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赦す時にこのすべての祈りが成就されます

(マタイによる福音書6章12節)

わたしたちに負い目のある人をわたしたちが赦しましたように、わたしたちの負い目をもお赦しください

導入:主の祈りの本質

古代ギリシャ文献に記録された話の一つです。スキルルスという王がいました。彼には80人の息子がいましたが、息子たちはいつも互いに争い、分裂していました。王が死ぬ日が近づくと、息子たちを皆呼び集めました。そして棒を何本も紐でしっかりと束ねた一束を差し出して言いました。

「これを折ってみなさい。」

息子たちが順番に出て、全力で折ろうとしましたが、誰も折ることができませんでした。すると今度は王が紐を解いて、棒を一本ずつ分けて与えました。

「これを折ってみなさい。」

今度はどうなったでしょうか?すべての息子が簡単に折ることができました。王は言いました。「見なさい。お前たちが一つに束ねられれば、世のどんな力もお前たちを折ることはできない。しかし、分裂すれば簡単に崩れる。」

私たちの主が教えてくださった祈りの文は、いくつかの祈りの集まりではありません。一つに束ねられた完全な祈りです。しかし、多くのクリスチャンたちが主が教えてくださったこの祈りを、まるで棒の束をほどいて一本ずつ別々に折ろうとするように祈っています。

主の祈りは、いくつかの祈りを編集したものではありません。イエス・キリストにあって一つに統合される完全な祈りであり、一つの祈りそのものです。「天にまします我らの父よ」で始まって「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」で終わるこの祈りは、すべての内容がイエス・キリストにあって一つに重なり合います。

I. 主の祈りが分解される理由(問題診断)

しかし、少なくない聖徒たちが主の祈りを捧げる時、祈りが一つにつながらず、途中途中で途切れる経験をします。各節がばらばらになり、全体的な一体感を感じることができません!これは主の祈りを知らないからではありません。単純な理解の問題ではありません。原因は祈る者の生活、そして信仰の本質と関連しています。

主の祈りの祈りが、ある人には一つに重なり合わず、ばらばらに分解される場合があります。

皆さんはいかがですか?皆さんが主に学んだこの祈りを捧げる時、どのような経験をしますか?すべての祈りが一つにつながっていると感じますか?それとも途中途中でつっかえて途切れる経験をしますか?

回答と説明

誰がこの祈りを一つの祈りとして認識できないのでしょうか?

1) 天と地の分離

生活が天と分離している人は、主の祈りを一つの祈りとして認識できません。

天で神が行われることと、地で私が行うことの間のつながりがありません。途切れています。このような人にとって祈りは実際にはこのようです。「天にまします我らの父よ、父の御名と父の御国と父の御心は父がよろしくなさってください。私の名前と私の国と私の意志は私がよろしくやります。国と力と栄えとは、限りなく父のものなればなり。私の国と力と栄えも永遠にしてください。」

主の祈りは天と地を出会わせる祈りです。祈る者自身が天に属していないなら、その人にとって主の祈りは限りなく軽い空想であり、独り言に過ぎなくなります。

2) 弟子ではない身分(自己中心的な生活)

誰がこの主の祈りを一つの祈りとして認識できず、分解するのでしょうか?信じると言いながら、実際にはキリストに従わない者たちです。自分の名のために生きる者たちであり、自分に与えられた力を自分の権威と自分の意志のために注ぐ者たちです。このような人々は主の祈りを口では真似することができるかもしれませんが、このすべての祈りが自分の内におられるイエス・キリストにあって一つの祈りとして完成されることを経験できません。

主の祈りは正確に言えば、イエスが弟子たちに与えられた「弟子たちの祈り」です。もし皆さん自身がイエス・キリストの弟子としてのアイデンティティを持たないなら、事実上この祈りは皆さんのものではありません。

II. 赦しの躓きが与える教訓(核心問題の発見)

三番目、主の祈りで止まる地点

今からお話しする三番目は、今日の説教で最も核心的な部分です。

主の祈りをしてみてください。「天にまします我らの父よ、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を今日も与えたまえ。我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく...」

多くの人がここで止まります。大きな躓きを感じます。心の中で何かにひっかかります。それでもう前に進むことができません。

なぜそうなのですか?赦されることは願うが、他人を赦すことを拒否する、まさに私自身が、主の祈りをばらばらに散らしてしまう張本人ではないですか?

「他人を赦せない時、結局他の祈りも詰まってしまいます。」

1) 赦しは主の祈りの核心的なつながり

赦せない心こそが、主の祈りのすべての祈りを妨げるダムのようなものです。

私たちの信仰で天と地が分離するようにするもの、主の祈りの主語である一人称複数「我ら」の中に入れなくし、依然として「私とあなた」で遮る障害物、それでついに主の祈りの祈りが一つになれず解体され分解されて分かれるようにするもの、それはまさに「赦せないこと」です。

主の祈りは父の国に属する者たちが、その国がこの地に成就されることを願って捧げる祈りです。

マタイによる福音書18章を見ると、一人のしもべが王に一万タラントという天文学的な借金を帳消しにしてもらいました。ところが、そのしもべが自分に百デナリの借金をした同僚を赦さず、牢獄に入れました。

このしもべの愚かさは何ですか?

この譬え話は単純な赦しの話ではなく、「その赦しによって理解される」王とその方の国の属性に関するものです。この話の中の王はどのような王ですか?赦す王です。その王の国は赦しの国です。このしもべの最も大きな問題は、自分の王の国が赦しの国であるという事実を認識できなかったことです。

この国で、王の赦しが自分を通して流れなければならないということを悟れなかったのです。彼は自分に借金をした者を王の赦しの中に招待すべきでした。赦すことによって王の国を拡張させるべきでした。

ここにおられる聖徒の皆さんは皆、王でいらっしゃる神に莫大な帳消しを受けた者たちです。私たちは赦すことによって、天にいます私たちの王の御名と御国と御心がこの地に現れるようにしなければなりません。

しかし、もし私たちが赦せないなら、どうなりますか?それは神の恵みの流れを勝手に妨げる悪い行為になります。それで主の祈りの他のすべての祈りも詰まってしまうのです。

2) 赦しなしには他の祈りも不可能

これは主の祈りが有機的一体であることを示しています。血管が詰まると全身に血が回らないように、「赦し」で詰まると主の祈りのすべての祈りが詰まります。

赦さない者は神の赦される性品を隠し歪曲させるため、従って彼を通して神の御名があがめられることはありません。

赦しのないところには神の国の平和と義と愛が臨むことはできません。従って神の国が臨むことはできません。

赦せない者は自分の恨みと怒りを神の御心よりも大切にするため、神の御心が成就されることはありません。

受肉された私たちの主が十字架の上で示されたものを見てください。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。主の祈りはその方の生活であり、その方の生活は主の祈りの完全な実現です。

III. 赦しを通した祈りの完成(解決策と核心宣言)

背景:赦しの驚くべき力

今私たちは解決策に到達しました。主の祈りが分解される問題も、祈りが詰まる問題も、すべて赦しを通して解決されます。

赦しは単純に主の祈りの一節ではありません。赦しはすべての祈りを一つにつなぎ、天と地を結ぶ橋であり、神の国をこの地に実現させる通路です。

核心質問:赦す時すべての祈りが成就されるという命題には隠された秘密があります。

回答と説明:赦しを通した天と地のつながり

赦しは神の本性を最も完全に現す行為です。

地が天を包むことはできません。天が地を包みます。私たちは天の神から赦しを受けました。そのように天から抱かれた人々です。天の父が地にいる私たちを赦して受け入れてくださったように、私たちはその受けた赦しで私たちの隣人を包むことができます。そのように私と皆さんを通して天が地を包みます。

その赦しの現場に天が臨みます。私が赦すのではなく、私が受けた赦しの中にその人たちを招待するのです。私の国ではなく神の国に招待するのです。私の名で赦すのではなく、私を赦してくださった父の御名で赦すのです。

これが御心の天になるごとく、地にもなされるようにする方法です。

赦しを通した神の国の実現

赦しを通して神の国が実現されます。神は本質的に赦される方です。私たちが赦す時、私たちは神の形を最も完全に現すようになります。その瞬間、神の御名があがめられ、神の国が臨み、神の御心が成就されます。

主の祈りに出てくるこの「赦し」は私たちから始まるものではありません。この「赦し」は主の赦しです。人間の本性ではできない赦しがイエスの弟子たちの中で起こります。その時、人々は赦す彼らの中に神の存在と力を目撃するようになります。敵を愛し、害を与えた者を赦す姿に、この世とは異なる次元の力、すなわち神の国の力が現れます。

キリストとの結合

福音とは何ですか?罪の赦しの喜ばしい知らせです。私たちが誰かを赦す時、私たちはその人に福音を伝えているのです。

赦しを通してキリストの働きに参与します。

私たちが赦す時、私たちは十字架で「彼らをお赦しください」と祈られたイエス様と結合してその方の働きに参与するようになります。

私に悪いことをした人を赦すために、私たちは死んで、また死ななければなりません。全身が血まみれにならなければなりません。しかし、この血は私の血ではなくキリストの血です。私のために死なれたイエスと共に死に、イエスと共に再び生かされた聖徒は天から生まれた者となります。そのように地を包んだ天の人となります。どこでも天の国にする人です。

結論:赦しを通した新しい生活

愛する聖徒の皆さん、旧約のヨセフは兄たちに売られて人身売買となり、一夜にして奴隷となり、その後無実の濡れ衣を着せられて牢獄にまで入れられました。普通の人々なら兄たちは死んでも赦せない対象でした。しかし、後にエジプトの総理となった後、飢饉で訪ねてきた兄たちの前でヨセフが言った言葉を聞いてください。

「あなたがたは私を害しようと思ったが、神はそれを善に変えて、今日のように多くの民の命を救おうとされたのです」(創世記50:20)

見てください。赦しの主体がヨセフ自身ではないことを明確に言っています。神のより大きな救いの計画があり、自分の赦しがその計画を成し遂げる道具であったことを悟りました。

もしヨセフが赦せず、個人的な恨みに縛られていたらどうなったでしょうか?イスラエルの民が飢饉で滅亡したでしょう。神の契約の成就に支障が生じたでしょう。しかし、ヨセフが神の観点から、神の御名と御国と御心が成就される観点から赦しを理解しました。そして、そのように兄弟たちを赦すことによって神の救いの歴史が完成されました。

これがまさに主の祈りで言う赦しです。私の名で赦すのではなく父の御名で、私が受けた赦しの中にその人を招待することです。その時、神の御名があがめられ、神の国が臨み、神の御心がこの地でも成就されます。

「赦す時にこのすべての祈りが成就されます。」

皆さんもヨセフのように神のより大きな計画を見てください。皆さんの赦しを通して神が成し遂げようとされることが何かを見てください。その時、皆さんの赦しは単純な個人的行為を超えて神の国を拡張させる驚くべき通路となるでしょう。

愛する聖徒の皆さん、今日私たちは驚くべき真理を発見しました。

「赦す時にこのすべての祈りが成就されます。」

「赦す祈りにこのすべての祈りが込められています。」

赦しが主の祈りを完成させます。赦しを通して神の御名があがめられます。赦しを通して神の国が臨みます。赦しを通して神の御心が地でも成就されます。

具体的適用

今日、皆さんが赦すべき人がいますか?その人の顔が浮かびますか?

赦しは感情の問題ではありません。私たちが属する国は赦しの国です。まず赦すことを決心してください。

今日この説教を聞いて家に帰って、一人の人を赦すことを決心してください。その時、皆さんは真の主の祈りを捧げるようになるでしょう。「主よ、私はその人を赦すことができません。しかし、主が私を赦してくださったように、主の御名でその人を赦します。」

主の祈りが皆さんの祈りとして統合された祈り、一つの祈りとして用いられることを切に祈ります。

 
 
 

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