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私たちの負い目をお赦しください

導入

愛する聖徒の皆さん、 今日私たちが一緒に見る主の祈りの 五番目の祈願は 「我らの罪をお赦しください」です。

皆さんは祈るとき 変な経験をしたことがありますか? 神様の前に出て祈ろうとするのに 心が冷たく、拒絶感を感じる経験のことです。 まるで厚い壁が遮られているようで、 神様が遠くにいらっしゃるような 感じを受けたことがありますか? 罪は神様と私たちの間の交わりを断絶させます。

ある子供が お父さんが大切にしている貴重な植木鉢を 割ってしまいました。 普段はお父さんが仕事から帰って 家に戻ってくると 走って行って抱きついたのに、 その日はお父さんが扉を開ける音に 部屋に隠れてしまいました。 お父さんは相変わらず その子を愛していますが、 子供の罪がお父さんとの距離を 作り出したのです。

神様との関係で最も重要なことは 何でしょうか? まさに「罪の赦し」です。 罪の赦しは神様との交わりを 回復させてくれます。

本論

1. 聖徒の二重的現実

まず私たちは救われた聖徒の現実を 理解しなければなりません。 16世紀の宗教改革者マルティン・ルターは 信者を「罪人であると同時に義人」と 表現しました。 最初は意味がないように思えます。 罪人なら罪人で、義人なら義人なのに、 どうして両方でありえるのでしょうか?

ルターの言葉は 救われた聖徒の二重的現実を 説明するものです。 身分的には義人ですが、 経験的にはまだ罪人の行動をする という意味です。

医科大学を卒業し 医師免許を受けた人がいます。 法的には完全な医師です。 しかし初めての手術を前に 手が震え、診断を下すとき 確信が立ちません。 医師という資格はありますが 経験と実力はまだ不足しているのです。 同様に私たちは神の子という身分は 確実ですが、 実際の生活ではまだ その身分にふさわしい姿を 完全に備えていません。

2. 罪が人間に与えた影響

アダムの堕落以後、 罪は人間に三つの結果をもたらしました。

第一に、すべての人間は 罪責を持って生まれます。 罪に対する刑罰は死、 つまり永遠の地獄です。 まるで生まれるやいなや 地獄行きの列車の切符が 予約されたのと同じです。

第二に、罪の奴隷になります。 奴隷が主人の命令通りに行動するように、 人間は罪の命令通りに 行動するようになります。

第三に、私たちの知性と感情と意志が 罪によって汚染されます。 アダムの堕落以前には 神様をよく知る知性と 神様に感謝する感情と 神様の御心通りに生きようとする意志が ありました。 しかし罪が私たちの全人格を 汚染したのです。

3. 救われた後の変化

それでは罪人が救われると どうなるでしょうか?

第一に、罪責を免除されます。 もはや永遠の地獄には行きません。

第二に、罪の奴隷から 法的に解放されます。 もはや罪の奴隷ではありません。

しかしここで重要なことがあります。 第三に、法的には解放されましたが、 私たちの内にはまだ罪の勢力と 汚染された状態が残っています。 罪が相変わらず私たちの心に 強力な勢力として住みながら 私たちを誘惑します。

道で財布を拾ったとしましょう。 このとき十人中九人は 「拾ったものだからそのまま使おうか? 届け出ようか?」という 心の誘惑が起こります。 そうして救われた信者でも 現実的に罪を犯す可能性が あるようになるのです。

4. 救いの三段階

信者の救いは三段階で成り立っています。

第一に、義認です。 罪の刑罰からの救いで、 イエス様を信じる瞬間に起こります。

第二に、聖化です。 罪の勢力と汚染からの救いで、 生涯にわたって漸進的に起こります。

第三に、栄化です。 罪そのものからの救いで、 信者が死ぬ瞬間に起こります。

5. 日々罪の赦しを受ける必要性

イエス様が十字架にかかって 亡くなられる前日、 弟子たちの足を洗いながら この真理を教えてくださいました。 ユダヤ人たちはサンダルを履いていたため 外を歩くと足が簡単に汚れました。 そこで家でお客さんを迎えるとき 僕がお客さんの足を洗うのが 礼儀でした。

ペテロが「主よ、 私の足を決してお洗いにならないでください」 と言うと、イエス様は 「わたしがあなたを洗わなければ、 あなたはわたしと関係がない」 と言われました。 するとペテロは 「それなら私の足だけでなく 手と頭も洗ってください」 と言いました。 これにイエス様は 「すでに風呂に入った者は 足以外は洗う必要がない」 と言われました。

ここで「全身を洗うこと」は イエス様を信じる瞬間に受ける罪の赦し、 つまり義認を意味します。 「足を洗うこと」は イエス様を信じた後 毎日毎日受ける罪の赦し、 つまり聖化を意味します。

信者は義認を受けましたが、 死ぬ瞬間まで罪を犯す可能性が 大きいです。 そこで日々罪を告白し 洗いを受ける必要があります。

6. 悔い改めと聖化の関係

使徒ヨハネはこう言いました。 「もし私たちが自分の罪を告白するなら、 神は真実で正しい方ですから、 私たちの罪を赦し、 私たちをすべての不義から きよめてくださいます」(第一ヨハネ1:9)

毎日手足を洗わなければならないように、 私たちの魂も毎日洗わなければなりません。 この罪悪な世を生きている間 私たちの思いと言葉と行動は いつの間にか罪によって汚染されます。 罪によって汚染された状態では 聖なる神様と親密な交わりを 持つことはできません。

アメリカ教会史上最も聖なる生活を送った ジョナサン・エドワーズは 自分の自叙伝で このように告白しました: 「私が最初に回心したときより 今の心の状態がもっと悪いと感じます。 もし神が私の罪悪を徹底的に扱われるなら 私は創造以来今まで生きた すべての人々の中で 最も悪い人でしょう。」

これはエドワーズが後退したのではありません。 むしろ神様をより深く知るほど 自分の罪をより明確に見るようになったのです。 私たち信者の聖さの高さは 悔い改めの深さに比例します。

適用

実際、私たちが神様と人格的に 生き生きとした愛と親交を楽しみながら 生きることができない理由は何でしょうか?

私たちが神様の前に悔い改めるべきほど 悔い改めないからです。 先ほどお話しした祈るときの 冷たい拒絶感、 その原因がまさにここにあります。

私たちの教会では毎週日曜日の 公礼拝のとき 公的な悔い改めと赦罪宣言の時間を 持ちます。 この時間がどれほど貴重な時間か ご存知ですか? この時間を通して私たちは 過去一週間の罪を神様の前に告白し、 神様の赦しを宣言されます。 これは本当に福いあることですので 公礼拝に必ず参加してください。

結論

信者たちの悔い改めは イエス様を信じる一瞬間だけ するものではありません。 天国の門に入るまでするものです。 まだ罪の影響を受けますが 私たちは「我らの罪をお赦しください」 と祈ることができます。 そのとき罪によって遮断された 神様との交わりが回復され、 その冷たい拒絶感が消えるでしょう。

罪を犯さないことが 最も良いことです。 しかし罪を犯した場合、 すぐに神様の前に出て 悔い改めてください。 ヨハネの第一の手紙1章9節の 御言葉を信じて祈ってください。 しかしセルフ赦罪はしないでください。 自動販売機にコインを入れて 飲み物を取り出して飲むように 考えないでください。 「私が悔い改めの祈りをしたから 神様は無条件に赦してくださる」 と思わないでください。 公礼拝に参加して 公的な悔い改めの祈りをささげてください。 そして牧師が神様の御言葉宣布として行う 赦罪宣言を通した罪の赦しを 受けてください。

来週の日曜日には 神様に赦されることと 兄弟を赦すことの相関関係について 見てみましょう。 主の祈りの次の句である 「我らに罪を犯した者を 我らが赦したように」について 一緒に分かち合いましょう。

 
 
 

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