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日ごとの糧を求める信仰(マタイ6:11)

序論

愛する聖徒の皆さん、今日私たちは主が親しく教えてくださった主の祈りの中から「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください」という祈りについて、ともに見てまいりましょう。この祈りは単純に見えますが、実際には私たちの霊的状態と神との関係を深く表す重要な祈りです。

現代を生きる私たちにとって、この祈りは特別な意味を持ちます。私たちは冷蔵庫と倉庫に食べ物が満ちあふれ、通帳残高が十分にある時代を生きています。それにもかかわらず、なぜ私たちは毎日日用の糧を求めなければならないのでしょうか。これが今日私たちがともに深く黙想すべき核心的な質問です。

1. 人間の罪性:日用のものを超える欲心

神の供給方式と人間の欲心

神はイスラエルの民が40年間荒野で生活した時、毎日マナを降らせてくださいました。これは偶然ではありませんでした。神は日用の糧を与えることによって、ご自身が私たちの父であることを毎日確認させてくださることを願われたのです。

ところが問題がありました。ある人たちは平日にマナを二日分以上取り入れようとしました。彼らは明日を心配し、神の供給を信じることができませんでした。これがまさに人間の罪性です。私たちは日用のものではなく、より多くのものを欲しがります。その理由は供給者である神から独立しようとする罪深い本性のためです。

財物に対する間違った観点

このような罪性は人間をして、本来追求すべき神の名と国と御心ではなく、財物を集めることに没頭させます。財物を集め、集めたものを積み上げ、積み上げたものを見つめて安全感を感じ、それを守ろうと努めた末に、結局それとともに滅びることになります。

聖徒の皆さん、これがまさに私たちが警戒すべき落とし穴です。私たちは神より財物に依存しようとする誘惑を受けています。しかし真のクリスチャンはこの誘惑に打ち勝ち、神のみに依り頼まなければなりません。

2. 神の主権:すべてのことがその方の手にかかっている

供給の源である神

神は私たちの供給者です。生計のためのすべての収入は神が与えてくださったものです。それだけでなく、働くことのできる健康と能力も神が与えてくださったものです。私たちはこの真理を深く悟らなければなりません。

お金と財物が非常に多い人々の中で、病気になって思うように食べることができない人々がどれほど多いでしょうか。生涯お金を稼いで倉庫と銀行に積み上げたけれど、後に病気になって病院の手術費ですべてが出て行ったり、子どもたちが互いに取り分けようと争ったりすることが、私たちの周りでよく起こることではないでしょうか。

これは私たちに何を教えてくれるでしょうか。食べることと享受することが神の主権にかかっているということです。どんなに多くの財物があっても、神がお許しにならなければそれを享受することはできません。

3. 信者の区別:主のために食べないこともできる者たち

管理者としてのアイデンティティ

倉庫と冷蔵庫に食べ物がまだ多く、通帳に残高が多く、家と財物もあるけれど、神に今日の日用の糧を求める人は、神に祝福を受けた人です。すべての聖徒たちは、自分が主人ではなく、主人のものを管理する管理者であるというアイデンティティを持たなければなりません。このような人は、そのすべてが自分のものではなく、所有主は神であることを知っている人です。したがって、それを使うことを神にお許しいただこうとし、神に感謝をささげます。

十分の一の真の意味

十分の一をささげることは、給料や収益金もまた神が与えてくださったものであることを告白する行為です。十分の一を神にささげることは、神に人情を使ったり善行をしたりすることではありません。十分の一を聖く区別して神にささげることによって、残りの九つも神のものであることを告白するのです。そのため十分の一は、神に十分の一をささげることではなく、すべてをささげる最高のコストパフォーマンスである祝福された献身です。しかし、日用の霊性を持つ信者だけが完全な十分の一をささげることができます。

神の主権に対する徹底した認定

倉庫と冷蔵庫に食べ物がまだ多いにもかかわらず、それを使うことについて主に求めることは、神の主権を徹底的に認定することです。これは神が与えてくだされば食べ、与えてくださらなければ食べないという決心です。

アダムとエバの教訓

アダムとエバは神からすべてのものを任意に食べることができる特権を受けました。同時に神は、ただ一つだけは食べてはならないと命じられました。園の中央にある木の実がそれでした。アダムとエバがその木の実を食べてはならない理由は、その実に毒があったり特別な何かがあったからではありませんでした。神が禁じられたからです。

現代人の間違った自由観

今日の人々は、自分が望むままにすべてを食べます。ここで「食べる」という言葉の意味は、単に口で噛んで胃に入れることだけを意味するのではありません。所有したり体験したり楽しんだりすることをすべて含みます。

自分にお金があり能力があるから、したいことはすべてしようとします。旅行をし、ゴルフをし、映画を見て、恋愛をし、ゲームをし、買い物をし、酒を飲み、ギャンブルをし、さらには自殺までします。これを自分の権利であり自由だと考えます。

愛する聖徒の皆さん、皆さんが持っているお金と能力は皆さんのものではありません。

神の子どもたちは、できないからしないのではなく、神が禁じられるからしないのです。神がお望みにならなければしません。

コリント人への手紙第一10章23-31節でパウロは「すべてのことは許されています。しかし、すべてのことが有益ではありません。すべてのことは許されています。しかし、すべてのことが人を成長させるものではありません」と言いました。この御言葉を私たちの心に深く刻まなければなりません。

イエス様の模範

聖霊はイエス様を荒野に追いやられました。イエス様はそこで40日間断食され、お腹をすかされました。悪魔はイエス様に、「神が日用の糧を与えてくださらないではないか」と言って「あなたが自ら石をパンに変えて食べよ」と言いました。このときイエス様は「ただ神が与えてくださる糧だけを求めよう」と言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きるのです」(マタイ4:4)

イエス様は私たちに最も重要なことを示してくださいました。私たちはいくらでも、そしていつでも日用の糧を自ら取ることができる時代を生きています。しかし私たちは、神だけが供給者であることを生活で告白しなければなりません。

4. 「今日」と「私たち」の意味

「今日」の重要性

聖書で語る「今日」は、キリスト教信仰においてとても重要な時間です。まさに救われる日であり、恵みの日です(第二コリント6:2)。昨日や明日ではありません。もし主が来られるなら、明日の夜ではなく今日の夜に来られます。私たちは今日神に礼拝し、賛美し、祈らなければなりません。神は今日ご自身を求める者たちに応えてくださいます。

ヘブル人への手紙3章13節で「『きょう』と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい」と言われています。

「私たち」の共同体性

私たちが求めるべき糧は「私たち」の糧です。神は「私たち」に糧を与えてくださいます。この「私たち」には、この祈りを教えてくださったイエス様もいらっしゃいます。イエス様は五つのパンと二匹の魚で五千人を満腹にされました。神はイエス様を通して「私たち」を満腹にされるという意味です。

今日でも神は、ご自身の国に属する民に日用の糧を与えてくださいます。五つのパンと二匹の魚のような少数を通してでも、多くの人を満腹にしてくださいます。「今日私たちに日用の糧をお与えください」と祈る祈り手は、自分の「五つのパンと二匹の魚」が、あるいは自分自身が五つのパンと二匹の魚となって、多くの人々に「神が与えてくださる糧」となることができます。

5. 真の糧の意味

神の御心を成し遂げるための糧

私たちの日用の糧のために求める祈りは、前の祈りたちと分離されてはいけません。私たちの口に入るものが、単に私たちだけのためのものではないという事実を明確に覚えなければなりません。私たちの身体が主の道具となって、天の御心がこの地で成し遂げられるところまでつながらなければなりません。

もし「これは私が正当に働いて受けたものだから、これで何をしようと私の自由だ」と考えるなら、前の祈りたちを否定することになります。

「御心が天で行われるように、地でも行われますように」という祈りの意味は何でしょうか。祈り手自身がこの地で神の御心が成し遂げられるために、喜んで私自身をあなたの道具としてくださいという祈りです。したがって「今日私たちに日用の糧をお与えください」という祈りは、糧を与えてくださる方の御心を成し遂げるために必要なすべてのことを求める祈りです。

6. 永遠の命のための特別な糧

永遠の今日

誤解してはならないのは、この祈りをささげる者の「今日」は「明日がどうなろうと心配せず、今日食べて死のう」という放蕩で堕落した人々の「今日」とは全く異なる「今日」です。祈り手の「今日」は「永遠の今日」です。今日一日の中に永遠を込めることです。神が与えてくださる日用の糧は、今日一日永遠を生きる者たちのために与えてくださる糧です。

永遠の命のための糧

私たちは日用の糧といって、食事だけを済ませる、空腹だけを満たすものと考えがちです。しかし神は私たちに永遠の命を生きるようにされました。人はご飯を食べて生きますが、人がご飯を食べるために生きるのではありません。旧約聖書のエサウは、食べるために生きる人の代表的な人物です。彼は日用の糧のために永遠のものを放棄しました。それと対照的な人物がまさに彼の弟ヤコブです。彼は永遠のもののために日用の糧を差し出すことを知っていました。

今なぜ私たちが日用の糧を神に求めなければならないかお分かりでしょうか。

ある自動車はハイオクガソリンだけを入れなければなりません。レギュラーガソリンを入れると本来の性能を発揮できない車があります。イエス様はヨハネの福音書6章27節で「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」と言われました。永遠の命を生きるクリスチャンたちは、永遠の命のための糧を食べなければなりません。

いのちのパンであるイエス様

ヨハネの福音書6章32-34、35節でイエス様は言われます。「イエスは彼らに言われた。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセがあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなたがたに天からまことのパンを与えてくださるのです。神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものです。』そこで彼らはイエスに言った。『主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。』イエスは言われた。『わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。』」

イエス様がまさに私たちを永遠の命を生きるようにしてくださる、いのちのパンです。神が私たちに与えてくださる最高のパンがまさにイエス・キリストです。私たちが参加する聖餐がまさに、イエス・キリストが私たちの永遠の命のためのパンとなってくださることを信じて受ける時間です。

7. 結論:日用の霊性を持たなければならない

毎日の訓練

毎日日用の糧を与えてくださる神を信じ、信頼しなければなりません。しかしこれは40年という訓練が必要なほど、私たちの本性に逆らうことなので、聖霊の助けが必要です。

そうです。この祈りは明らかに私たちの本性に逆らってささげる祈りです。すべての主権を神に委ねてささげる祈りだからです。

神の恵みによって生きる生活

食べ物がどんなに多く、財産が泰山のように積まれていても、食べることと享受することは神の恵みによってなされることです。毎日日用の糧を主から受けなければなりません。この祈りは「まず差し出して、再び主から受けること」です。代表的なものが十分の一生活です。十分の一は、自分のすべてが主から受けたものであることを確認させて差し上げることです。すべてのことが許されているようですが、すべてのことが許されているわけではありません(第一コリント10:23)。

私たちはこの祈りを「今日」ささげなければなりません。まさに「今日」が重要です。神は現在の神です(ヘブル3:13)。

まとめ

愛する聖徒の皆さん、日用の霊性は偉大な霊性です。なぜなら毎回の食事を主から受けることができるからです。これは単に食べ物を求める祈りではなく、私たちの全存在を神に委ねる祈りです。

私たちが毎日朝目を覚まして「今日私たちに日用の糧をお与えください」と祈る時、これは単に今日一日食べるものを求める祈りではありません。これは今日一日神の御心を成し遂げるために必要なすべてのことを求める祈りであり、同時に私たちのすべてのことが神にかかっていることを告白する祈りです。

この祈りを通して私たちは神の主権を認め、管理者としてのアイデンティティを確認し、永遠の命のための真の糧であるイエス様を毎日新しく迎え入れることになります。

今日から私たちみんなが日用の霊性を持って生きていくことを願います。毎日毎瞬間神に依存し、神の御心を成し遂げるために私たち自身を道具として差し出す祝福された聖徒たちとなることを、主の御名によって祝福いたします。

アーメン。

「だから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。これらはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイの福音書6:31-33)

 
 
 

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