を思ったのでしょうか? このローマは同じローマではない。主が送ったローマである」また

ここ、自分の力で来たのではない。自分の意志で来たのではない。主が行けと言われて来た場所だ。主よ、私を助けてください。

礼拝の後、皆さんは世界に派遣されます。 主から派遣されるのです。 そうして皆さんは再び家庭に戻ります。

また学校に行きます。また職場に行きます。再び職場に出かけます。 しかし、派遣されて再び行った家庭、学校、職場、仕事場。以前の場所ではありません。 主の仕事のために送られた場所です。 そのため、聖徒の人生はもっと重くなります。いや、重くなければなりません。 主は時々、「あなたは私なしでは私の仕事をすることができない」という事実を骨の髄まで痛感させます。

毎日毎日、自分自身、「私はここに送られた者である」という事実を覚えて生きていかなければなりません。 そして、私を送ってくださった主も共におられるので、主を認識しなければなりません。 主の声に耳を傾けなければなりません。最後に、主の力によって主が私を通して働かれるようにしなければなりません。

ところが、家庭が危ういです。学校でいじめを受けます。会社生活、辞めたいです。 事業が難しいです。 そうなると、「この道は私の道ではないのか、辞めようか」と考えます。 皆さん、もう一度考えてみてください。

アメリカインディアンは、少年たちに勇気を与えるために、獰猛な野生動物がたくさんいる森の中で夜を過ごさせました。 そうして森に送られた少年たちは、真っ暗な夜、聞こえてくる動物の足音や鳴き声に怯えて眠ることができません。 このままでは獣の餌食になって死んでしまうのではないかという恐怖に落ちなければなりませんでした。 幸い、朝が明けました。 少年たちは周りを見回してびっくりします。少年たちの父親たちが周りで自分たちの息子を守るために矢を引いていたからです。

主は私たちをこの世に送ってから、腕を組んで見守っておられる方ではありません。水に落ちそうになった時、水の上を歩いて来て救ってくださる方、耐えられる力を与えてくださる方です。 行け」と言われた方が共にいて、「行け」と言われた方が力を与えてくださいます。

信者の皆さん、主があなたをそこに送ってくださったことを信じてください。主の御心通りに生きようとするからこそ、もっと大変かもしれません。 しかし、信仰の目を開いて主を見なさい。送られた方があなたと共におられます。 その方に助けを求めてください。

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