善を悪と呼ぶとき、永遠に赦されない理由
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- 6월 7일
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本文:マタイの福音書12章22節〜37節
序論 | 同じ光を見ても、異なる反応
1865年4月14日の夜のことです。アメリカ・ワシントンのフォード劇場で、エイブラハム・リンカーン大統領が暗殺されました。引き金を引いたのは、俳優のジョン・ウィルクス・ブースという人物です。驚くべきことは、ブースはリンカーンを心から悪人だと信じていたという点です。奴隷制廃止のために戦ったリンカーンを、彼はアメリカの敵と呼びました。歴史が善と記す人物を、彼は悪と呼んだのです。そしてその判断のもとに、引き金を引きました。
善を悪と呼ぶとき、人間はどこまでいけるのか。今日の本文を通してこのことを深く考え、聖霊の照らしを受けたいと思います。
ある人がいました。生まれながらに目が見えず、口もきけませんでした。何も見えず、何も語れない人生。その原因は、悪霊が彼を支配していたからでした。ところがイエス様が、その人を癒してくださいます。目が開かれました。唇が動きました。初めて光を見、初めて声を上げたのです。
そのとき、悪霊につかれた、目の見えない、口のきけない人が連れてこられた。イエスはその人をいやされたので、口のきけない人がものを言い、目も見えるようになった。(マタイ12:22)
その場でこの奇跡を目撃した人々はこう問いました。
「この人はダビデの子ではないか?」
イスラエルの民が何百年もの間待ち望んでいたメシア、神が遣わされる救い主——ついにその方がおいでになったのではないかと、彼らの胸は高鳴り始めました。
ところが、同じ奇跡を目の当たりにしたパリサイ人たちは、まったく逆のことを言い放ちました。
「この人は悪霊どものかしら、バアル・ゼブルの力によらなければ、悪霊どもを追い出すことはできない。」(マタイ12:24)
同じ奇跡です。同じ力です。それなのに、一方からは「ついにメシアが来られた」という畏敬の念があふれ出し、もう一方からは「あの人はサタンの力を借りた者だ」という非難が浴びせられました。
なぜ同じ光を見ながら、ある者は礼拝し、ある者は呪うのか。そしてその呪いが、なぜ永遠に赦されない結果をもたらすのか。これが今日の本文が私たちに投げかける、最も重く、緊急な問いです。
1. 神の国はすでに来ています(22〜30節)
1)この奇跡は、単なる癒しではありませんでした
イエス様が悪霊を追い出し、病人を癒されるわざは、単に痛む人を回復させる医療的行為ではありませんでした。パリサイ人たちの非難に答えられたのち、イエス様はこう宣言されます。
「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところに来ているのです。」(マタイ12:28)
最も重要な言葉は「すでに来ている」です。神の国は、遠い将来に来る何かではありません。イエス様のわざを通して、今この瞬間に、すでにこの地に入ってきているのです。
こう考えてみてください。長い間、真っ暗な部屋がありました。そこに誰かがドアを開け、光を差し込みました。光が入ったその瞬間、闇は力を失い始めます。イエス様が悪霊を追い出されたその瞬間が、まさにそれでした。神の国の光が、サタンの闇の中へと突き破って入ってきたのです。ところが、誰かはその光が嫌で、ドアをバタンと閉めてしまいました。
2)強い者はすでに縛られています
「強い人の家に押し入って、その家財を奪い取ることは、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてできましょう。縛り上げてはじめて、その家を略奪できます。」(マタイ12:29)
サタンは強い。私たちの力では到底敵いません。しかしイエス様は、すでにその強い者を縛り上げられました。サタンに捕虜にされていた人々を——今日の目が見えず口がきけなかったあの人のように——一人ひとり救い出しておられます。これが、私たちが仕えるイエス・キリストです。サタンよりも強い方、すでに勝利された方、その勝利を今日も私たちの生涯の中で実現し続けておられる方です。
3)この戦いに中立はありません
「わたしの味方でない者はわたしに反対する者であり、わたしとともに集めない者は散らす者です。」(マタイ12:30)
神の国がこの地に入ってきた以上、「私はただ見ているだけでいい」という態度はあり得ません。イエス様の側に立つか、さもなければ結果として反対側に立つか——この二つしかありません。パリサイ人たちは反対側を選びました。そしてその選択の行き着く先に、イエス様はこの説教で最も重い言葉を語られます。
2. 聖霊への冒涜とは何か(24・31〜32節)——核心
「だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に対する冒涜は赦していただけません。また、人の子に逆らうことばを語る者でも赦していただけます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世であっても、次に来る世であっても、赦していただけません。」(マタイ12:31〜32)
1)まず、恐れておられる方々へ
この言葉を聞いてこう思われる方はいらっしゃいますか。「自分は過去に神様をあまりにも多く逆らってきた。もしかして自分もこの罪を犯したのではないか」と。まずこのことをお伝えします。イギリスの説教者チャールズ・スポルジョンはこんな言葉を残しています。「赦されない罪を犯したのではないかと恐れている人は、まさにその恐れ自体が、その罪を犯していない証拠だ。」聖霊が心を動かして恐れを感じさせておられるということ自体が、その心がまだ神様に向けて開かれているという証拠だからです。
この警告は、弱い信者のためのものではありません。この言葉は明らかに、神のみわざを目の当たりにしながら、それをあえてサタンのわざだと断じたパリサイ人たちに向けられたものです。罪を恐れている人、赦されたいと願っている人は、この罪とは遠いところにいます。
2)聖霊冒涜の本質:知りながら行う選択
イエス様は二種類の罪を区別されます。「人の子に逆らうことば」と「聖霊を冒涜すること」です。
「また、人の子に逆らうことばを語る者でも赦していただけます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世であっても、次に来る世であっても、赦していただけません。」(32節)
人の子に逆らうことばは赦されます。イエス様のアイデンティティがまだ完全には明らかでなかった状況で、無知や誤解から反対したのであれば、立ち返ることができました。パウロはかつて、イエス様を信じる人々を捕らえ牢に入れ、殺すことに率先していた人物でした(使徒8:1〜3)。彼はイエス様を知らなかったがゆえに、そのようなことをしたのです。しかしダマスコへの途上で復活されたイエス様と出会い、完全に立ち返って最も偉大な主のしもべとなりました(使徒9:1〜19)。無知の中での逆らいは、立ち返ることができたのです。
しかし、聖霊への冒涜は違います。パリサイ人たちは目の前で、目の見えない者が見えるようになり、口のきけない者がものを言うようになるのを、はっきりと見ました。誰がどう見ても善いことでした。誤解の余地はありませんでした。それでも彼らは「これはサタンのわざだ」と宣言しました。
これが聖霊冒涜の本質です。明らかに善であると知りながら、あえてそれを悪と選ぶことです。イザヤ預言者がずっと以前に、こう警告しました。
神がなされたこと、力をもってはたらかれたことであるにもかかわらず、「偶然だ、そんなことは自然の中でいくらでも起こりえる」という反応もまた、霊的に愚かな思いです。
「わざわいだ。悪を善、善を悪と言い、闇を光、光を闇とし、苦いものを甘く、甘いものを苦くする者たちは。」(イザヤ5:20)
パリサイ人たちは、この警告が自分たちに当てはまるとわかっていたでしょう。彼らは毎日イザヤを読んでいた人々でしたから。しかし彼らは、自分たちがまさにその警告の対象であることを認めませんでした。
3)なぜこの罪だけは永遠に赦されないのか
いよいよ私たちは最も重要な問いに至りました。なぜ、聖霊に逆らうことを言うこの罪だけは、永遠に赦されないのでしょうか。
神様がこの罪だけを特別に憎んで、赦しを拒んでおられるのではありません。問題は、その罪に陥った人自身にあります。
深刻な病にかかった人がいます。ところがこの人は、自分が病気だという事実を頑なに拒みます。病院へ行きません。医者の言うことを聞きません。治療を受けられないのは、治療薬がないからではありません。自分が病気だということを認めないからです。
赦しも同じです。赦しは悔い改めを通して受けます。自分が過ちを犯したと認め、神様のもとに出て行くことです。しかし善を悪と呼ぶほど価値観が完全に逆転した人は、もはや何が罪なのかさえ認識できません。神の善さをサタンのものと呼んだ人が、どうやってその神に赦しを求めて出て行けるでしょうか。
この罪が赦されない理由は、神様が赦しの門を閉じられたからではありません。その人自身が、悔い改めることのできる能力を、自分の手で破壊してしまったからです。
もう一度強調します。今この御言葉を聞きながら「自分はどうなのか、赦されない罪を犯したのではないか、神様がなされたことに神様の栄光を帰さなかったのではないか」と悔い改めておられるなら、そのこと自体がすでにこの警告の対象ではないという証拠です。聖霊様が今この瞬間、あなたの心をノックしておられるのです。
3. 言葉は心を証言します(33〜37節)
「まむしのすえたちよ。あなたがたは悪い者たちなのに、どうして良いことが言えますか。心に満ちていることを口が語るのです。」(マタイ12:34)
1)木は実によってわかります
イエス様は今、論争の焦点をパリサイ人たちの内面へと移されます。良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結びます。その木がどんな木かを知りたければ、実を見ればわかります。
イソップ寓話にこんな話があります。旅人が道を歩いていると、凍えた蛇を見つけました。かわいそうに思った旅人は、蛇を胸に抱き、体温で温めてやりました。ところが体が温まるやいなや、蛇は旅人を咬みました。旅人が「あなたを助けたのになぜ咬むのか」と問うと、蛇はこう答えました。「私は蛇です。これが私の本性です。」本性は、状況が変わっても変わりません。心の中に何があるかが、結局は行動として現れます。
パリサイ人たちの口から出た言葉——「イエス様はサタンの力を借りた者だ」——これが彼らの実でした。イエス様が彼らを「まむしのすえ」と呼ばれたのは、単なる罵倒ではありません。毒を吐き出す者たちは毒を蓄えている者たちであるという、正確な診断でした。
2)心の倉と益のない言葉
「良い人は、良いものを蓄えた心から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを蓄えた心から悪いものを取り出します。」(12:35)
「わたしはあなたがたに言います。人はしゃべるだけの無益なことばをみな、さばきの日には申し開きをしなければなりません。あなたは自分のことばによって義とされ、自分のことばによって罪ありとされるのです。」(12:36〜37)
私たちの心は倉のようなものです。その倉の中に何を蓄えてきたかによって、口から出る言葉が決まります。神の御言葉を蓄えてきた心からは、それが出てきます。しかし不満と高慢と敵意を蓄えてきた心からは、結局それがあふれ出します。
36節の「無益なことば」は二つのことを指します。一つは、神との関係において霊的に怠惰な人から出てくる、中身の空った言葉です。もう一つは、口では告白しながら行動が伴わない、偽善的な空言です。「主よ、主よ」と言いながら、実際の生涯ではその言葉を守らないことです。
タルムードにこんな話が伝えられています。あるラビが市場で物を売っている人に尋ねました。「あなたは何を売っているのですか。」その人は答えました。「私は命と死を売っています。」ラビが驚いてよく見ると、その人は舌を売っていました。箴言の御言葉にあるように「命と死は舌の力にある」(箴言18:21)——私たちの言葉は単なる音ではありません。それは、私たちの内に何があるかを示す窓なのです。
さばきの日に私たちの言葉は、私たちの心の真実を証言する決定的な証拠となります。パリサイ人たちが吐き出した「バアル・ゼブル」という言葉は、単なる非難ではありませんでした。それは、彼らの心の中に神への深い敵意が蓄積されていたことを、自ら告発する証言でした。その言葉によって彼らは、自分自身を罪ありとすることになります。
愛する皆さん、今日あなたの口からどんな言葉が出ていますか。その言葉が、あなたの心の倉の中に何が蓄えられているかを示しています。
結論 | それでも——赦しの門は開かれています
今日、私たちは重い御言葉を聞きました。
善を悪と呼び、神の明白な救いのわざをあえて拒み、神が遣わされた人々を拒むとき——その罪は、この世においても、来たる世においても赦されません。なぜならその状態に陥った人は、自ら悔い改めることのできる能力を破壊してしまうからです。
しかし今日、この御言葉をここで終えてしまうなら、私たちは最も大切なことを見逃すことになります。
警告の後にある招き
イエス様がこの警告をされる理由は何でしょうか。断罪するためではありません。立ち返ることを望んでおられるからです。
「神である主のことば——わたしは、悪者が死ぬことに、少しでも喜びを感じるだろうか。彼がその歩みから立ち返ることにより、生きることを、喜びとしないだろうか。」(エゼキエル18:23)
今日ここにおられるすべての方に申し上げます。長く信仰を持ってこられた方も、今日初めて来られた方も、信仰とは何かまだよくわからないお子さんや青少年の方も——皆さんすべてに、立ち返る時間がまだあります。
赦されない罪は、自ら赦しを拒む頑なさの中にあります。今この御言葉を聞きながら自分の心を振り返っておられる皆さんは——その頑なさからすでに解き放たれています。聖霊様が今この瞬間、あなたの心をノックしておられるのです。
聖餐の卓に来てください
間もなく私たちは共に聖餐にあずかります。聖餐とは何でしょうか。私たちが赦される資格を持たないにもかかわらず、イエス・キリストがご自身の体を裂き、血を流すことによって、その赦しを完成してくださったことを——私たちの目で見て、手で受け、口で食べ、全身で経験する恵みの場です。
パリサイ人たちは、神の国の臨在を両目で見ながら、それを呪いました。しかし私たちは今日、その神の国の臨在の前に——裂かれたパンと注がれた杯の前に——出て行きます。
今、心の中を見てください。そこに何が蓄えられていますか。誰かへの憎しみがありますか。神への恨みがありますか。今日この聖餐の前でそれを下ろしてください。そしてイエス様の体と血が示す、その完全な赦しをもう一度受けてください。
善を悪と呼ぶとき、永遠に赦されないと言いました。しかし私たちは今日、その善——イエス・キリスト——の前に出て行きます。その方を善と告白し、その方の恵みを受け取るこの場こそが、赦された者の場です。
天の父なる神様、今日この重い御言葉を私たちに与えてくださいました。私たちの心を照らし、私たちの内に蓄えられたものを清めてください。聖霊のわざを見ながらそれを拒む頑なさから私たちを守り、いつも主の善さを善と呼ぶことのできる目と唇を与えてください。イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。
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