top of page

「敵のない神の国」の詳細な要約


はじめに

2015年6月、アメリカのサウスカロライナ州チャールストンの教会で、白人青年が黒人信者9人を殺害するという悲劇が起きました。しかし、犠牲者の家族たちは法廷で驚くべき反応を示しました。彼らは加害者に「神があなたを許されるように、私もあなたを許します」と言ったのです。これは、まるで彼らが別の国に属しているかのようでした。実際、彼らは神の国に属するクリスチャンだったのです。

今日、私たちはイエス様の山上の説教の中でも最も挑戦的な教えの一つ、マタイ5:43-48の「あなたの敵を愛しなさい」という御言葉について考えます。この命令は私たちの自然な本性と完全に対立しており、「理想的すぎる」「不可能だ」と感じさせるものです。しかし、これは単なる道徳的命令ではなく、「来たるべき神の国」の原理であり、聖霊の力によってのみ可能となるものなのです。

四つの真理

1. 本来の創造には敵がいませんでした(43-44節)

イエス様は当時の人々が理解していた「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎みなさい」という解釈に挑戦されました。「隣人を愛する」という命令はレビ記にありますが、「敵を憎む」という直接的な命令は旧約聖書にはありません。これは当時のユダヤ人が「隣人」を同じ民族に限定して解釈した結果でした。

創世記1-2章を見ると、最初の創造において、世界には敵という概念自体が存在しませんでした。アダムとエバはお互いを敵と見なさず、すべての被造物と調和して生きていました。しかし、創世記3章で人間の罪によってすべての関係が壊れ始め、人間は神との関係、人間同士の関係、自然との関係において敵対関係に入りました。

敵の存在は神の創造の意図ではなく、堕落した世界の副産物です。ですから「敵を愛しなさい」という命令は、単に道徳的基準を高めるのではなく、神の創造秩序の回復を目指すものなのです。私たちは敵を愛することによって、本来の創造の調和と平和をこの世界に部分的に回復させるという革命的な行動を行うのです。

2. キリストにあって私たちは新しい創造の市民となりました(45節)

イエス・キリストは単なる倫理の教師ではなく、新しい創造を始められた方です。私たちがキリストを受け入れると、新しい被造物、新しい国の一部となります。コリント第二5:17は「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しい創造物です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と宣言しています。

イエス様は45節で、敵を愛する者たちを「天にいますあなたがたの父の子どもたち」と呼ばれました。これは上から生まれ変わった新しい国の一員となったことを意味します。神は善人にも悪人にも区別なく太陽と雨を与えられます。同様に新しい創造においては、民族、階級、性別の区別が崩れ、「友」と「敵」の区別も消えるのです。ガラテヤ3:28が「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです」と言うように。

しかし、この新しい創造の市民として生きることは容易ではありません。私たちはまだ崩れた秩序の世界の影響下にあり、内側には敵を生み出す古い自我が残っています。敵を愛するという命令は自然な本性や世の価値観と完全に反対です。しかし、神は私たちに聖霊を送ってくださいました。ローマ5:5にあるように「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれている」のです。敵への愛は人間の能力では不可能ですが、内に住まわれる聖霊の力によって可能となります。

3. 新しい創造の生活はこの世の方法を超越します(46-47節)

イエス様は堕落した世界の方法と新しい創造の方法を対比されました。「自分を愛してくれる者を愛したところで、何の報いがあるでしょうか」「自分の兄弟にだけあいさつしたところで、どこがすぐれているでしょうか」と問いかけられます。

世の中のやり方は相互性に基づいています。「あなたを愛する者を愛する」「あなたの兄弟だけに挨拶する」のは、「Give & Take」の原理であり、自己保護と自己利益のためのアプローチです。イギリスの神学者ジョン・ストットは「すべての人間の愛は、最も高貴なものでさえ、ある程度は自己利益という不純物に汚染されている」と言いました。

しかし主は「より優れた義」を求められます。それは私たちの敵への愛が相手の反応に依存しないということです。彼らが私たちの愛を受け入れなくても、あるいは迫害し続けても、私たちは愛し続けるのです。これは私たちの行動が相手の反応ではなく、神の国の本質から生じるからです。

ただし、敵を愛することは真理の妥協を意味しません。愛はときに真理を語る勇気を要求します。しかし、その真理は常に愛の中で、相手の回復を願って伝えられるべきです。

実際には、敵への愛は様々な形で現れます:家庭では批判した家族のために祈り、職場では妨害する同僚に親切にし、教会では対立している人と和解し、社会では異なる見解を持つ人々を尊重し、国際的には敵対的な国の人々のために祈り、助けるのです。このように、新しい創造の市民は世の中のやり方を超越する「より優れた義」を実践し、それは相手の反応に関係なく継続されます。

4. 敵への愛は新しい天と新しい地を先取りします(48節)

48節でイエス様は「あなたがたも完全でありなさい」と命じられますが、これは罪のない完璧さではなく、愛の包括性と完全さを意味します。ルカ6:36では「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深くありなさい」と表現されています。

この完全さは神が最終的にもたらされる新しい天と新しい地の特性です。ヨハネの黙示録21:1-5では、新しい創造において「もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない」世界が描かれています。イザヤ11:6-9は「狼は子羊とともに宿り」と描写し、自然界にさえ敵対関係がない世界を予見しています。

私たちが敵を愛するとき、この未来の約束を今ここに部分的に実現させているのです。この概念は「先取り」(prolepsis)と呼ばれます—未来の現実が現在に部分的に実現されることです。マーティン・ルーサー・キング牧師は「憎しみは憎しみを追い出すことはできない。ただ愛だけがそれをすることができる」と言いました。

敵への愛は私たちが永遠に生きる神の国の生き方を今訓練することでもあります。ペテロ第二3:13にあるように「私たちは、神の約束に従って、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます」。この訓練は容易ではなく、時に不可能に感じられますが、聖霊の助けを求めて「主よ、私の中にある憎しみを愛に変えてください」と祈るなら、驚くべき変化を経験するでしょう。

実践的適用:香木になる

フランスの画家ジョルジュ・ルオー(1871-1958)は、イエスの死を連想させる作品に「香木は自分を切る斧の刃にさえも香りをつける」と記しました。想像してみてください—鋭い斧が香木を切り付けるとき、その木は抵抗するのではなく、傷つける斧にさえ香りを付けるのです。

これは私たちの自然な反応とは正反対です。通常、私たちは傷つけられると仕返しをしたくなります。しかしイエス様は十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは自分が何をしているのか分からないのです」(ルカ23:34)と祈られました。

私たちが敵の斧で切られるとき、最初にすべきことは聖霊の助けを求め、キリストを黙想することです。そうしなければ、内側の苦い毒が出てきてしまいます。ガラテヤ2:20は「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」と言っています。

私たちの決断

マタイ5:43-48を通して見てきた四つの真理をまとめると:

  1. 敵への愛は本来の創造の調和と平和を部分的に回復させます。

  2. 新しい創造の市民として、聖霊の力によって敵への愛を実践します。

  3. 「より優れた義」は相手の反応に関係なく継続されます。

  4. 敵への愛によって、私たちは新しい天と新しい地を先取りします。

今日、私たちは決断を迫られています。世の中のやり方で生きるのか、それとも神の国の市民として生きるのか。敵を憎んで復讐するのか、それとも香木のように敵を愛して赦すのか。

次のように祈りましょう:「主よ、私を来たるべき神の国の市民らしく生かしてください。私の中にある憎しみを愛に変えてください。敵に切られるたびに聖霊の助けを求め、キリストを黙想できますように。私の中から苦い毒ではなく、キリストの香りが出るようにしてください。」

このように生きるとき、私たちは世界に神の愛を示す強力な証人となります。人々は私たちを通して神の国の現実を見るでしょう。そして、私たちの敵さえもキリストの愛に引き寄せられるかもしれません。

キリストにあって、私たちはもはや敵が存在しない国の市民です。その国の現実を私たちの生活を通して現しましょう。イエス様のように「自分を切る斧の刃にさえも香りをつける香木」として生きることを主の御名によって祝福します。

 
 
 

최근 게시물

전체 보기
敵のない神の国

敵のない神の国( マタイの福音書 5:43-48) 序論:想像できない愛の力 2015年6月17日、アメリカのサウスカロライナ州チャールストンのエマニュエルアフリカンメソジスト教会で衝撃的な悲劇が起きました。21歳の白人青年、ディラン・ルーフが聖書研究会に参加していたアフリ...

 
 
 
信じる者は弟子でなければなりません

序論 愛する聖徒の皆さん、今日私は一つの重要な質問から御言葉を始めたいと思います。皆さんは自分自身をイエス様の弟子だと思っていますか?おそらく、ある方々は「弟子」という言葉に少し戸惑いや負担を感じるかもしれません。私たちはよく自分を「信者」や「教会員」と呼びますが、**「弟...

 
 
 
復活の信仰と十字架の生き方(エペソ2:10-11)

復活の信仰と十字架の生き方(エペソ2:10-11) 序論:復活祭の真の意味 愛する信徒の皆さん、私たちは復活主日を過ぎて、今、復活の意味をより深く黙想する時間を持とうとしています。キリスト教の暦において、イエス・キリストの十字架を深く黙想する四旬節があるように、復活に関する...

 
 
 

Comments


bottom of page