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復活の信仰と十字架の生き方(エペソ2:10-11)

復活の信仰と十字架の生き方(エペソ2:10-11)

序論:復活祭の真の意味

愛する信徒の皆さん、私たちは復活主日を過ぎて、今、復活の意味をより深く黙想する時間を持とうとしています。キリスト教の暦において、イエス・キリストの十字架を深く黙想する四旬節があるように、復活に関する節期もあります。それがまさに五旬節です。イエス様が復活された後、50日間、五旬節が来るまで復活の喜びを分かち合うことが教会の伝統です。

私たちの信仰において十字架の苦難のメッセージは非常に重要ですが、それに劣らず重要なのが復活です。復活のない十字架は、実際には私たちに希望をもたらしません。イエス様が十字架で叫ばれた「完了した」という言葉が私たちに効力をもたらし、私たちの人生の意味となり、力となるためには、キリストが復活しなければなりません。十字架の栄光は復活です。

今日、私は三つの観点から復活信仰について考えてみたいと思います。第一に、霊的な死と復活の実態、第二に、キリストとともに生かされた者の特徴、そして第三に、復活信仰と十字架の生き方の関係です。この御言葉を通して、私たちの人生が復活の力によって新しくされることを願います。

I. 霊的な死と復活の実態

1. 霊的な死の本質と特徴

イエスを信じる前と後では明らかに違いがなければなりません。何が違うべきでしょうか?永遠の命があるかないかの違いです。

聖書は語ります。イエスを信じない人々は霊的に死んでいる状態です。霊的な死とは何でしょうか?これは単なる比喩や抽象的な概念ではありません。聖書は明確に「罪と過ちによって死んでいた」と私たちに宣告します。肉体的な死の特性を考えてみてください。死んだ人にはどのような特徴がありますか?

第一に、死んだ人は周囲の環境に反応しません。どんなに大きな音がしても、どんなに美しい光景が広がっても反応しません。霊的に死んでいる人も同じです。神の美しさと天国の栄光と地獄の恐ろしさにも反応することができません。霊的な耳と目が閉じているため、神が与えられた恵みも分からず、霊的な危険も感知できません。

第二に、死んだ人は自分自身で何もすることができません。霊的に死んでいる人は、真の祈りも、心からの賛美も、御言葉を通して恵みを受けることもできません。霊的な活動を自分自身でできないのです。

皆さん、これが復活がなぜそれほど重要なのかを示す最初の理由です。死者は自らよみがえることができないからです。霊的な復活は、私たちの行為や決断ではなく、ただ神の働きによってのみ可能です。

2. イエス・キリストを通しての霊的な復活

霊的に死んでいる者に最も必要なものは何でしょうか?より良い環境でしょうか?より多くの教育でしょうか?勇気や動機づけでしょうか?いいえ。死者に必要なのはただ命です。

エペソ2章4-5節でパウロはこう宣言しています。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過のために死んでいた私たちをキリストとともに生かし(あなたがたは恵みによって救われたのです)」

注目すべき点は、私たちの復活が「キリストとともに」行われるということです。私たちはイエス様の復活に参与するのです。彼の苦しみと死が私たちのためであったように、彼の復活が私たちの復活となります。これは実際の霊的な結合を通じて信じる者のものとなります。

皆さん、キリスト教の福音が他の宗教と区別される最大の特徴はまさにここにあります。他の宗教は一般に、人間がどうすればより良い人間になれるか、どうすればより善い人生を送れるかに焦点を当てています。しかしキリスト教は死者を生かすことに焦点を当てています。福音は単なる道徳的な改善ではなく、霊的な復活です。

II. キリストとともに生かされた者の特徴

キリストとともに命を受けた聖徒の三つの特徴についてお話しします。

1. キリストとの神秘的な結合

キリストとともに生かされた者の最初の特徴は、キリストとの神秘的な結合です。エペソ2章5節には「罪過のために死んでいた私たちをキリストとともに生かし」と記されています。注目すべき点は「ともに」という言葉です。私たちは単に命を得たのではなく、キリストとつながった、結合された命を得たのです。

イエス様はヨハネ15章でこの結合をぶどうの木と枝の関係として説明されました。「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」(ヨハネ15:5)。この例えは私たちの信仰生活の核心を示しています。

ぶどうの木と枝の関係から、私たちは三つの重要な真理を学びます:

第一に、枝はぶどうの木から命を得ます。枝は自ら命を生み出すことができません。同様に、私たちはキリストから霊的な命を受けます。

第二に、枝はぶどうの木に常につながっていなければなりません。枝がぶどうの木から離れると、枯れて死にます。私たちもキリストとの継続的な関係を維持しなければなりません。

第三に、枝の目的は実を結ぶことです。同様に、キリストと結合した私たちの人生は実を結ばなければなりません。

繰り返しますが、この神秘的な結合は単なる比喩ではなく霊的な現実です。ローマ6章4-5節でパウロはこの結合をバプテスマの象徴を通して説明します:「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです...神の栄光によってキリストが死者の中からよみがえられたように、私たちも、また新しいいのちに生きるためです。」

バプテスマは単なる儀式ではなく、キリストとの結合を目に見える形で示す行為です。水に沈むことはキリストとともに死に、葬られることを、水から上がることはキリストとともによみがえることを象徴しています。

2. 神を愛するようになる

キリストとともに生かされた者の二番目の特徴は、神に対する新しい愛です。19世紀の偉大な伝道者D.L.ムーディの経験はこれをよく示しています。

ムーディは幼い頃から教会に通っていましたが、神の恵みを深く経験していませんでした。彼はボストンで靴磨きの仕事をしていたとき、ある日、教会学校の教師が訪れて福音を伝えました。彼はすでにイエスを信じていましたが、その福音を聞きながら霊的な気づきと回復を経験することになりました。

ムーディはその時を振り返ってこう言いました:「その日の前には、神への愛がありませんでした。しかし、その日以来、私は神を愛さない日が一日もありませんでした。」

霊的に生き返ると、神を愛するようになります。なぜでしょうか?エペソ2章4節にその答えがあります:「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに...」

神が私たちを生かされた理由は、私たちを愛しておられるからです。私たちが霊的な復活を経験すると、神の愛を実存的に経験します。そして、その愛に自然に応答するようになります。1ヨハネ4章19節はこれを簡潔に表現しています:「私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。」

現代の多くのクリスチャンは、信仰生活を義務と規則の問題として見ています。しかし、真の信仰は愛の関係です。クリスチャンの人生において神への愛がないなら、それは復活の現実を経験していないというサインかもしれません。

3. キリストに似ていく

三番目の特徴は、徐々にキリストに似ていくことです。ピリピ3:21はこう言います。「この方は、万物をご自身に従わせることのできる働きによって、私たちの卑しい体を、ご自分の栄光のからだと同じ姿に変えてくださいます。」

復活した者の人生は停滞していません。それは絶え間ない変化のプロセスです。この復活に含まれる変化は二つの方向で起こります:

第一に、内面的な変化です。私たちの価値観、動機、欲求が変化します。以前は自己中心的だった心が徐々にキリスト中心的に変わっていきます。

第二に、外的な行動の変化です。内面が変われば行動も自然に変わります。キリストに似ていくということは、彼のように考え、彼のように感じ、彼のように行動することを意味します。

もちろん、この変化は段階的です。私たちは最初から完全にキリストに似ているわけではありません。しかし、真の復活の命を持つ人は、時間が経つにつれて次第にキリストに似ていきます。キリストに似ていくということは、天国とかなり調和する人になっていくということです。

あなたの人生はどうですか?1年前より今、もっとキリストに似ていますか?

III. 復活信仰と十字架の生き方

そのため復活信仰の最も核心は何でしょうか?死んで地獄に行かない程度でしょうか?いいえ。キリストに従い十字架の生き方をするようになることです。キリストとともに命を受けた聖徒のすべての特徴は、十字架の生き方を生きるときに現れます。復活信仰を持つ聖徒は、十字架の生き方を通して復活の恵みを日々享受しながら生きていくことになります。

1. 復活の逆説的な原理:死を通しての命

復活信仰の最も逆説的な側面は、命が死を通して来るということです。マタイ16章25節でイエス様はこう言われました:「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者はそれを得るのです。」

この原理は自然界でも見ることができます。イエス様はヨハネ12章24節で「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます」と言われました。種は死ななければ新しい命を生み出すことができません。

この原理は私たちの霊的生活にも適用されます。パウロはガラテヤ2章20節で自分の経験をこう描写しました:「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」

この節は復活信仰の実践的な意味を完璧に要約しています。私たちが自分を否定し、十字架を負うとき、キリストの復活の命が私たちのうちに現れます。

しかし、現代文化はこれとは正反対のメッセージを伝えます。世界は「自分自身を表現しなさい」「自分の幸せを追求しなさい」「自分を最優先に置きなさい」と言います。

実際、多くの親が子どもたちの即座の幸福と満足のためにすべてを犠牲にします。しかし、これは本当に子どもたちにとって良いことでしょうか?自己否定と犠牲の価値を学ばなかった世代は、真の幸福を見つけることができないでしょう。

愛する皆さん、復活は霊的命の始まりですが、その命が成長するためには十字架の道を歩まなければなりません。私たちが自分を否定してキリストに従うとき、真の復活の力が私たちのうちに現れます。

2. 十字架と復活の不可分性

第二に、十字架と復活は分離できません。この二つはコインの裏表のようなものです。復活のない十字架は悲惨な敗北に過ぎません。十字架のない復活は私たちの状況と無関係な超自然的な出来事に過ぎません。

パウロはピリピ3章10-11節でこの関係を明確に表現しました:「私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になることを目指しています。どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」

パウロは復活の力を知りたいと願っていましたが、同時にキリストの苦しみにあずかることも望んでいました。彼はこの二つが分離できないことを知っていました。復活の力は十字架の道を通して経験されるからです。

私たちはしばしば苦しみのない栄光、十字架のない復活を望みます。しかし、これは聖書的なキリスト教ではありません。イエス様は弟子たちに「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)と言われました。

これがまさに多くの現代のクリスチャンが霊的成長に困難を抱える理由です。私たちは復活の祝福は望みますが、十字架の道は避けようとします。しかし、復活の力は十字架の道を通してのみ完全に経験されることができます。

3. 復活信仰が現代世界に与える挑戦

第三に、復活信仰は今日の世界観に直接的な挑戦を提起します。物質主義、世俗主義、快楽主義が支配する時代に、復活信仰はまったく異なる価値観を提示します。

現代文化は即座の満足を追求します。「今すぐ幸せになれ」というメッセージがあらゆる場所で聞こえます。しかし、復活信仰は永遠の観点から人生を見るよう教えます。現代文化は物質的な成功を最高の価値とみなします。しかし、復活信仰は「人が全世界を得ても、自分のいのちを失ったら、何の得がありましょう」(マタイ16:26)と問います。現代文化は自分自身の能力と力を信頼するよう教えます。しかし、復活信仰は私たちが完全に神の恵みに依存していることを思い起こさせます。

イエス・キリストは十字架の恥辱と苦痛と痛みをどのように乗り越えられましたか?復活信仰によって乗り越えられました。ヘブル12:2には、「信仰の創始者また完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、恥をものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」とあります。復活信仰は十字架を忍耐させます。なぜなら、十字架が復活永遠の命につながる唯一の方法だからです。そのため、復活信仰を持つ者にとって十字架は逆説的に「喜び」となります。

結論:復活信仰によって変えられる人生

愛する信徒の皆さん、私たちは復活信仰の本質とそれが私たちの人生に与える影響について考えてきました。今、結論として、復活信仰がどのように私たちの人生を変えるかもう一度考えてみましょう。

自然界には驚くべき現象があります。ロサンゼルスのような場所では毎年山火事が発生します。この山火事が起きた地域でまた火事が起きるのを見ると不思議に思います。火事で焼けた山でどのようにすぐにまた木々が育つことができるのかという疑問が湧きました。

今回知った興味深い事実があります。一部の植物の種の中には、山火事のような極度の熱を通過してはじめて発芽する植物があるということを知りました。このような植物を「火災発芽種子」(fire stimulated germination)と呼びます。一般的には10〜20年間発芽しない種が、山火事の熱い火によって殻が剥がれ、水分と酸素が供給されることで発芽するそうです。代表的な木は皆さんがよくご存知の樫の木と松の木です。

これらの種は見た目には無生物のように硬く、10〜20年が経っても何の変化も起こらないように見えます。これはまるで私たちのようです。イエスを信じ、教会に通いながらも変わらない自分を見るとき、もどかしく感じます。これは本当に種なのか、それとも石ころなのか疑問に思うこともあります。

しかし、そのうちに復活の命が潜在していることを信じなければなりません。どんなに変わらず、砕けないように見えても、私たちの中にイエスの復活の命があります。信じる者は違います。石ではなく復活の種です。

この火災発芽種子のイメージは、私たちクリスチャンの人生を完璧に描写しています。時には私たちの人生に試練の火が必要です。苦難と逆境の火が私たちの中にある復活の種子を発芽させるからです。

あなたの人生に今どんな困難がありますか?病気ですか?経済的な困難ですか?関係の葛藤ですか?こうした困難は単に避けるべき障害物ではなく、神があなたの中にある復活の命を現す機会となるかもしれません。

チェルノブイリ原発事故地域を考えてみてください。そこは放射能のために多くの生命体が死に、奇形的に成長しました。そこは呪いの地となり、数十年間誰も入らなかったのです。しかし、驚くべきことに時間が経った後、生物たちが再びそこに戻って住み始めました。

私たち人間も同じです。罪は放射能よりも毒です。罪のために人間は美しい神のかたちを失いました。しかし、イエス・キリストの復活の命によって「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」。神のかたちが回復されました。

愛する皆さん、今、復活信仰を日常に適用しましょう。

第一に、毎朝目覚めるとき、「今日私の中でキリストが生きるように」と祈りましょう。ガラテヤ2:20の真理を毎日黙想し、適用しましょう。

第二に、誘惑と試練に会うとき、「私は罪に対して死に、神に対して生きている」と宣言しましょう。ローマ6:11の真理をつかみましょう。

第三に、関係の中で自己中心的な態度を発見したら、自分を否定し、他者を先に考えましょう。これが十字架の道であり、復活の力が現れる道です。

第四に、苦難と困難に会うとき、神がこの状況を通してどのようにあなたの中にある復活の命を成長させておられるのかを期待しましょう。

私たちはキリストと結合しているため、彼の中で享受できる豊かな恵み、今日も変わらない神の愛と憐れみと慈悲を受けて生きていくことができます。ですから十字架の霊性、復活の霊性を持って聖なる人生を送り、力ある人生を歩み、希望を持って悲しまない皆さんになることを主の御名によって祈ります。アーメン。

 
 
 

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