三位一体が開く、救いの「今日」
- rlxonorg
- 5월 31일
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聖書:ルカの福音書 4:16–21 | 主題:三位一体主日
序論 「三位一体」という言葉を聞くと、難しい、複雑だ、神学者だけが知る話だ——そう感じる方もいるかもしれません。しかし今日の聖書箇所は、三位一体が堅苦しい教理ではなく、生きた救いの物語であることを示しています。
2000年前のある安息日、人口400人ほどの小さな町ナザレの会堂です。この町で育った青年イエスが戻ってきて、イザヤ書の巻き物を開きます。
「主の霊がわたしの上にある。貧しい人々に福音を伝えるため、主はわたしに油を注がれた。捕らわれている人に解放を、目の見えない人に目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身にし、主の恵みの年を告げ知らせるために、わたしを遣わされた。」(ルカ4:18–19)
巻き物を閉じたイエスは座られます。全員の目が注がれます。そして一言、こう宣言されます。
「この聖書のことばは、あなたがたが耳にしたこの瞬間に成就しました。」(ルカ4:21)
この一文の中に、三位一体の神による救いの物語がすべて込められています。遣わされた御父、来られた御子、臨まれた聖霊——三つの位格が一つの目的に向かって共に働いておられます。
1. 遣わされた御父
イザヤ61章の本文には「わたしを遣わされた」という言葉があります。遣わされたということは、遣わした方がおられるということです。イエスは自ら来られたのではなく、父なる神に遣わされてこの地に来られました。これが三位一体の物語の出発点です。
遣わすとは、単なる命令ではありません。遣わす者の意志と心が、遣わされた者の内に宿ることです。御父が御子を遣わされたのは、罪人を愛しておられるからです。その目的は、貧しい者、心の傷ついた者、とらわれた者、虐げられた者を癒し、解放し、自由にすることです。遣わされた御子の内には、この御父の心がそのまま込められています。
ルカ15章で私たちは、帰りを待ち続ける父の姿を知っています。しかし今日の本文の御父は、待つだけではありません。ご自分の御子を、失われた者たちのもとへ直接遣わされます。三位一体の御父・御子・聖霊は本質において一つであるため、遣わされた御子は完全に御父の心をもって私たちに向き合われます。
神様は自分に関心がないだろうと感じている方はいませんか。自分は小さすぎて、失敗しすぎて、神様には相手にされないと感じている方はいませんか。御子が遣わされた先の人々の名前をもう一度見てください。完璧な人々ではありません。傷つき、疲れ果て、閉じ込められた人々です。御父はあなたのことをご存じです。そして、あなたのために御子を遣わされました。
2. 来られた御子
イエスの宣言において特に注目すべき言葉があります。それは**「今日」です。ギリシア語でσήμερον(セーメロン)**と言います。ルカの福音書においてこの言葉は、単なる日付の表現ではありません。救いが今ここで実際に起きているという宣言です。
イザヤ61章は700年前に記された、メシアに関する預言の言葉です。イスラエルの人々はこの言葉を読みながら、いつか来られる救い主を待ち望んでいました。そのナザレで誰もが顔を知っているあの大工の息子が、この言葉を読んで「この預言が、今ここで、あなたがたの前で成就しました」と言うのです。つまり「わたしこそがこの預言の主人公、メシアです」という宣言です。どんな偉大なラビでも決して口にできない言葉です。
ルカの福音書の中でこの「今日」が響く場面を見てみましょう。
「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」(ルカ2:11)
「今日、救いがこの家に来た。」(ルカ19:9)
「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)
イエスのおられるところ、どこにも「今日」があります。救いはいつかではありません。とらわれた者の解放、虐げられた者の自由、貧しい者への福音——それらはすべて、イエスと出会うその「今日」に始まります。今この礼拝の場にイエス・キリストがおられると信じるなら、今この瞬間こそがその「今日」です。
3. 臨まれた聖霊
イザヤ61章の最初の一文はこう始まります。「主の霊がわたしの上にある。」 イエスの物語は聖霊から始まります。御父が遣わし、御子が来られ、そのすべての働きは聖霊の力によって行われました(ルカ4:14)。
イエスは神の御子でありながら、この地で聖霊に依り頼んで働かれました。祈られ、聖霊を求められました。バプテスマを受けられた日、聖霊が鳩のように臨み、御父の声が響きました。「あなたはわたしの愛する子。」(ルカ3:22)それが公生涯の出発点でした。
そして五旬節、その聖霊が今やすべての信者に臨まれます。特別な人だけではありません。長く信仰を持つ人だけでもありません。今日初めて礼拝に来られた方にも、同じ聖霊が臨まれます。
これが私たちに意味することは三つあります。
第一に、私たちは独りではありません。 祈る言葉が見つからないときも、聖霊が言葉にならないうめきをもって、私たちのために執り成してくださいます(ローマ8:26)。
第二に、イエスの使命が私たちを通して続きます。 貧しい者に福音を伝え、傷ついた者を慰め、虐げられた者の傍らに立つこと——これが聖霊を受けた私たち全員の使命です。隣の人の話を聞くこと、大変そうな人に「一緒にご飯を食べませんか」と声をかけること、そのような小さな行為が、イザヤ61章の使命が今日成就される形です。
第三に、この共同体が聖霊の証しです。 韓国人と日本人が共に同じ神様を呼び求めるこの場は、私たちが作り出したものではありません。使徒の働き2章の五旬節のように、聖霊が臨まれたからこそ実現しているのです。
結論
ナザレの会堂のあの「今日」は終わっていません。イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません(ヘブル13:8)。
遣わされた御父、来られた御子、臨まれた聖霊——三位一体の神が今日も私たち一人ひとりに向かって働いておられます。
重荷を背負っておられる方へ、御父はあなたのために御子を遣わされました。 長らく心が傷ついておられる方へ、御子が今日もこう語りかけておられます。「恵みの門は、今も開かれています。」 独りだと感じておられる方へ、聖霊が今この瞬間も、あなたのそばに、あなたの内におられます。
三位一体は難しい教理ではありません。2000年前のナザレの会堂で始まったあの「今日」が、今この場でも続いています。
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