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2024.4.7 主日の説教文(翻訳)

神の国とメリデ(使徒言行録28:1~6)

(小題:毒のない蛇)

今日は使徒言行録28章1~6節の御言葉を中心に、皆さんと神の恵みを分かち合いたいと思います。

神様は、風浪の中で恐れて震えていた人々に(使徒パウロを通して)このように言われました。 "船に乗った人の一人も命を失うことなく、一つの島にたどり着くだろう"

数日後、船はある島に到着することになりました。 しかし、船の頭は砂浜に突き刺さることになり、今まで持ちこたえた船は使命を果たし、半壊してしまいました。切羽詰まった瞬間、人々は壊れかけた船の外、海に身を投げ出しました。 そうして276人全員が陸にたどり着くことになりました。 神様の言われたとおりでした。

特別に親切なメリデの原住民たち

しかし、彼らはまだ完全に危険から逃れたわけではありませんでした。276人の人々はなんとか陸に上がりましたが、冷たい冬の海と風によって、彼らの体は震えまくっていました。人が寒い冬の海に落ちた場合、溺死ではなく低体温症で死亡する可能性がはるかに高いです。 ちょうど10年前の2014年4月。韓国の珍島(ジンドン:진도)沖で旅客船一隻が沈没し、乗客476人のうち300人以上が海に落ちて命を落としました。ほとんどが低体温症で死亡したと言われています。低体温症は誰かの助けがなければ決して解決しないという点で恐ろしいです。

276人が無事に海から脱出したものの、湿った寒さで体が凍えそうになっていたその時、その島の先住民族が現れました。 彼らは船が砂州に突き刺さり、人々が慌てて飛び降りるのを目撃していたようです。 言葉は通じませんでしたが、彼らは異常に親切で、何が必要かを知っていました。 急いで火を起こしました。先ほどまで雨が降っていたので、原住民は自分たちのために用意していた乾いた薪を取り出したのでしょう。 熱く燃え上がる火の前で、凍りついた心も体も徐々に溶けていきました。

当時現場にいたヌガーによると、先住民に「特別な同情」が感じられたそうです。 特別」と訳されるギリシャ語の「ティンカノ」は「一般的ではない」という意味を持っています。

彼らの同情が一般的でないのはなぜなのでしょうか?メリデ先住民には2つの特別さがありました。

まず、メリデ先住民には人間愛がありました。

原住民と訳された単語「バルバロス」は、他のテキストでは「野蛮人」と訳されることもありますが、本来は「理解できない別の言語を話す人」を「バルバロス」と呼んでいました。 つまり、言葉が通じない人たちでした。 しかし、危険にさらされている人を救うために必要なのは、言語ではなく「同情」です。ここで使われた言葉がφιλανθρωπία(フィランストロピア)ですが、「愛する」の「フィロス」と人を意味する「アンスロポス」が合わさった動詞で、「人間を愛する」という意味です。

第二に、「火を焚いて迎え入れる」、彼らには「迎え入れ」がありました。

ルカはその原住民たちが「火を焚いて迎えた」と記録していますが、この「受け入れる」προσλαμβάνωという言葉は、教会の中で「お互いを受け入れる」という非常に重要な用語です。 つまり、単純な招待を越えて、自分の重要な構成員として「受け入れる」という意味です。ある日突然押し寄せた276人の異邦人を迎え入れることで、この見知らぬ遭難者たちは長い苦難から一息つけるようになりました。

このように、メリデ原住民の特別な同情(人間愛)と受け入れ(受け入れ)は、276人の遭難者を救出し、彼らに暖かさを提供しました。

クリスチャンの「受け入れ」と「人間愛」。

しばらく教会について考えてみてください。 教会にはもっと特別な「同情」(人間を愛すること)と「受け入れ」(受け入れること)があります。

神の人間愛

このφιλανθρωπία(フィランストロピア)という単語が今日の本文を含めて新約聖書にたった2回しか使われません。 もう1つはディリピ3章4節で、神様が「人を愛することを示された」と言う時に使われました。

皆さん、人が人を愛すること(φιλανθρωπία)は本当に高貴で美しいことですが、神様が人を愛すること(φιλανθρωπία)はもっと素晴らしいことです。

人間は神様を裏切り、神様が造られた隣人を憎み、殺害しました。 洗いきれない罪を犯し、死に至りました。 しかし、神様はこのような人間を愛してくださいました。

メリデの人々は薪を集めて火を焚いてくれましたが、神様は自分の一人息子イエス・キリストを十字架に釘付けにして、罪人に代わって神様の罰を受けて死なせてくださいました。 これにより、私たちは罪の赦しを受け、神の子として受け入れられるようになりました。 これが神様の「人間愛」(φιλανθρωπία)です。

神の受け入れ

そうです、この場に集まった私たちは、イエス・キリストを通して私たちを愛してくださる神様に「受け入れられた」のです。 このように神様に受け入れられた聖徒は、互いにπροσλαμβάνωするのが当然だと聖書は言っています。

ローマ人への手紙15:7 ですから、キリストが私たちを受け入れて神に栄光を与えたように、あなたがたも互いに受け入れ合いなさい。

教会は、まず神様に受け入れられた人々が、互いに受け入れ合う場所です。そこで、より特別な人間愛を体験することができます。

メリデ島の原住民は、たとえ言葉が通じなかったとしても「人を愛する心」がありました。 彼らはたとえキリストを知らなかったとしても、部外者を受け入れる「受け入れる心」がありました。

それなら、私たちをイエス・キリストを通して神様に受け入れられた私たちは、どれほどもっとお互いを愛し合うべきでしょうか。

蛇に刺されたパウロ

276人全員の体を暖かくしてくれる火を維持するには、多くの薪が必要です。 それだけでなく、誰かが薪を運び続けて火を起こさなければならない労力が必要です。そこで、年齢も若くない使徒が薪に使う木を運び始めました。

教会にも火があります。凍てついた人の魂を溶かす愛の炎があります。この炎がより多くの人々に暖かさを提供し、長く維持されるのは、主から受けたその愛で「互いに愛し合う」ことに他なりません。

互いに愛し合うことは、イエス様が下さった新しい戒めです。互いに愛し合えば、多くの罪が覆われると聖書は言っています(Ⅰペテロ4:8)。愛し合うことでイエス様の弟子であることが分かります。お互いを愛せば、教会が熱くなります。

私たちの教会にはパウロ使徒のような方が本当にたくさんいます。教会の温度を上げるために、自分の薪の束を教会に持って来られます。ある方にとって「薪一束」は畑で育てた野菜でもあり、ある方にとっては手作りのおかずでもあり、ある方にとっては「薪一束」は教会の掃除でもあり、ある方にとっては滑らないように階段に貼る滑り止めパッドでもあり、ある方にとっては教会学校の後援金でもあり、ある方にとっては花と鉢植え、ある方にとってはおやつ提供でもあり、ある方にとっては「薪一束」は静かに台所に入って食器を洗うことでもあります。その他にも、見えないところで自分だけの「一束の木」を持ってくる人もいます。この「一束の木」がイエス・キリストの愛の実践です。 つまり、神の人間愛が現れます。 それによって教会を暖かくします。

火が熱くて手を噛む蛇

使徒パウロが木の束を火に入れました。 その時、木の隙間に蛇が一匹いたようです。火が熱かったので、蛇が「あっ熱い!」と飛び出してきたのですが、その時にパウロの手を噛みました。ヘビがどれだけ強く噛んだのか、パウロの手にそのままぶら下がっていました[]。

そのヘビはきっと大きくて猛毒があったのでしょう。 なぜなら、目撃した原住民はそのヘビに噛まれたパウロが腫れたり、突然倒れて死ぬと思ったからです。

教会の中で熱い愛の炎を維持するために奉仕していると、敵である悪魔サタンが毒蛇のように奉仕者の手を噛むことがよくあります。せっかく大きな心を持ち、時間も出し、お金も使って木を一束持ってきたのに、試練を受けることがあります。

教会奉仕というのは、一見簡単で簡単そうに見えても、敵である悪魔と戦う覚悟と決心がなければなりません。教会と聖徒を生かす愛の炎を燃やすのに、教会の敵である悪魔サタンが喜ぶはずがありません。 ですから、教会の愛の炎の温度が高くなればなるほど、蛇のような悪魔の試練に注意しなければなりません。

敵である悪魔は、どうにかして皆さんのその心を引き戻そうと策を講じます。 皆さんの心を失速させることによって、教会の愛の炎を消えさせようとします。

しかし、大胆になってください。敵である悪魔がどんなに襲いかかってきても、忍耐してください。 刺すことはできても、倒すことはできません。

メリデの原住民の世界:判断と非難

毒蛇がパウロの手を噛んでぶら下がっている姿を見た原住民たちの声を聞いてみましょう。 4節に、「この人は殺人者であり、海では救われたが、正義が彼を生かさなかったからです。

いや、どうしてメリデの原住民たちは一瞬にしてパウロを殺人者として確信し、彼が受けた困難を世話することは考えず、当たり前のこととして考えることができるのでしょうか?先ほどまで遭難した人々に暖かい火を提供した「特別な認識」の多くの人たちがそうだったのかという気がします。毒蛇に噛まれた人を見て助ける気はなく、むしろ彼を「殺人者」の罪人に追い込む彼らの姿から、彼らの暖かかった温かさはどこへやら消え去り、冷たくさえ見えます。

しかし、この部分から私たちはメリデの人々の間で通用している世界観を覗き見ることができます。

おそらく、パウロは他の囚人と一緒に捕縄に繋がれていたり、兵士たちの監視を受けていたのでしょう。 そうすると、言葉が通じなくても、パウロが大きな罪を犯した囚人であることは容易に想像できたでしょう。

276人全員が大きな災難から奇跡的に命を救われたのに、しばらくして、たった一匹の毒蛇に噛まれて死んだとしたら、どれほど残念なことでしょうか。 しかし、メリデ原住民はこれを正義の神が罪人を最後まで追跡した結果だと考えました。 つまり、メリデ原住民が持っている宗教的教義が「結局、罪人は正義の神によって裁かれる」というものであることが分かります。

私たちが信じているキリスト教の教義と似ているように見えますが、彼らとは異なる点があります。パウロはイエス・キリストを信じて義人となり、正義の神に裁かれるのではなく、救いを得た者であるということです。

しかし、メリデ島の原住民はイエス・キリストに会ったこともなく、福音を聞いたこともありません。 ですから、彼らは「罪人は正義の神に必ず裁かれて死ぬ」までしか知らないのです。 イエス・キリストを信じない人はみんなここまでです。それゆえ、裁きと非難という現場から一歩も前に進まないのです。

メリデの原住民は外見だけを見て、パウロを「殺人者、死に値する者」と判断し、非難までしてしまいました。

昔の蛇の悪魔は「善悪を知る木の実」を食べれば神のようになれるとアダムを誘惑しました。 私が「善悪を判断すること」、これが神のようになりたいという人間の反逆です。

聖書は、私たちが他人を判断し、非難することを禁じています。

ローマ人への手紙2:1 ですから、他人を判断する人よ、誰を問わず、あなたが言い訳できないのは、他人を判断することで、あなたが自分を非難することであり、判断するあなたが同じことをしているからです。

神の国は、公義の裁判官である神様だけが判断し、糾弾することができます。

もし皆さんがイエス・キリストを信じて神の国の民になったと信じるなら、考えでも他人を判断し、非難してはいけません。 まだアダムの罪に留まっていてはいけません。私が判断し、非難するのは、メリデの原住民のように、イエス・キリストに会ったことのない人たちだけです。

蛇を火に投げてしまったパウロ

このようなメリデの原住民たちの判断と非難の中で、パウロはどうなりましたか? パウロはその蛇を捕まえて再び火に投げ入れました!

私たちは、人の判断や非難を受けることをとても嫌います。誰かが私について、こうだからダメだ、ああだから蛇に噛まれたのだ。こう評価されること、とても嫌ですよね。 毒のある言葉を聞くのは、まるで毒蛇に噛まれたようなものです。 言葉の一言に噛まれて、一日中不快で不快です。私は誰かに嫌なことを言われると、その言葉が一年以上続くこともありました。 人によっては、ヘビのように言葉に毒が染み付く人がいます。言葉の一言に人を本当に不快にさせる毒があります。教会の中にこんな人がいてはいけません。苦労して一束の木を持ってきた聖徒の手をふさぎます。本当にこれではいけません。悪魔の手先になるのです。

しかし、考えてみましょう。私たち一人一人が完全ではありません。神様に赦されたと言っても、まだ言葉に間違いがあります。努力しているつもりでも、毒のある言葉が飛び出すことがあります。言い換えれば、私も他の人の手を噛むことがあります。

ヤコブ3:2 私たちは皆、過ちが多いので、もし言葉に過ちがない人なら、完全な人であり、その全身にも枷をはめることができるでしょう。

皆さんはどうですか? 牧師も完全ではありません。 それでは、教会はどうなるのでしょうか?

パウロに学びましょう。人々の判断と非難の中で、静かに蛇を火に投げてしまいましょう。火が消えないようにしましょう。

原住民は、パウロがもうすぐ腫れるか死ぬと思っていました。いや、期待したかもしれません。 しかし、パウロには彼らが期待していたことは起こらなかったのです。

私たちは「不思議だ!毒蛇じゃなかったのか」と考えることができます。まず、原住民はパウロの手を噛んだ蛇が毒蛇であることを知っていました。 彼らの確信を見ればわかります。

ここで私たちは、パウロに起こった驚くべき奇跡の意味を理解する必要があります。 蛇がパウロに危害を加えなかった理由について考えてみましょう。神様がパウロをメリデに送った理由がここにあると思います。

メリデの原住民を見ると、彼らには温かい同情もあります。初対面の人を受け入れることができる素敵な人たちでした。 しかし、彼らは罪と死の法の下に支配されていました。ユダヤ人だけでなく、ヘレライ人だけでなく、他の言語、文化を持つ人々も「罪と死の法」の下にあることを示すのが今日の本文です。

まさにこのような人々に福音が必要です。 絶えず他人を非難し、判断し、罪と死のブラックホールに吸い込まれていく彼らを救ってくれるのは、イエス・キリストしかいません。

メリデの原住民を見てください。 彼らの人間愛は寒さから救うことはできるかもしれませんが、罪と死から救うことはできません。 神様の「人間愛」、すなわちイエス・キリストを通してのみ、罪と死の権勢から解放されることができるのです。 それを示すのが、パウロが蛇を捕まえて火に放り込んだことであり、その蛇には非難と罪の毒が効力がないことを示したのです。

結論

主の中で愛する純福音群馬教会の聖徒の皆さん、誰があなたを非難し、判断して心を苦しめるのでしょうか。 主イエス・キリストの十字架の血を覚えてください。あなたがたにはもう咎がありません。

ローマ人への手紙8:1 ですから、今、キリスト・イエス・キリストのうちにある者には、決して非難はありません。

あなたがたには、もはや非難の毒が効かないということです。なぜなら、私たちはすでに罪と死の権力から解放され、キリスト・イエス・イエスのうちに命と聖霊を得たからです(ローマ8:1,2)。

愛の炎を育てるために一束の木を持ってきたのに、誰が私の手を噛みましたか? 痛いです。痛いですが、そこまでです。 同じように非難しません。 対面して非難しません。 判断しません。 正義の主だけにお任せします。

私たちは私たちがすべきことをしなければなりません。愛の炎が消えないように、そこに集中しましょう。もっと熱く愛しましょう。

第1ペテロ4:8 何よりも熱く互いに愛し合いなさい、愛はあらゆる罪を覆い隠すからです。

イエス・キリストを信じて救われた人にとって、悪魔サタンは毒のない蛇と同じです。私たちはすでに罪と死の権勢に勝っています。

1コリント15:55-58

55死よ、あなたの勝利はどこにあるのか、死よ、あなたの撃つものはどこにあるのか。

56死が撃つのは罪であり、罪の力は律法である。

57 私たちの主イエス・キリストによって私たちに勝利を与えてくださる神に感謝します。

58それゆえ、わたしの愛する兄弟たちよ、堅実で、揺るがず、常に主の御業に励む者となりなさい、なぜなら、あなたの労苦は主のうちに無駄ではないからである。

メリデの原住民たちは、毒蛇に噛まれても死ななかったパウロを見て、ただ、「うわー、不思議だ!」程度の反応ではなく、「人ではなく神だ!」、彼らにとっては「罪と死の法」から自由な者が神と同じだったのです。 パウロ使徒は、罪と死の権限の下にあるメリデの原住民たちに神の国を見せたのです。

私たちも今日の礼拝後、メリデのような世の中の人々に送られます。私たちは彼らに神の国を証ししなければなりません。 判断と非難の世界から解放の福音を伝えましょう。神の人間愛と受け入れによって。

今日、私たちが参加する聖餐は、神様の人間を愛して送ってくださったイエス・キリストの肉と血を意味するものです。また、私たちを神の子として受け入れてくださる現場です。神様の愛を受けた者、神様に受け入れられた聖徒は、主が与えてくださった賞で互いに愛し合い、受け入れ合うのが当然です。今日受け取った御言葉を聖餐式を通して実践してください。

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