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試みの本質と回避する方法

試練の本質と避ける道

本文: マタイの福音書6章13節、サムエル記第一25章32~35節

序論:私たちが誤解している「試練」

愛する聖徒の皆さん、皆さんは教会でこのような言葉を聞いたことがあるでしょう。「最近とても試練に入りました。」この言葉を聞く時、私たちは普通何を思い浮かべるでしょうか?

「ああ、その兄弟が教会で気分を害したのだろう。」「誰かがその方を無視したのでしょう。」「自尊心が傷ついて心が傷ついたようです。」

ところが、今日私たちが学ぶ聖書の「試練」は、このようなものとは次元が全く違います。私たちが教会でよく使う「試練に入った」という言葉は、聖書が語る本当の試練とは程遠いという事実を、まず明確にしなければなりません。

ハザエルの衝撃的な変化

列王記第二8章に登場するハザエルという人の話を聞いてください。アラムの王ベン・ハダデが病気になった時、彼は忠誠な家来ハザエルを預言者エリシャのもとに送りました。

エリシャがハザエルを見て、突然涙を流し始めました。理由を尋ねるハザエルにエリシャは衝撃的な言葉を言いました:「あなたがイスラエルの子孫に行う害を私は知ったからです。あなたは彼らの城を燃やし、壮年の者を剣で殺し、幼い子を叩きつけ、身ごもった女を切り裂くでしょう。」

この言葉を聞いたハザエルの反応は何でしたか?「犬のようなしもべが何者なので、このような大きなことを行うでしょうか?」

ハザエルは本心でした。本当に自分がそのような残酷なことをできるということを想像することすらできませんでした。ところが、本当にその恐ろしいことが起こりました。ハザエルが王宮に帰ったまさにその翌日、彼は王を殺害し王位を簒奪しました。

いったいハザエルに何が起こったのでしょうか?まさにここに聖書が語る本当の「試練」の恐ろしい実態があります。

本論1:試練の二種類 - 神の試練とサタンの試練

神が与える試練

聖書で語る試練には大きく二種類があります。第一は神が私たちを練られるために与える試練です。このような試練は私たちが「この上もなく喜ばしいことと思わなければなりません」(ヤコブの手紙1:2)。

神がこのような試練を与える目的は何でしょうか?

第一に、私たち自身の実態を示すためです。アブラハムを考えてみてください。神はアブラハムに独り子イサクを捧げ物として捧げよという不可能に見える試練(命令)を与えました。結果的にこれを通してアブラハム自身も知らなかった自分の信仰の深さを発見させました。

反対にヒゼキヤを見てください。神はバビロンの使者たちが来た時、ヒゼキヤをしばらく一人にしておかれました。その結果、ヒゼキヤは自分も知らなかった心の中の高慢を現すことになりました。

第二に、神ご自身を示すためです。試練を通して私たちは神の抑制する恵みと新しくする恵みを経験するようになります。パウロがとげを通して「わたしの恵みは、あなたに十分である」という神の御声を聞いたようにです。

サタンが与える試練

ところが、今日私たちが集中して扱うのは二番目の種類の試練です。まさにサタンが私たちを罪に導くために与える悪い試練です。ヤコブの手紙1章13節で「だれでも誘惑に会う場合、神によって誘惑されていると言ってはいけません...むしろ、人が誘惑を受けるのは、自分の欲に引かれて誘われるからです」と言った時のその試練です。

17世紀の偉大な清教徒神学者ジョン・オーウェンは、このような試練をこう定義しました: 「人の心を悪に導いたり心の中にある悪を引き出して神との交わりを持てなくし、従順をできなくすることによって罪を犯すようにすること」

本論2:サタンが試練する方法と試練の本質

サタンの三重攻撃法

サタンはどのように私たちを試練するのでしょうか?

第一に、サタンが単独で攻撃する場合です。サタンが直接私たちの心に悪い思いを入れることです。この時は私たちの欲心や世が全く介入しません。

第二に、世を利用する場合です。サタンがイエス様に「天下万国とその栄光」を見せて試練したように、世の人々と物事を通して私たちを誘惑します。

第三に、私たち自身の欲心と結託する場合です。これが最も危険です。サタンが私たちの心の中にある確実な味方、すなわち欲心と手を組むことです。イスカリオテのユダがまさにこのような場合でした。ユダの貪欲がサタンと結託し、サタンは「ユダに入って」裏切りを完成しました。

核心用語の正確な意味

ここで私たちが必ず区別しなければならない重要な用語があります。

「試練を受けること」と「試練に入ること」は完全に違います。

試練を受けることは避けることができません。イエス様も試練を受けられました。私たちがこの地に住む限り試練は続いて来るでしょう。試練を受けること自体は罪ではありません。

しかし「試練に入る」ということは、試練の罠に落ちて自分では抜け出す方法を見つけることができない状態を言います。まるで深い穴に落ちてどんなにもがいても一人では出ることができない状態と同じです。試練に入るようになると、その時から試練が最も活力的で威力的に私たちを攻撃します。すべての条件が整って試練が私たちの中で頭をもたげる瞬間が来ます。

本論3:試練に入る条件とその危険性

試練に入った状態の二つの条件

それでは、いつ私たちが試練に入ったかをどう知ることができるでしょうか?次の二つの特徴で判別できます。

第一に、サタンが平常よりもっと忙しく動いている時です。サタンは機会を掴むと平常時よりもはるかに勤勉に活動します。私たちの中にある欲心や腐敗が平常よりもっと強く働くようにします。

第二に、どんなに努力しても試練を退けることができない状態に陥っている時です。この時になるとどんなに目を覚ましていても混乱を避けることが困難です。この時、魂は叫んで祈りますが、簡単に救いを受けることができません。パウロも三度まで主に求めましたが応答を受けなかったようにです。

ダビデのバテ・シェバ事件 - 試練に入った者の典型

これを最もよく示す事例がダビデがバテ・シェバを犯した事件です。

ダビデは「神の心にかなう人」でした。ところがある日の夕方、王宮の屋上で散歩していて入浴している女性を見ることになりました。ここでダビデは振り返るべきでした。しかし見続け、人を送ってその女性が誰かを調べました。(サタンが攻撃するのに最適な状況になったのです。バテ・シェバという世の人を利用しやすく、ダビデ自身の欲心と結託しやすいからです。)

まさにこの瞬間が試練がダビデの心の中の情欲と結託した瞬間でした。そしてダビデを完全に捕らえてしまいました。

皆さん、ダビデがウリヤの妻だということを知った時、止めるべきでした。しかし試練はすでに彼を捕らえていました。結果はどうでしたか?姦淫を犯し、それを隠すために嘘をつき、結局忠誠な部下ウリヤを戦場で死なせました。

一度の試練が連鎖的な罪悪につながったのです。これがまさに「試練に入った状態」です。試練が私たちの内面の欲心と出会うと、私たちは全く予想できなかった罪を連鎖的に犯すようになります。

試練に入った者の特徴

試練に入った人にはいくつかの特徴が現れます。

第一に、知性が暗くなります。試練に入った人は以前に持っていたほど事実に対する正確な判断力を持てなくなります。すなわち判断力が曇ります。

第二に、情緒が極度に混乱します。希望、愛、信仰に混乱が生じ、これが知性をさらに暗くします。

第三に、欲望が激動します。試練は欲望に油と燃料を注いで手に負えないほど騒動と騒乱を起こすようにします。

このような状態になると魂は暗くなり、感情はもつれ、欲心は暴れ、救済策は水泡に帰します。

結論:試練に入らないよう目を覚まして祈れ

イエス様の命令

それでは私たちはどうすべきでしょうか?イエス様がゲツセマネの園で弟子たちに与えた命令が答えです:「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」(マタイの福音書26:41)。

主が「私たちを試みに会わせないで」と教えてくださった今日の祈りは選択事項ではなく、必ずしなければならない祈りです。

「目を覚ましている」ということは霊的に警戒し注意することを意味します。敵がいつどのような方法で攻撃してくるかわからないので、常に準備している状態です。

「祈る」ということは私たち自身の力では試練に勝つことができないことを認め、神の助けを求めることです。

ダビデとナバルとアビガイルの教訓

試練に入ろうとする時に試練に入らないようにする方法があります。これをよく示す話がダビデがナバルから侮辱を受けた時の話です。

ダビデの部下たちがナバルの羊を保護してあげたのに、ナバルが完全に侮辱的な言葉でダビデを拒絶しました。試練を受けました。ダビデは怒りました。「各自剣を帯びよ!」四百人の部下たちと共にナバルを殺しに向かいました。この時ダビデは完全に試練に入っていました。復讐心という欲心が試練と結託してダビデを捕らえました。もしそのまま行ったならダビデは無実の人たちまで殺す大きな罪を犯したでしょう。

ところがまさにその時、神がアビガイルを送られました。

アビガイルの役割 - 試練を防ぐ神の道具

アビガイルはダビデに会うと地にひれ伏して拝み、知恵のある言葉でダビデを説得しました:「主が私の主君にお約束になったすべての良いことを成し遂げ、私の主君をイスラエルの指導者に立てる時に、罪もない血を流したとか、私の主君がご自分で復讐されたということで悲しまれることも、心にかかることもありませんように...」

アビガイルはダビデの心の中に神の契約を思い起こさせました。まるでイエス様が弟子たちに彼らの状態と弱さと危険を知らせたように、アビガイルはダビデにそれと同じ良いことを行いました。そして「目の前に迫った破滅を避けるようにしてくれました。」

アビガイルの知恵ある言葉を聞いたダビデははっと正気に返りました。「イスラエルの神、主がほめたたえられますように!きょう、あなたを遣わして私を迎えさせてくださったことも、ほめたたえられますように!あなたの判断力もほめたたえられますように!きょう、あなたは私を止めて、血を流すことから、手ずから復讐することから救ってくれました!」

聖霊の役割と私たちの役割

聖徒たちが聖霊の助けを受けて祈りを捧げる時に、聖霊はアビガイルがダビデに行ったことと同じことを行われます。

聖霊の満たしを受けた聖徒は自分の中にある腐敗を調べるようになります。これが神が与える試練の目的です。そのように腐敗を調べる時に、その中で神の恵みを見るようになります。このように自分の魂がいつも不確実な状態にあることを知り、「試練に入らせないでください」と祈ることができるようになります。

私たちの使命 - 互いにアビガイルになれ

聖徒は今やアビガイルのような人にならなければなりません。すでに神を信じる人たちにはその中に神の言葉が思い起こされるようにしなければなりません。それで信仰の人たちは会えば神の御言葉だけを分かち合わなければなりません。そうすることによって互いにアビガイルになります。

皆さん、私たちの周りを見てください。今、試練に入ろうとしている兄弟姉妹がいませんか?怒りに捕らわれていたり、欲心に目が曇っていたり、高慢に陥っている人がいませんか?

彼らにアビガイルになってあげてください。知恵があり愛らしい勧めで神の契約を思い起こさせてあげてください。「兄弟よ、神があなたのためにどのような計画を持っておられるか覚えてください。このようなことでその計画が損なわれても構わないでしょうか?」

最終勧め

愛する聖徒の皆さん、試練は私たちが思うよりもはるかに恐ろしく狡猾です。忠誠なハザエルを一日で残酷な殺人者にできるほど強力です。

しかし私たちには希望があります。主が「目を覚まして祈れ」と命じられ、私たちが目を覚まして祈る時、聖霊がアビガイルのように私たちを助けてくださいます。

今日から三つのことを決断してください:

第一に、毎日「私たちを試みに会わせないで」と切に祈ってください。これを形式的な祈りではなく、切実な願いとして捧げてください。

第二に、自分の弱さを謙遜に認め、常に目を覚ましていてください。「私は大丈夫だ」という考えこそが最も危険な考えです。

第三に、互いにアビガイルになってあげてください。兄弟姉妹が試練に入ろうとしている時、神の御言葉で彼らを目覚めさせる使命を果たしてください。

ハザエルにならないようにしましょう。ダビデのように試練に入って倒れないようにしましょう。代わりにアビガイルのように互いを試練から救い出す美しい共同体になりましょう。

「誘惑に陥らないよう、目を覚まして祈っていなさい」- これが今日私たち皆に与えられる主の命令です。

 
 
 

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