top of page

「天にいます我らの父よ」

「天にいます我らの父よ」

本文:マタイの福音書6章9節

序論

ローマのバチカン市国にはシスティーナ礼拝堂という場所があります。教皇を選出するコンクラーベがここで行われます。礼拝堂の平面は長さ40.23m、幅13.41mで、これはソロモンのエルサレム神殿の寸法をそのまま模したもので、バチカンがエルサレムに代わる新しい神殿であると主張するためだと言われています。しかし、システィーナ礼拝堂が本当に有名な理由は別にあります。

1508年、教皇ユリウス2世がミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井に絵を描いてほしいと依頼します。しかし、ミケランジェロは自分は彫刻家であって画家ではないと言って拒否しました。しかし、ユリウス教皇の継続的な要請により、結局4年後、ミケランジェロは人類史上最も偉大な傑作を完成させることになります。

興味深いことに、この作品の構造をご覧ください。天井の中央には神がアダムを創造される場面があり、その周りに旧約の預言者たちが配置されています。しかし、私が注目するのは観覧者の視線です。この礼拝堂に入ったすべての人は、自然とどこを見るようになるでしょうか?当然、頭を上げて上を見上げるようになります。その中央にある創造主なる神をご覧になります。ミケランジェロは単に絵を描いたのではなく、人間の視線を天に向けさせる神学的装置を作ったのです。

愛する兄弟姉妹の皆さん、「天にいます我らの父よ」という主の祈りの最初の句は、ミケランジェロの天井画と同じです。世に埋没していた私たちの視線を天の御座に強制転換させる霊的建築術です。

しかし、問題があります。私たちは果たしてこの祈りが何を意味するのか、正しく理解しているでしょうか?

1. 主の祈りは主が先に始められた祈りを続けるものです

主が教えてくださったこの祈りは、私たちが先に始める祈りではありません。私たちは主が始められた祈りに応答するのです。

相手と交渉をする時、賢明な人々は自分が望むことを先に言いません。代わりに相手が自分にしてくれることが何なのかをまず把握します。そうして望むものをより早く、より効果的に得るようになります。一方、大部分の人々は自分が望むことから並べ立てます。この場合、望むものはおろか、相手が与えることのできる有益なものすら何も得られない可能性があります。

祈りにおいても同様です。奥の間に入って密かに祈る私たちは、どのように祈りを始めるべきでしょうか?多くの人々が祈る時、自分の欲求不満足から始めます。自分の意志と計画を先に並べ立てます。そして最後に気まずい心で「私の思い通りにではなく、父の御心のままになさってください」という祈りを付け加えます。そうしながら、まるで自分が寛大な人にでもなったかのように思います。

しかし、ヤコブの手紙4章3節はこのように警告します。「求めても受けられないのは、情欲のために使おうとして、悪く求めるからです。」

私たちの堕落した本性は、真の自分が誰なのかを知りません。大部分の人々が自己実現を夢見ますが、実際には他の人々が享受する名誉や人気、財物を欲望するだけです。このような欲望は自己実現はおろか、他者との葛藤を増幅させるだけです。

それでは、私たちは神が先に始められたこの祈りをどのように続けていくべきでしょうか?当然、先に始められた神の助けが必要です。聖霊は私たちの内で肉体の欲に逆らわせ、神の御心に従わせてくださいます。聖霊は私たちの意志を無理やり制圧されるのではありません。むしろ神を愛するようにし、神を喜ぶようにしてくださいます。イエス・キリストにあって真の自我を取り戻させ、聖霊の内住と交わりによって真の自己実現が成されるようにしてくださいます。

他の宗教の祈りは、神々を自分の欲望の場所に引きずり下ろそうとします。自分の理解範疇の中でのみ捧げられる祈りであり、自分の満足と喜びのための祈りは、実際の祈りの対象には関心を持ちません。

しかし、私たちの主が教えてくださった祈りは、神の御前に進み出る祈りです。地から始まる祈りではなく、天から始まる祈りです。これを可能にしてくださった方がイエス・キリストであり、聖霊なのです。イエス様は私たちが神をアバ父と呼ぶことのできる地位と資格を与えてくださり、聖霊は私たちの内に内住し、交わりによって神をアバ父と叫ぶようにしてくださいました。

2. 主の祈りは神が私たちをご自分の天の御座に上げてくださる祈りです

Sursum Corda - 心を上げよ

初代教会から受け継がれてきた聖餐式において、司式者は「Sursum corda」(スルスム・コルダ、心を上げよ)と叫び、会衆は「Habemus ad Dominum」(ハベムス・アド・ドミヌム、私たちは主に上げます)と応答しました。天から始まる聖餐、天から出発する祈り、これが主の祈りの精神です。

マタイの福音書が最初から非常に強く叫んでいることが、まさにこれです。天から始まる救いと回復。

マタイの福音書3章を見ると、400年間の長い神の沈黙を破るラッパの音が響きます。バプテスマのヨハネが叫びます。「悔い改めよ。天の御国が近づいたから!」

天の御国が来ました。ギリシア語で「ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν(ヘ・バシレイア・トン・ウラノン)」、つまり「天の統治が近づいた」。今、世の主導権が移りました。天の統治者がこの世を回復させるために来られました。天から国と権勢と栄光を持って来られた方は誰でしょうか?まさにイエス・キリストです。

マタイの福音書で「天」という言葉「ウラノス」がどれほど重要かご存知ですか?新約聖書全体に274回登場するこの言葉の30%である82回がマタイの福音書に記録されています。四福音書に範囲を限定すれば約53%がマタイの福音書に現れます。それほどマタイの福音書は全体が「天」に集中しています。

マタイにとって天が特別な理由は、神の王権が始まる場所だからです。ここで王権とは「国」とも翻訳される「バシレイア」です。そのため「ウラノス」と「バシレイア」が一緒にセットで言及される本文がかなり多くあります。「ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν(ヘ・バシレイア・トン・ウラノン)」これを翻訳したのが「天の御国」です。

イエス様は天から来られた方です。これを証明するのが聖父と聖霊です(マタイ3:16,17)。イエスがヨハネからバプテスマを受けられ、水から上がられる時、聖霊が鳩のように天から降って来られました。そして天から声が聞こえました。「これは、わたしの愛する子である。」聖父と聖霊が同時に聖子を証言する場面です。これは聖子が天から「バシレイア」を持って来られた方、いや「バシレイア」そのものが来られたことを証言するものです。教義学者カール・バルトはこのように描写しました。「イエス様は天から降って来られた天である。」

主にあって捧げられる主の祈りは、いつの間にか私たちを天にいます王の御座に導きます。堕落した人間は神から遠ざかりました。アダムとエバが罪を犯すと、神から自分たちを隠して隠れたことを覚えてください。イザヤ預言者とエゼキエル預言者が幻の中で神の栄光を見た時、天使たちさえ自分たちの全身を翼で覆っていました。罪人はこの上なく神の前に立つことができません。

ところが、主が教えてくださる祈りは、すぐに私たちを「天にいます」神のもとに導いてくださいます。ここで神と私たちの間に小羊イエス・キリストが仲保者としていてくださることを忘れてはなりません。

主の祈りはエスカレーターのようなものです。主の祈りによって私たちは全世界の統治者である神の天の御座に上ります。この御座は全世界のコントロールタワーです。この御座から全世界に対する統治が行われます。空の鳥一羽も、各人の髪の毛一本も、このコントロールタワーの統制を受けます。

天にいます神に出会うと、この偉大な神の御心と計画を知るようになります。例えば、主の祈りで祈る人は、神の国の作戦本部の会議に参加するようなものです。何も考えずにスリッパを履いて来たのに、突然、最後の審判作戦会議に参加することになったのです。

ここに満ちているのは三位一体の栄光であり、聖さであり、御心です。この栄光と聖さと御心は、天にだけあるべきものではありません。神が太初にこの地を創造された時、エデンにあったものです。しかし、人間が罪を犯し堕落して追い出されました。神の栄光の形に造られた人間の姿が歪められ、歪められた人生によって全世界は罪悪と搾取と貪欲と戦争で壊れてしまいました。

主の祈りは、神の聖なる御名と御国と権勢と栄光を、この地に再び降らせる大局的な祈りです。そのため主の祈りをする時、私たちは心を上げなければならず、天から捧げる祈りであることを知らなければなりません。「スルスム・コルダ」私たちの心を高く上げるのです。

3. 主の祈りは個人のものではなく、共同体が共に捧げる祈りです

マタイの福音書の主の祈りがルカの福音書の主の祈りと区別される核心的違いは、「我ら」(ἡμῶν、ヘモン)という複数代名詞の使用です。これは祈りの本質に関する根本的な神学的宣言です。

個人主義が極度に発達した現代西欧社会において、祈りはしばしば個人的宗教体験に縮小されます。「私と神との個人的関係」という表現がこれをよく表しています。しかし、聖書の祈りは最初から共同体的です。

バルトは『教会教義学』IV/2で次のように言いました:「キリスト者は一人で祈らない。彼は常に教会と共に、教会のために、教会として祈る。」これが「我らの父よ」の意味です。

私が「日用の糧をお与えください」と祈る時、それは私だけの必要を求めることではありません。私たちは「我らの日用の糧をお与えください」と祈らなければなりません。それは全世界の飢えた者たち、迫害を受ける教会、苦しむ聖徒たちと連帯して捧げる祈りです。

主の祈りには「私」という言葉が一度も出てきません。すべてが「我ら」です。これがまさにキリスト教の祈りの精神です。利己的な祈りはキリスト教的祈りではありません。

1960年代のアメリカのある牧師に起こった実話です。その牧師の幼い娘が重病にかかって病院に入院しました。医師たちは子どもの生命が危険だと言いました。牧師は一晩中祈りました。「神よ、私の娘を生かしてください。私は主に仕える僕です。」しかし、子どもの状態は良くなりませんでした。

ところが、その夜、病院の廊下で牧師はもう一人の親に出会いました。貧しい移民家庭の親で、彼らの息子も同じ病気で入院していました。ところが、彼らには治療費がありませんでした。牧師はその瞬間気づきました。自分が「私の娘」だけのために祈っていたということを。

牧師はその夜から祈りを変えました。「天にいます我らの父よ、この病院にいるすべての子どもたちを癒してください。貧しい家庭の子どもたちにも治療の機会をお与えください。」そして自分が持っているものをその家庭と分け合い始めました。

驚くべきことに、その後、二人の子どもとも回復しました。しかし、より重要なのは牧師が悟った真理でした。祈りは神に私の要求を貫徹させることではなく、神の心を知り、その方の御心に参与することだという事実でした。

主の祈りは弟子たちの祈りです。この祈りは私の必要を超えるこの世の必要を求める祈りです。世の必要は世が満たすことができません。ただ三位一体だけがこれを満たし、回復させてくださいます。

結論

1727年、ドイツのヘルンフートで起こったことです。モラビア兄弟団の若い指導者ニコラウス・ツィンツェンドルフ伯爵がドュッセルドルフ美術館で一枚の絵を見ることになりました。ドメニコ・フェッティの作品「いばらの冠をかぶったキリスト」でした。その絵の下にはこのようなラテン語の文句が書かれていました:「Ego pro te haec passus sum, tu vero quid fecisti pro me?」(エゴ・プロ・テ・ハエク・パッスス・スム、トゥ・ベロ・クイド・フェキスティ・プロ・メ?、私はあなたのためにこの苦難を受けた。それなのに、あなたは私のために何をしたのか?)

その瞬間、ツィンツェンドルフの人生が変わりました。彼は自分の個人的敬虔と安楽な生活から抜け出し、神の国の拡張のための人生に方向転換しました。彼の導きの下、モラビア兄弟団は18世紀最大の宣教運動を起こしました。100年間、100万人当たり60人の宣教師を派遣しましたが、これは現在のプロテスタント平均の60倍に相当する数値です。

何がこのような驚くべき変化を可能にしたのでしょうか?ツィンツェンドルフが個人的信仰から共同体的使命へ、個人的救いから神の国の拡張へと観点を転換したからです。彼はもはや「私の父」ではなく「我らの父」の観点から世を見るようになりました。

愛する兄弟姉妹の皆さん、祈りの頂点は世への派遣です。そうです。私たちは派遣された所で「天にいます我らの父よ」と祈ってください。主は私たちを世に派遣されます。皆さんは礼拝の後、世に遣わされます。皆さんは神の国の大使たちです。それぞれの場所で「天にいます我らの父よ」と祈る時、皆さんは一人ではありません。皆さんの場所で神の御名を高め、御国を来らせ、御心を成し遂げることが使命です。

第一に、主の祈りは主が先に始められた祈りを続ける祈りです。 第二に、主の祈りは神が私たちをご自分の天の御座に上げてくださる祈りです。 第三に、主の祈りは個人のものではなく、共同体が共に捧げる祈りです。

愛する聖徒の皆さん、「天にいます我らの父よ」というこの祈りは、私たちの視線を上に向けさせます。私たちの狭い関心事から神の広い愛へ、私だけの必要から私たち皆の必要へ、地の問題から天の解答へと私たちを引き上げます。アーメン。

 
 
 

최근 게시물

전체 보기
「天にいます我らの父よ」

「天にいます我らの父よ」 本文:マタイの福音書6章9節 序論 1508年、教皇ユリウス2世がミケランジェロにシスティーナ礼拝堂の天井に絵を描くよう命じた時、ミケランジェロは拒否しました。自分は彫刻家であって画家ではないと言ったのです。しかし4年後、彼が完成させた天井画は人類...

 
 
 
三位一体を「あなた」として出会う

三位一体を「あなた」として出会う 本文:使徒行伝7章54-60節 序論:神様を「あの方」から「あなた」へ 愛する聖徒の皆さん、今あなたは何人の人と親しい関係を結んでいますか?カカオトークやLINEの友達リストを開いてみると、おそらく少なくとも数十人から多くは数百、数千人がい...

 
 
 
聖霊によって示された十字架の知恵(第一コリント2:10~16)- 要約版

序論 同じ十字架を見ても、ある人は「愚かだ」と言い、ある人は「神の知恵だ」と言います。なぜこのような違いが生まれるのでしょうか?その秘密はまさに聖霊様にあります。 1741年、ジョナサン・エドワーズ牧師が静かに原稿を読んだだけの説教で、聞いていた人々が涙を流し「イエス様、私...

 
 
 

Comments


bottom of page