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読書会 第1回 本文(2026.10.18)

10월 17일
6분 분량

題辞

「悪魔を追い出す一番よい方法は、もし悪魔が聖書の言葉に従わないなら、彼をあざけり、馬鹿にすることである。なぜなら、悪魔は軽蔑に耐え得ないからである。」

— ルター


「悪魔……高慢なる霊……は侮りを忍び得ない。」

— トマス・モア



序

今ここに公開する書簡がどうしてわたしの手にはいったか、そのいきさつを説明するつもりはない。

悪魔に関して人間は二つの誤謬におちいる可能性がある。その二つは逆方向だが、同じように誤りである。すなわち、そのひとつは悪魔の存在を信じないことであり、他はこれを信じて、過度の、そして不健全な興味を覚えることである。悪魔どもはこの二つを同じくらい喜ぶ。すなわち、唯物主義者と魔法使とを同じようにもろ手を挙げて歓迎する。この本に使用されているような種本は、一度そのこつを覚えた人は誰でも容易に手に入れることができるが、たちの悪い人や、興奮しやすい人たちは悪用するかも知れないから、わたしは教えるわけにはいかない。

悪魔は嘘つきだということを読者は忘れないように願う。スクルーテイプの言葉が全部彼自身の角度から見ても真理なのだと仮定されてはならない。手紙に出てくる人間たちのどれが現実の誰に当たるか、つきとめようとはしなかった。しかし人物描写、例えばスパイク師や患者の母親の人物描写が全面的に正しいとは到底言えないと思う。地獄にも地上と同様、手前勝手な思いこみというものがある。

終りに、手紙の年代順をはっきりさせるために努力が払われなかったことを付記せねばならない。第十七信は食糧事情が重大になる前に書かれたようである。しかし、地獄の日付法は地上の時間と概して関係がないように思われるので、わたしはそれをあえて再現しようとしなかった。

ヨーロッパ戦争史は、たまたま一人の人間の精神状況に時折はね返ってくる場合は別として、スクルーテイプには興味がなかったことは明らかである。

一九四一年七月五日 モードリン学寮にて C・S・ルイス



第一信

親愛なるワームウッド君。

君が患者の読書を誘導し、唯物主義者の友人としげしげ会うように気を配っていると言っている点にひっかかる。君はいささか〈うぶ〉に過ぎはしないか。まるで〈論証〉こそ彼を敵の魔手から護る道だと考えているように思われる。彼が二、三世紀前の人間だったら、あるいはそうだったかも知れない。その頃はまだ人間はあることが証明された場合と、されない場合と、かなりよく区別がついていた。そして証明されればそれを本当に信じた。思考と行為を結合し、一連の推論の結果としてまだ生活態度を変えようとする心構えがあった。

しかし、われわれは週刊誌その他の同じような武器でこれを多分に変えてしまった。君の患者は、子供の時分から、互いに矛盾する一ダースもの哲学が頭の中でいっしょに跳ねまわるのに慣れっこになってきた。彼は、教説が第一義的に「真理である」か「虚偽である」かの観点からは考えずに、「学問的」か「実際的」か、「時代遅れ」か「当世風」か、「月なみ」か「どぎつい」かで考える。論証でなくて、わけの分からない学術語が彼を教会から遠ざけておくのに一番よい君の味方である。唯物論は〈真理〉であると思わせようとして時間を浪費し給うな。唯物論は強靭である、堅固である、勇敢である――これこそ未来の哲学であると思わせなさい。彼が気にするのはそういうことなのだ。

論証が困るのは、敵の土俵で相撲をとることになるからだ。敵にも理屈が言える、だが、私が今提案しているような本当に実際的な宣教活動では、敵は地獄にいますわれらの父にはるかに劣る者であることを何世紀もの間示してきた。論ずるという行為そのもので君は患者の理性を目ざませる。一度理性が目を覚ませば、結果がどうなるか誰にも予言できない。たとえある特定の連想を、一旦はわれわれに都合のよいようゆがめることができるにしても、君は患者の心に普遍的問題に注目するという致命的習慣を強化し、直接的な感覚経験の流れから彼の注意を引き離していたことに気づくだろう。君の仕事は、この流れに彼の注意を釘づけにすることである。その流れを「真の生活」と呼ぶように教えてやりなさい、そして「真の」とはどういう意味なのか問わせないようにしなさい。

彼は君のように一〇〇パーセント霊的存在ではないことを覚えておきなさい。君は一度も人間になったことがないので(ああ、敵のあの胸くそ悪い優位よ!)どんなに彼らが日常茶飯事の圧力に屈しているか分からない。

昔私に一人の患者がいた。したたかな無神論者で、よく大英博物館で読書をしていた。ある日、彼が本を読んでいた時、わたしは彼の頭の中の一連の思考が具合の悪い方向をとり始めたのに気がついた。敵はむろんすぐさま彼の側にいた。あれよあれよと思う間に、二十年にわたるわたしの仕事がぐらつき始めるのを見た。もし度を失って論証でもって防戦し始めたら、わたしはしてやられていたことだろう。だがわたしはそれほど馬鹿ではなかった。すぐさまわたしの一番強力に支配できる部分を攻撃し、ちょうど昼飯を食べる時刻だと言ってやった。敵も多分、これは昼食よりも重大だという反対提案をしたようだった(君も知るとおり、敵が人間共に語る言葉を〈完全〉に立ち聞きすることなどとてもできない相談である)。少なくともそれが彼のやり口だったに相違ないと思う。というのは、わたしが「全くその通り。午前の終りに取り組むにはちょっと重大〈すぎます〉よ」と言うと、患者はかなり晴ればれとなり、「昼飯をすませて戻ってきて、新鮮な気持で取り組む方がいいですよ」とわたしが言い足す頃には、彼はすでに戸口まで行きかけていた。一度通りへ出ればもうしめたものだ。わたしは彼に、昼刊を大声で売っている新聞売りの少年や、七十三番バスが通過するのを見せてやった、そして階段を降り切る前に、本を読みながら独り閉じこもっている時に、頭の中にどんな変な考えが浮かんでも「実生活」(バスや新聞売子のことを彼は言っているのだが)の健康な一服を飲めば、「ああいうこと」は皆決して本当であるはずがないことを彼に十分分からせてくれるものだという不変の確信を彼の心に植えつけた。彼は危いところを助かったことを知り、後年、「純粋論理の間違いからわれわれを究極的に護ってくれるあの言葉にならぬ現実感覚」について、好んで語っていた。彼は今は無事にわれらの父の館にいる。

言わんとするところが分かり始めたかな。何世紀も前からわれわれが彼らの中に仕掛けておいた働きのおかげで、彼らは見なれたものが目の前にある間は、見なれないものを信ずることはほとんど不可能と思うようになっている。物事の〈通常性〉を肝に銘ずるよう説きつづけなさい。

とりわけキリスト教を防ぐために科学(真の科学のことだが)を使ってやろうとしてはいけない。科学は手に触れず、目に見えない実在について考えるよう彼を積極的に奨励する。その悲しむべき例が現代物理学者の中にあった。もしどうしても科学に手を出したがるならば、彼を経済学と社会学に引きとめ、貴重この上ない「実生活」から離れないようにしてやりなさい。

しかし一番いいのは、科学など読ませずに、そんなこと先刻承知だと思わせ、たまたま聞きかじったり、目に触れたものが全部「近頃の研究の成果」なのだという壮大な一般観念を彼に与えることだ。君は彼をばかすためにそこにいることを忘れてはいけない。君たち若い悪魔のある者たちの話しぶりを聞くと、〈教える〉のがわれわれ悪魔の仕事だと、誰しも思うだろう。

君の愛情深い叔父 スクルーテイプより

 
 
 

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