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信じる者は弟子でなければなりません

序論

愛する聖徒の皆さん、今日私は一つの重要な質問から御言葉を始めたいと思います。皆さんは自分自身をイエス様の弟子だと思っていますか?おそらく、ある方々は「弟子」という言葉に少し戸惑いや負担を感じるかもしれません。私たちはよく自分を「信者」や「教会員」と呼びますが、**「弟子」**という言葉は十二弟子や特別な献身者だけの呼称のように感じることもあります。しかし、聖書を見ると、イエス・キリストを信じるすべての人は、まさに弟子として召された人であることが明確に分かります。信仰と弟子道は切り離すことができません。イエスを信じる者は弟子となるべきであり、これは主の命令であり、主の生き方に従う動的な旅路です。

まもなく私たちの教会でも弟子訓練学校が開講されます。この時間を通じて、なぜ私たちが弟子とならなければならないのか、弟子として生きるとはどういうことなのかを共に見ていきたいと思います。弟子とは単に知識として学ぶことに留まらず、生活の中で実践し、時には不便さを受け入れながらもキリストに似ていく訓練を続ける人です。今日の御言葉を通じて、主がどのように私たちを弟子として召し、訓練されるのかを見て、弟子訓練に参加すべき必要性と決断について恵みを分かち合いたいと思います。

本論

1. イエス様の弟子訓練方式:召し、教え、模範

まず、イエス様が弟子たちをどのように訓練されたかを考えてみましょう。福音書を見ると、イエス様の弟子訓練には三つの重要な要素が現れています:召し、教え、そして模範です

第一に、召しです。イエス様は弟子たちをまず呼び出されました。ガリラヤ湖畔で漁師たちを召された時、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」(マタイ4:19)と言われました。取税人マタイを召された時も「わたしに従いなさい」と言われました。このように主は人々を探し出し、直接召して、新しい人生の方向を示されました。弟子は自分自身でなるのではなく、イエス様の召しに応答することから始まります。

今日、私たちも各自召されました。イエス様は私たちを罪と世から呼び出し、ご自身に従う弟子として人生の方向を変えてくださいました。

第二に、教えです。イエス様は召された弟子たちをそばに置いて教えられました。山上の説教で神の国の価値と義を教えられ、たとえを通して真理を解き明かしてくださいました。時には弟子たちだけを別に呼んで御言葉を解釈してくださり(マルコ4:34)、祈り方を教えてくださることもありました。

イエス様の弟子訓練学校の教室は、生活の現場全体でした。道を歩きながらも、食事をしながらも、祈りながらも、イエス様は絶えず神の国の真理と愛を教えられました。弟子たちはイエス様の口から出る御言葉を聞き続けることで、価値観が変わり、信仰が成長していきました。私たちも御言葉による教えなしには真の弟子になることはできません。だからこそ、弟子訓練でも聖書の御言葉を学び、暗唱し、黙想することが中心となります。

第三に、模範です。イエス様は単に言葉だけで教えるのではなく、直接生き方で模範を示してくださいました。

ヨハネ13章でイエス様は弟子たちの足を洗われた後、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(ヨハネ13:15)と言われました。主は自ら仕える模範を身をもって行われたのです。

また、イエス様は祈りの模範を示されました。明け方、人里離れた所で祈られ(マルコ1:35)、神との交わりの生活を見せてくださいました。幼子を抱かれ(マルコ10:16)、病人や罪人を深く憐れまれる愛の模範を示されました。さらに、ご自分の命を捨てることによって、犠牲と従順の模範を示し、弟子たちが従うべき愛の道を自ら歩まれました。

弟子たちはこのようなイエス様の生き方をそばで見守りながら学びました。言葉だけでなく、生き方で示してくださった師であったからこそ、弟子たちは真の弟子の姿を学ぶことができたのです。今日の私たちも同じです。主の御言葉を学ぶことと共に、主の品性と行われたことを見習って実践することが弟子道の重要な部分です。

イエス様のこのような弟子訓練方式―召し、教え、模範―は、今日私たちの教会が弟子訓練を実施するモデルとなります。主はまず私たちを召してくださり、御言葉で教えられ、自ら模範を示してくださいました。今、私たちもその方に従い、学び、従い、似ていく旅路に踏み出すべきです。

2. 旧約に現れる弟子道の原理:エリヤとエリシャ、モーセとヨシュア

弟子道は新約だけに現れる概念ではありません。旧約聖書にも弟子道の原理を示す美しい関係があります。特にエリヤとエリシャ、そしてモーセとヨシュアの事例を通して、私たちは弟子が師に従う姿とその霊的継承を見ることができます。

まず、エリヤとエリシャを考えてみましょう。エリヤはイスラエルの偉大な預言者でした。神はエリヤにエリシャを後継者として立てるように言われました(列王記上19:19-21参照)。エリヤが自分の外套をエリシャに投げかけた時、エリシャはすべてを後にしてエリヤに従いました。その時からエリシャはエリヤを師として仕え、学ぶ生活を始めました。

彼はエリヤについて行き、その働きを注意深く見守り、助ける中で神の人として成長していきました。聖書はエリシャを指して「エリヤの手に水を注いだ者」(列王記下3:11)と描写していますが、これはエリシャが謙遜にエリヤに仕えながら学ぶ弟子の姿勢を示しています。ついに天に上げられるエリヤを最後まで従ったエリシャは、去る前にエリヤに「あなたの霊の二倍の分を私に継がせてください」(列王記下2:9)と願います。神はエリシャのその願いを聞き入れ、エリヤの二倍に及ぶ力を許されました。

その後、エリシャは師エリヤが行ったのと同じ奇跡を行い(ヨルダン川を分け、死んだ子を生き返らせるなど)、イスラエルの預言者の使命を引き継ぎました。この物語で私たちは、弟子が師の生き方と働きを完全に引き継ぐ姿を見ます。エリシャは単にエリヤの教えを頭で学んだだけでなく、その霊性と使命を受け継いで、自分の人生で実践したのです。

次に、モーセとヨシュアの関係を考えてみます。モーセはイスラエルの民を導いた偉大な指導者でした。ヨシュアは若い時からモーセの従者として仕え、そばで学んだ者でした(出エジプト記33:11)。ヨシュアはモーセが会見の天幕で神と対面して交わる時も、そばを離れずに共にいました。戦場では、モーセの命令に従って出て行って戦い、現場で指導力を学びました(出エジプト記17:9-14参照)。カデシュ・バルネアでカナンの地を偵察しに行った時も、ヨシュアはカレブと共に最後まで信仰をもって従順な姿を見せました。

このように長い間モーセのそばで訓練され、検証されたヨシュアを、神はモーセの後を継ぐ次期指導者として立てられます。モーセが最後にヨシュアに手を置いて後継者として立て(申命記34:9)、神も直接ヨシュアに強く雄々しくあれと命じられ(ヨシュア1:5-7)、彼を通してイスラエルを約束の地へと導かれます。モーセとヨシュアの関係でも、エリヤとエリシャのように霊的遺産の継承が行われます。ヨシュアはモーセから学んだ信仰と従順を受け継いで、自分の世代に神の御心を成し遂げる弟子の役割を果たしました。

これらの旧約の事例は私たちに重要な教訓を与えます。真の弟子道は知識の伝達ではなく、生き方の伝達であり、使命の継承であるということです。エリシャとヨシュアは師よりも偉大な働きさえも果たしましたが、これは師が自分のすべてを惜しみなく教え、示してくれたからであり、弟子がそれを心から受け入れたからです。今日、私たちの教会でも同じです。信仰の世代が次の世代に信仰と使命を伝えなければなりません。先輩信仰者たちは生き方で模範を示して教え、後輩信仰者たちは謙遜に学び、従い、その使命を受け継ぐべきです。これが教会の中で行われる聖なる弟子道の継承です。

3. 使徒たちの変化と献身:聖霊降臨後の弟子道

イエス様の弟子たちは最初から完璧な人々ではありませんでした。福音書を見ると、彼らはしばしばイエス様の教えを理解できず、誰が一番偉いかという問題で争い、試練の前では恐れて逃げ出すこともありました。イエス様が捕らえられた夜には、すべての弟子たちが散り散りになり、筆頭弟子だったペテロでさえイエス様を三度も知らないと否定しました。それにもかかわらず、イエス様は復活された後、この弱い弟子たちに再び現れ、彼らを赦し、回復させてくださいました。そして最後に「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と大宣教命令を与えられた時、弟子たちはまだその偉大な使命を果たすには不十分に見えました。

しかし、使徒行伝2章、五旬節の聖霊降臨の出来事の後、弟子たちは完全に変わりました。聖霊が臨まれると、彼らは力と大胆さを受けて変えられました。ペテロはもはや臆病者ではありませんでした。聖霊に満たされて立ち上がったペテロは、エルサレムの群衆の前で大胆に説教し、その日に三千人もの人々が悔い改めてイエス様を信じる歴史が起こりました(使徒2:41)。

以前イエス様を否定したペテロが、今は「あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またキリストとなさったのです」と大胆に証言したのです(使徒2:36)。

ヨハネをはじめとする他の使徒たちも同様でした。彼らは議会に引き出されて脅された時も、「私たちは、見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません」(使徒4:20)と大胆に宣言しました。どんな脅しや迫害の前でも福音を証しすることをやめることはできないという宣言です。使徒たちはイエス様の名のために苦しむことさえ喜びとしました(使徒5:41)。

このように聖霊降臨後、弟子たちは大胆な証人として変えられ、福音宣教と弟子を作る使命のために自分たちの人生全体を捧げました。伝承によれば、十二使徒のほとんどは殉教の道を歩みました。ペテロはローマで逆さ十字架につけられて殉教し、ヤコブは剣で殺され、トマスはインドで福音を伝えながら殉教したと伝えられています。彼らは最後までイエス・キリストの弟子として献身と忠誠を尽くしたのです。

このような使徒たちの変化は何を示していますか?人間の力や知識だけでは弟子の人生を生きることはできませんが、聖霊の力によって変えられる時、私たちはイエス様のために生き、死ぬこともできる真の弟子になれるということです。初代教会の弟子たちは聖霊の助けによってイエス様の大宣教命令に従順し、すべての民族を弟子とする働き(マタイ28:19-20)に献身しました。その結果、エルサレムから全ユダヤとサマリアを越えて、福音は地の果てまで広がっていきました(使徒1:8の成就)。今日、私たちも聖霊の助けを受けて、その弟子道の足跡に従っていくべきです。

4. 弟子訓練と教会共同体の成長

ここで私たちは、弟子道が教会共同体とどのような関係があるのかを考えてみましょう。弟子訓練は単に個人の霊的成長のためだけでなく、教会全体を建て上げ、成長させる核心的な働きです。イエス様は昇天される前に弟子たちに「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい...わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように教えなさい」と命じられました(マタイ28:19-20)。これこそが教会に委ねられた大宣教命令、つまり最も重要な使命です。

教会の存在目的は単に礼拝を捧げることだけでなく、魂を救い、イエスの弟子として立てることです。

初代教会を見ると、弟子を作る働きが教会共同体の中で活発に行われていました。使徒行伝2章42節は、新しい信者たちが「使徒たちの教えを受け、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒2:42)と証言しています。

御言葉の教育と共同体生活を通じて信仰が成長し、新しい弟子たちが立てられていったのです。また、エペソ4章12節にも、教会の指導者たちが聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げようとすると語られています。これは、すべての聖徒が訓練を受けて働きに参加し、そうすることで教会が健康に建て上げられるという意味です。

よく訓練された弟子たちが各所で仕えるとき、教会は質的にも深まり、量的にも復興します。

皆さん一人一人は教会の肢体として、単に礼拝に出席する信徒ではなく、教会を建て上げる働きの同労者であり、弟子として召されています。教会は弟子たちの共同体として、互いに励まし合い、教え合い、学び合う中で信仰が成長します。時に私たちの中で信仰の弱い者は、より強い弟子の手を握って立ち上がり、成熟した者は自分より幼い信仰の肢体を顧み、建て上げるとき、全教会が共にキリストの満ち満ちた身丈にまで成長することでしょう(エペソ4:13参照)。このような動的な成長こそが弟子訓練を通じて実現されます。弟子訓練は選択肢ではなく、教会が存続し、繁栄するために必須の使命なのです。

5. 弟子訓練学校参加の必要性と人生の変化

ここで御言葉を締めくくりながら、私たちが直接適用すべき部分を考えてみましょう。先に見てきたように、イエス様は私たちを召し、教え、模範を示してくださいました。聖書の人物たちを通して弟子道の模範を見、初代教会の使徒たちの変化と献身、そして教会の成長を見ました。このような御言葉の鏡の前で、今、私たち一人一人が決断する番です。

私たちの教会が始める弟子訓練学校は、まさにこのようなイエス様の命令に従順する実践の場です。弟子訓練学校に参加することは、単に聖書の知識をより多く得るためではありません。私たちはすでに知るべきことは十分知っていますが、実行できないことが問題である場合が多いのです。弟子訓練は頭を満たす勉強ではなく、心と手足で行う訓練です。学び、生活に適用し、互いに点検し合い、励まし合う過程の中で、私たちの信仰は実際の生活の変化へとつながります。

もしかして心に負担を感じていますか?弟子訓練は確かに快適さだけを与えるものではありません。訓練には汗と献身が伴います。時には時間を作らなければならず、宿題もしなければならず、自分の生活の領域を振り返り、罪と弱さに直面して悔い改めなければならないかもしれません。しかし、このような不便さを喜んで受け入れるとき、私たちはようやく主の真の弟子として形作られていくのです。運動選手が訓練の苦痛を通じて筋肉を強化するように、私たちも霊的訓練の過程を通じてキリストの中で成熟していきます。

また、弟子訓練学校は共同体と共に歩む旅路です。一人では簡単にあきらめてしまうかもしれない信仰の実践も、共に行えば力を得ます。互いに祈り合い、真理を分かち合い、挑戦に応答しながら、私たちは共に成長します。イエス様も十二弟子を共同体として立て、共に訓練されたように、私たちもチームを作って学び、従順するとき、大きなシナジーが現れるでしょう。

ですから、私は皆さんに勧めます。まだ弟子訓練に参加することを決断していない方がおられるなら、ためらわずに勇気を持って一歩を踏み出してください。これは結局、主が皆さんを召しておられる場所です。主の招きに「はい、主よ。私は主の弟子になることを願います」と応答してみてください。神は私たちの小さな従順を通じて驚くべき変化を起こしてくださるでしょう。弟子訓練を通じて皆さん一人一人の人生が変えられ、私たちの教会がさらに堅く建て上げられ、さらに神の国のために貴く用いられることを願います。

結論:AI時代のイエス・キリストの弟子たち

最近、あるAI専門家がこのように言いました。「知識と技術の時代は過ぎ去った。今やAIが知識と技術において人間を超えている。しかし、人間にはまだ重要なものが残っている。それは態度である。」

過去には多くの知識を持つ人が成功し、優れた技術を持つ人が認められました。しかし今は、AIが無限に知識を学習し、ロボットが人間よりも精密な技術を実現する時代になりました。

ところで、この専門家が言う「人間に残された最後の影響力」である態度とは何でしょうか。それは「傾聴する態度」、「質問する態度」、そして「謙遜に学ぶ態度」です。

驚くべきことに、これこそがイエス様の弟子たちが持つべき態度ではありませんか。

弟子はまず主の声に耳を傾ける人です。マリアがイエス様の足もとに座って御言葉を聞いたように、弟子は主の御言葉に耳を傾けます。

弟子は質問する人です。ペテロが「主よ、私たちはだれのところに行きましょう。永遠のいのちのことばは、あなたにあります」と尋ねたように、弟子は真理に向かって質問を投げかけます。

弟子は謙遜に学ぶ人です。イエス様が「わたしは心優しく、へりくだっているから、わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」と言われたように、弟子は生涯学ぶ姿勢で生きます。

AIが支配する時代にも、いや、むしろこのような時代だからこそ、イエス様の弟子たちがこの世の希望となるでしょう。なぜなら、弟子たちは単に知識を積み上げたり、技術を磨いたりするのではなく、神の声を聞き、霊的な質問を投げかけ、キリストに似ていく態度で生きるからです。

これこそが私たちが弟子訓練に参加すべき理由です。世界はAIで満ちていくでしょうが、神は依然としてキリストの品性を持つ弟子たちを通して働かれるでしょう。

ですから恐れないでください。知識と技術の時代が過ぎ去っても、キリストに従う弟子の人生は永遠に価値があるでしょう。いや、むしろこのような時代だからこそ、真の弟子の人生がさらに輝くでしょう。

締めの言葉

御言葉を締めくくります。イエス・キリストを信じる者は必ず弟子とならなければなりません。これは私たちの主の命令であるだけでなく、主が自ら歩まれた祝福の道でもあります。主は私たちをただ教会に通う信者に留まるように召されたのではなく、ご自身の品性と働きに似ていく弟子として召されました。弟子となる道は一瞬で完成されるものではありません。それは生涯にわたる動的な成長の過程です。

日々自分の十字架を負って主に従う歩みの中で、私たちはますます主に似ていくでしょう(ルカ9:23)。時にはあきらめたくなることもあるでしょう。しかし、その道の終わりで私たちを迎えてくださるイエス様を仰ぎ見て、再び立ち上がらなければなりません。

私たちの人生に与えられたすべての場所で、イエス様の弟子として生きていきましょう。家庭で、職場で、そして教会で、毎日の生活の中に主の教えを適用し、実践しましょう。御言葉を学ぶことに励み、愛をもって仕え、祈りによって主につながることをやめないようにしましょう。そのように生きるとき、私たち自身が変わるだけでなく、私たちを通して周りの人々が変えられ、福音の力が証しされるでしょう。

最後に、主が約束された御言葉を覚えましょう。「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。弟子の道は主が私たちと共に歩んでくださる道です。私たちが従順して進むとき、聖霊が力を与えてくださり、イエス様が共に歩んで導いてくださいます。ですから恐れずに弟子の人生へと大胆に飛び込みましょう。今日、それぞれの心の中に主の召しに対する決断の応答を捧げることができますように。ただイエス様の栄光のために、私たちすべてが信じる者から真の弟子へと変えられる恵みが満ち溢れますように、主の御名によって祝福します。

アーメン。

 
 
 

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